狂斎・戯画
幕末から明治3年まで河鍋狂斎時代の戯画(中央の絵)
狂斎は明治3年10月に上野の書画会で筆禍事件で捕縛され翌年釈放されます。それより暁斎に名を改めます。狂斎の落款がある作品は幕末から明治3年までと年代測定ができます。
この戯画のどこが面白いのかはわかりません、田舎侍が路上で用をたしているのを見ている遊女でしょうか。作者は不明です。
おたふくが筆を持ち、福笑いか羽根つきに負けたほうに墨を塗ろうとしているのか・・
この絵は明治3年以前の河鍋暁斎作です。幕末・明治の文明開化、混沌とした時代の波にさらわれ多くの絵師が消えていく中で狩野派・歌川派のハイブリッドな技を駆使して一人時代を駆け抜けます。
これもさっぱりわかりません、だるまに色を塗っているのか・・
良く知りませんが山田抱玉という作家のようです。
「善はいそげ、ながきみじかし。」
狂斎百図:文久3年(1833年)から慶応2年(1866年)にかけて刊行された、故事・ことわざを題材にした全104枚からなるシリーズ作品で、町人と妖怪たちがユーモラスに描かれ、当時大変な人気を博しました。
「坂に車、船頭多くして山え上る」
官軍の長州と薩摩の事を風刺しているのか?
「手習い」
「地蔵の顔も三度なぞれば腹が立つ」
河鍋暁斎は7歳で歌川派に学び、10歳で狩野派に学んだ、十九歳で洞郁陳之(とういくのりゆき)の画号を貰い独立するも幕末は狩野派の衰退期で狂斎の画号で浮世絵・戯画・行灯絵などを書いて糊口をしのぎました。明治3年の筆禍事件から狂斎を暁斎に改めて出直します。
榮太樓本舗の黒飴の暁斎バージョン、今も榮太樓本舗が古木寒鴉図を所有している。
この商品は蕨市の暁斎記念美術館で販売されていて味はハッカ味の黒飴です。この古木寒鴉図は博覧会での受賞後に沢山の注文を受け、同じ様な鴉の図柄の作品はいまだにたまに市場に出回っています。
1881年に行われた第二回内国勧業博覧会では暁斎は妙技二等賞牌を受賞(日本画で実質1位)します。その時の古木寒鴉図は、出品に際して付けた値段が100円でカラス一羽に百円は高すぎだと言われたが、暁斎は「百円はカラス一羽の値段ではない、多年苦学してきた値段だ」と返しました。菓子商を営む榮太樓主人の細田安兵衛は百円で購入して、暁斎の鴉は百円鴉と言われ博覧会で評判をとり、公的に認められるようになります。この頃から著名なお雇い外国人にも名前が知れ渡るようになり北斎亡き後の日本最大の画家とまで称されます。