Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

富士の高嶺から見渡せば

脱中華の東南アジア史⑩モンゴル編

2018.05.06 16:51

<クビライの南海大遠征vs鄭和の大航海>

東南アジアにとって、13世紀、モンゴル軍による南侵とクビライ艦隊の南海大遠征は、歴史を揺るがす文明の衝撃だった。そして、その次にやってきた衝撃は、15世紀、永楽帝が明への朝貢を強要した「砲艦外交」、つまり武力にものを言わせて服従を迫った「鄭和の大航海」だった。

鄭和の大航海については、今の中国政府の宣伝もあって、コロンブスの新大陸発見よりはるか前の、史上初の大遠洋航海、しかも「平和外交」の象徴のような言い方をされるが、けっしてそんなことはない。

鄭和の航海は、モンゴル帝国が「遺産」として残した「海のシルクロード」をそのままたどったに過ぎず、クビライ・カーンが1世紀以上も前に行った大艦隊派遣の完全な焼き直し・模倣だった。そもそも、クビライの大元ウルス以前に、南宋の時代からムスリム貿易商・蒲寿庚らによる東南アジアやインド洋をまたにかけた交易活動がすでにあり、クビライとそのブレーンのムスリム商人らが開拓した南シナ海からインド洋、アラビア海を繋ぐ「海のシルクロード」。そしてその海のルートを活用したムスリム貿易商や使節などの数多くの航海の経験、マルコ・ポーロやイブン・バットゥータなど旅行者が残した往来の記録を含めて各地の寄港地や海上のルートに関する情報など蓄積された記録があった。それらすべての土台があってはじめて鄭和の大航海は成立したのである。つまり、鄭和はモンゴル帝国が築いたいわゆる「モンゴル・システム」に乗っかっただけにすぎなかった。

<自由で開かれた海洋政策と「一帯一路」の閉鎖性>

ところで、元朝をモンゴル平原に追いやり、自らは漢族主義・中華主義を鼓吹した明朝だが、実際には、モンゴル時代の行政組織や軍の機構をそのまま踏襲するなど、さまざまな方面で大元ウルスのパターンを引き継いでいた。永楽帝もじつは、クビライの業績については誰よりも意識し、それを超えようと努力したあとが窺える。杉山氏も「永楽帝は・・・じつは誰よりもクビライを尊敬し、その模倣につとめた。ほとんど、かれは「クビライ教」の信者であった」(No.3311)とさえ言っている。

しかし、前稿でも述べたように、クビライ・カーンがユーラシア大陸とインド太平洋にまたがる自由で開かれた市場経済社会をつくり、統一された税制や貨幣制度など先駆的なシステムによる通商金融社会を作ったのに対し、永楽帝は、華夷秩序という中華独特の思考法をもと、朝貢冊封体制を強制し、相手国を格付けしたアメと鞭の砲艦外交を展開する一方で、自国民は海から遠ざける海禁政策を実施し、貿易は国家が一元管理して朝貢船だけに許すなど、独りよがりの対外政策に終始した。さらに国内では皇帝中心の権威主義・独裁専制的な全体主義的国家運営をはかり、宦官という特務機関を使った監視社会、見せしめ的な恐怖政治、画一的な思想統制を行った。

なんとなく牽強付会な類推・対比ではあるが、クビライの世界戦略は、安倍首相の「自由で開かれたインド太平洋」戦略、あるいは南シナ海問題に対して「力によって一方的に現状を変更するのではなく、航行の自由と法の支配を確保し、国際法に基づいた平和的な解決」を求める立場に通じるものがある。一方、永楽帝の政略は、ウィンウィンの関係とは言いつつ、自国の利益優先の「一帯一路」戦略、または自らの主導で世界秩序(=華夷秩序)を作り、自国の論理で世界の経済ルールを作ろうとしている習近平の経済外交路線と類似しているように思えるがいかがだろう。

それはともかく、鄭和の大航海に話を戻すと、今の中国共産党政府は、鄭和を「平和の使節」だと称し、「一帯一路」政策に繋げるための平和外交のシンボルに押し立てている。しかし、その実態は「平和の使節」とは、はるかにかけ離れた存在でもあった。

鄭和は1405年の最初の航海でスマトラの港を攻撃し、地元民5000人を殺害し、10数隻の船を焼き打ちした。その後の航海でも、ブルネイやスリランカの地元の王族を拘束して南京に連行したり、ジャワでは地元の支配者同士の内戦に関与して、多額の補償金を脅しとったりした。また1411年の航海では、鄭和はスリランカの都市に侵入して軍を殲滅し、傀儡の支配者を残して王を中国に連れ帰っている。1415年にはスマトラの内戦に介入しているし、タイのアユタヤでは寺院を焼き払ったり、アラビヤ半島では都市を砲撃するなどやりたい放題だった

「鄭和は、行く先々で朝貢を促しており、決して対等な国交を結ぼうとしたわけではない。・・・それゆえ、明側の要請を拒絶し敵対的な態度に出た国には、武力を用いて国王を取り替えることすら辞さなかった」(壇上寛著『天下と天朝の中国史』p4)。それはまるで侵略、海賊行為そのものであり、これのどこが「平和友好的な外交活動」といえるのか。

<世界を変える力にはなりえなかった鄭和の大航海>

ところで鄭和は、1405年の最初の航海で、スマトラ島のパレンバンに寄港し、明から多額の賞金をかけられて指名手配されていた海賊の親玉・陳祖義を追跡し捉えている。前述のスマトラの住民(あるいは海賊の一味)5000人が死亡したというのは、このときの戦闘のことである。

広東潮州出身の陳祖義は、マラッカを根城に中国大陸沿岸から南シナ海、インド洋にまたがり、史上最大の海賊グループを率いた人物として知られ、その海賊集団は最も多いときで1万人以上、船も100隻近くを操り、往来する船1万隻以上から略奪を繰り返したといわれる。襲った船のなかには明朝の使節が乗った使船まで含まれていたことから永楽帝の怒りに触れ、陳祖義の首には750万両もの懸賞金がかけられた。当時の明朝の財政収入が年間1100万両だったことを考えると、懸賞金の額の大きさがわかる。“海賊王”として恐れられた陳祖義はその後、三仏斉(サンボジャ、現在のバレンバン一帯)に逃亡し、そこの国王の下で将軍となった。さらに国王が亡くなると、そのあとを襲って自ら国王を名乗った。

ところで、陳祖義の略奪行為を紹介するWeb記事(中青在線「郑和舰队六百年前曾剿灭当时世界最大海盗集团」http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2009/02/post-4fc0.html)のなかで「三光政策」という表現が使われている。「実行したのは三光政策“奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くす”だった」(实行的是三光政策,抢光杀光烧光)。当然のことながら日本語の「光」に「徹底して~をし尽くす」という意味はなく、「三光政策」とはもとより中国人の発想による中国人の発明品だったのである。

ところで、陳祖義のような海賊集団はなぜ生まれたのか、というと、これもクビライが強力に推し進めた通商政策が関係している。元の時代には、海外貿易が発展し海上を行き交う商船が増えたため、その船を狙う海賊活動も活発化した。一方で、日本やベトナムへ大艦隊を派遣したものの大敗を喫した結果、大元ウルスは海軍力のほとんどを失い、海の守り・海防は手薄になっていた。倭寇と呼ばれる海上武装勢力が日本に生まれるのも、元寇が残した影響だった。元寇のあと鎌倉幕府の弱体化と御家人の窮乏が進み、路頭に迷う多くの浪人武士が現れた。彼らが九州や瀬戸内海沿岸を拠点に、漁民や商人を巻き込んで行ったのが倭寇の海賊行為だった。いわゆる後期倭寇となると、「倭寇」とは名ばかりでその実態は漢人だった。陳祖義は、そうした後期倭寇の代表的人物ということになる。しかし、彼らの暗躍は、明朝をして「海禁政策」をとらせる原因となった。鄭和の大航海のあと500年間にわたって外洋航海ができる軍艦を一隻も持たず、チャイナは海を忌避する「引きこもり国家」となったのである。

しかし、明朝が「海禁」政策をとってからも、しばらくの間は、中国のジャンク船は公然と、あるいはその後は非合法に、東南アジアやインド方面にしきりでかけた。またアラブの商船もインド洋上を活発に動きつづけた。その結果・・・、

(引用)「東南アジアは急速に「華僑」の地となっていく。中国ムスリムやインド方面からのムスリム商人勢力の進出の結果、急速にイスラーム化も進んでいく。マルコ・ポーロが海路で西に向かった1290年前後には、まだ東南アジア沿岸部の住民はイスラームを信奉していなかった。しかし、1330年代イブン・バットゥータがこの地域を通過したときには、港湾都市の土着王侯や商人たちは、ほとんどがムスリムとなっていた。」(No.3369)という。クビライの治世は、まさに世界を大きく動かしたのである

一方で、鄭和の大航海は巨額の出費を重ねるだけとなったため、その「砲艦外交」も30年で終わりを迎えた。永楽帝の死後、鄭和に関する記録は意図的に消去された。鄭和の海図は燃やされ、艦隊の「宝船」は朽ちるに任された。外洋に出ることができる大型船の建造は禁止され、さらに海岸部に人を住まわせない政策がとられた。世界の構造・システムを変えた「クビライの挑戦」とは違って、鄭和は結局、人類の歴史にいかなる変化も痕跡も残すことなく消えたのである。それが再び脚光を浴びるのは、習近平の「一帯一路」構想という政治的な理由による。