詩人としての今道友信先生
今道友信先生のお姿を初めて身近で拝見したのは、日本基督教団鎌倉雪ノ下教会で先生の講演会が開かれたときのことです。一九九〇年代半ばのことで、わたしは聴衆の一人として会場にいたのでした。 お近づきになったきっかけは、二〇〇四年夏に、詩誌「詩と思想」の、詩と宗教をテーマにした座談会でご一緒したことです。会場に到着すると、部屋の奥におられた今道先生は、右手を挙げ、明るい声で「神谷さん、呉先生の文章をありがとう」とおっしゃいました。ギリシア古典文学者呉茂一について書いた四〇枚ほどの拙文が載ったリトルマガジンを未知の先生にお送りしていました。呉茂一は今道先生から病床で洗礼を受けており、その事実に触れたので、先生にもお送りしていたのです。そのお礼を開口一番おっしゃったのです。
座談会が終わり、出席者で雑談をしているときに、こうした知的なサロンがあったらいいのにねえ、と真剣な表情でおっしゃったことが記憶に刻まれています。高校生のころに『愛について』『美について』を読んで感動したわたしは、二冊を一冊の上製本に自らの手で再製本して大切にしていたのですが、この座談会のときにそれを持参して、サインをしていただきました。
おもしろいと思うのは、先生との出会いを準備するかのように、わたしの周囲に今道先生を識る方々が続々と現れていたことです。カトリック哲学者吉満義彦について調べるなかで、詩人の島朝夫さんと親しくなったのですが、島さんは今道先生の親しいご友人でいらして、お電話ではよく今道先生のことが話題になりました。また、福岡の詩人有田忠郎先生からは、あるとき、九州大学に五歳年上の今道先生の講義を聴きに行ったことがあると聞かされて驚いたりもしました。一九五〇年代の終わり頃、今道先生と藤沢令夫氏が共に助教授でおられ、九大哲学科は「黄金時代」であったとか。島さんも有田先生もお亡くなりになりましたが、最近でも、新しい職場で同僚になった方が、大学院で美学を専攻し、非常勤講師として出講されていた今道先生に教わったことがあることがわかりました。また、一回り年下の友人のなかにも、今道先生のダンテ講義を聴講した人(キリスト教学専攻)や、日大芸術学部での講義に潜り込んで聴講した人(ギリシア現代詩専攻)がいます。
話が前後しますが、『知の光を求めて』にまとめられることになる自伝的文章を先生が雑誌に連載された一九九八年、わたしは文部省で働いており、慣れない仕事に気持ちが晴れない日々を送っていました。ある日、昼休みに図書室に行って、何気なく手にした「中央公論」に先生の連載を発見して驚きました。そこには、それまで知ることのなかった先生の人生の歩みが記されていたからです。 ところが、座談会でお目にかかった二年後に『遠い茜』を手にしてさらに驚いたのは、そこには知られざる詩人としての先生の世界があったからでした。『知の光を求めて』で語られていたのは、今道先生の、哲学者としての、いわば公的な側面であったことがわかりました。先生が『遠い茜』を敢えて私家版で出版されたのは、それが自らの私的な側面であると自覚しておられたからでしょう。わたしは一人の哲学者の背後に一人の詩人がいたことを知って驚いたのです。先生の言語感覚の鋭さについては、ギリシア悲劇に翻訳で親しんだ学生時代に、今道先生がお訳しになった、アイスキュロス「テーバイに向かう七将」の訳文の格調の高さから感じ取っていました。ささやかな例を挙げると、「ああ」とか「おお」とでも安易に訳されかねない感動詞を、先生は周到にも「あはれ」と訳しておられたのです。
先生の詩は、素直で、飾り気がありません。詩作が私的営みであったからでもありましょう。哲学者今道友信の分身として、詩人水原昇がいた。あるいは「すみれ会」の詩人たちがいた。その詩の世界では、空、雲、月、風、といった自然の要素や、塔、駅、橋、水車といった象徴的な構築物。あるいは小鳥や動物たちが登場します。それは、中井久夫氏の言葉を借りれば、心の「うぶ毛」を大切にするような繊細な世界だと思います(それだからこそ、「オッタヴィア!」の最終行に唐突に出現する「銃」にわたしどもは戦慄します)。この詩の宇宙は、先生が親しく接した哲学者たち――ベルリンガーもデクも、フランクルもレヴィナスも知ることがなかった世界です。先生は、フランス語やドイツ語で論文を発表しましたが、詩は日本語でしか書かず、かつまた晩年まで公開しなかったのですから。詩人としての先生を知ることは、日本語を解する人間にだけ可能なことがらなのです。
『雲のゆくおるがん』に収録された「大きな影」は、心に響く作品です。いつ頃の制作かはわかりません。しかし『遠い茜』にも『チェロを奏く象』にも収録されていないところを見ると、最晩年の作品なのかもしれません。平易な言葉で綴られていますが、深い作品だと思います。そして、もちろん、心に響く作品はこれだけではありません。
世界的な哲学者が心に響く詩を書いたというよりも、心に響く詩を書く人間が世界的な哲学を構築したというべきではないでしょうか。そして、今道先生を、生涯を通じて詩を書く人間であり続けさせたのは、錚々たるヨーロッパの哲学者たちではなく、パリの小さなレストランの母娘のような、あるいはサハラ砂漠で出会った現地人のような、名もなき人々の〈愛〉だったのではないでしょうか。
*初出:『ムネーモシュネー』20号、2013年5月