神谷美恵子の詩:一体化への希求
大倉山記念館は、東急東横線大倉山駅を下車し、なだらかな坂を上りきった丘の上にある。現在は横浜市が管理しているが、そもそもここは一九三二年に実業家大倉邦彦により東西文化融合のための研究機関・大倉山精神文化研究所として設立されたものである。ギリシャ神殿を思わせる記念館は、重厚な建造物として名高い。この記念館にある小さなホールで定期的に開かれるクラシック音楽の演奏会に、わたしは一時期足繁く通い、バッハからシュトックハウゼンに至るまで、数多くの音楽を聴いた。散策にふさわしい場所であったこともあり、休日の午後などに立ち寄ることもあった。犬を連れた老人や子供連れの家族連れがまばらにいるだけのことが多かったが、大倉山記念館正面の階段で、「アンチゴネー」の台詞の稽古をしている若い男女を見たこともあった。ここに来ると、わたしは神谷美恵子を思い浮かべるのが常であった。戦後しばらくした頃、三〇代半ばの神谷が、マルクス・アウレリウス『自省録』の翻訳に必要なギリシャ語の調査のため、一年間、日曜日ごとに幼い息子を家人に任せてはこの研究所に通っていたことを知っていたからである。
科学技術庁と統合される以前の文部省で働いていた一時期にも、旧式の鈍いエレベーターの中などで、ふと神谷美恵子について思うことがあった。戦後すぐに父親が文部大臣となった三一歳の神谷は、省内で公文書翻訳と大臣通訳に従っていたからである。
あるいはまた、家人の故郷である神戸で阪急電車に乗っているときや、王子動物園を幼い息子と歩いているときにも、神谷美恵子について思うことがあった。未見の人で書物を通じて知るだけであるにもかかわらず、この人の面影は、抽象的なイコンとしてではなく、常に具体的な場所の記憶とともに想起されるのである。思索と行為の人であったこの人は、同時に地上の具体的生活を強く感じさせる人であるように思われる。
中年になってから、わたしの心のなかで徐々に存在感を増してきた一群の人々がいて、神谷美恵子はその一人である。
知識人でありながら、理論や教義、イデオロギーにとらわれのなかった人。そして他人を圧倒しようとするところがなく、権威主義や政治性と無縁であったことなどが共通しているようだ。神谷の「精神的祖父」である新渡戸稲造はかなり神格化されていると思うが、神谷美恵子はむしろ現在では批判的に語られることが少なくないように感じられる。
みすず書房から『神谷美恵子著作集』全一〇巻が配本され始めたのは、わたしが高等学校を卒業したころのことである。著作集の刊行により、私文書も含めた未見の文章に触れることができる喜びがあったが、第四巻『ヴァジニア・ウルフ研究』を手にしたときの驚きは現在も忘れがたい。この本にはおびただしい注のついた研究論文に混じって、ウルフの「自叙伝」が収録されていたからである。厳格な論文型式で執筆された病跡研究の中で、「V・ウルフの自叙伝試作」は、明らかに異質なものがひとつだけ混入している印象があった。編集者の注によれば、神谷は一九七四年一一月三十日の日記に「マルチプル(複合的)アプローチを考え出す。これまでの病誌にはあきたらないから」と記し、一二月四日から一八日にかけてこれを執筆したという。
この「自叙伝」は、「私は今、五九歳。……」と書き出される(このとき神谷は六〇歳である)。研究対象を自分からつきはなした客観的な科学論文とは到底いえまい。編集者は、このテクストが「資料に基づいて書かれており、創りあげた出来事は含まれていない」とわざわざ記しているが、神谷がここで近代科学の方法に根本的な懐疑を抱き、科学者の条件である実証主義の立場を放棄して、三人称とすべき研究対象を一人称で語っていることは明らかであり、その事実にわたしは驚いたのである。中井久夫はこの「一人称の病跡学」について「対象が生ま身の患者であるならばできないことであり、試みてはならないことである」とし、「未見の作家に対する分析ならば許されるが」「みずからの生命をちぢめるにひとしい離業ではなかろうか」と記している(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さん」)。
また、神谷美恵子の詩集『うつわの歌』が出版されたのは、著作集完結後の一九八九年のことであるが、この詩集の出現にもわたしは驚かされた。表題作ともされた「うつわの歌」(一九三六年作)は、わたしが中学生の頃から愛読してきた朝日選書版『新版人間を見つめて』(一九七四年)の中に、「人の忌みきらう病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた」ある患者の作品として紹介されていたものであったからである。
神谷はこの本の「愛の自覚」の章で「人間を越えた絶対的な愛を信じること」が人間の「愛へのかわき」を満たすことを述べた件でこの詩を引用していた。章の冒頭が「らい療養所」の患者の話から始まっているので、ハンセン病患者の作品とばかり信じ込んでいたのだが、実は二二歳の神谷自身の作品なのであった。東京女子医学専門学校時代に長島愛生園を訪れ、盲目で肢を喪った患者に接したことがこの作品が生まれるきっかけとなったことを、浦口真佐が弔辞で証している。
詩集に収録された作品は、『新版人間をみつめて』で引用されたものと語句の異同があるほか、削除されていたと思われる二節が加えられていた。
私はうつわよ
愛をうけるための。
うつわはまるで腐れ木よ、
いつこわれるかわからない。
でも愛はいのちの水よ、
みくにの泉なのだから。
あとからあとから湧き出でて、
つきることもない。
うつわはじっとしてるの、
うごいたら逸れちゃうもの。
ただ口を天に向けてれば、
流れ込まない筈はない。
愛は降りつづけるのよ、
時には春雨のように、
時には夕立のように。
どの日にも止むことはない。
とても痛い時もあるのよ、
あんまり勢いがいいと。
でもいつも同じ水よ、
まざりものなんかない。
うつわはじきに溢れるのよ、
そしてまわりにこぼれるの。
こぼれて何処へ行くのでしょう、
――そんなこと、私知らない。
私はうつわよ、
愛をうけるための。
私はただのうつわ、
いつもうけるだけ。
幼女の独白のような稚い語り口は、吉田加南子の詩がよく似ていると思う。
神谷はこの作品の引用の後に「これを歌った人は、人の忌みきらう病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた。それでもなお、この人には、いきいきしたものがあふれていた。私はそれをこの眼でみたから、うたがうことはできない」と記していた。「この眼で見る」ためには対象との距離が必要である。自分で自分を見ることはできない。ここでわたしは、歳月が若き日の己を距離を持って眺めることを可能にしたのだと簡単に考えたくはない。神谷美恵子には、自己が他者と融合し、一体化することが夢見られていたと考えたいのである。
亡くなる三年前、神谷はモートン・ブラウンに宛てた書簡の中で、求道者としてのシモーヌ・ヴェイユを賞賛しつつ「私も常に求道者ですが、私の場合は私の神と共に道を求めます」と記している。またこの手紙には「私という人間のつくりには神秘家の要素が存在するようで、それが私にいろいろな種類の宗教に興味を持たせます」という言葉も見られる。人生には宗教的次元が必要であることを神谷は著書の中でしばしば説き、「生きがいについて」の中では神秘体験の意義について詳細に論じてはいたが、神秘家としての自覚を公に述べた文章は管見の限り存在しない。没後公開されたこの私信があるのみではないだろうか。
「神秘家の要素」とは何だろう。一体化への憧れと言い換えてもよかろう。神秘主義を一言でいうならば、それは一体化の思想である。神谷美恵子という科学者の心の底には、一体化への願望が明らかにあった。そもそもは、結核を病んだ若き日の神秘体験があったろう。神秘体験というものは、あらゆる体験と等しく、体験それ自体よりも、その後自分がその体験をどのように意味づけるかがはるかに大切であると思われるが、このとき神谷は「私の神」と一体化したと後に解釈したのではないだろうか。江尻美穂子によれば、『生きがいについて』の「心の変革」の章で紹介されている「ある日本女性の手記」は、美恵子自身の体験であるという(江尻美穂子『神谷美恵子』)。
《何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真暗な袋小路としか見えず、発狂か自殺か、この二つしか私の行き着く道はないと思いつづけていたときでした。突然、ひとりうなだれている私の視野を、ななめ右上からさっといなずまのようなまぶしい光が横切りました。と同時に私の心は、根底から烈しいよろこびにつきあげられ、自分でもふしぎな凱歌のことばを口走っているのでした。「いったい何が、だれが、私にこんなことを言わせるのだろう」という疑問が、すぐそのあとから頭に浮かびました。それほどこの出来事は自分にも唐突で、わけのわからないことでした。ただたしかなのは、その時はじめて私は長かった 悩みの泥沼の中から、しゃんと頭をあげる力と希望を得たのでした。それが次第に新しい生への立ち直って行く出発点となったのでした。》
『うつわの歌』には「癩者に」という二九歳のときの作品が巻頭に収録されている。この作品には「何故私たちでなくあなたが?」という有名な一節がある。「あなたは代わって下さったのだ、/代わって人としてあらゆるものを奪われ、/地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ」と続く。「私(たち)」と「あなた」との間にある無限の距離。この深淵に対する厳しい認識からしか他者に対する深い共感は生まれないであろう。そして深い共感とは、一体化への希求の第一歩でもある。
近藤いね子は、神谷が「私の言うことすべてを、それらが御自身にとっても最大関心事であるかのように受けとめて下さった。恐らくこれは私に限らず神谷さんを知る者すべてが経験したことだと思うが、完全な感情移入の出来るめずらしいかたであった」と記している(近藤いね子「思い出」)。また、読者からの手紙や電話への返事には「無限の共感性」がこめられていたという(高橋幸彦「先生との邂逅」)。
神谷美恵子が一体化を願ったものは、「私の神」であり、無名の隣人であった。それが「教会」でも「国家」でも「天皇」でもなかったということは、やはり記しておきたい。
近代国家が、国民を「神」のごとき権力者と一体化せしめんとした時代があった。さまざまな国家儀礼や各種式典がその具体的手段であった。その格好の例は、一九三六年のナチスのベルリンオリンピック大会であろう。
国民を国家と一体化させようとする思いは、現在の日本政府にも近代国家の宿命として当然のことながらあるが、しかし数年前、長野パラリンピックが開催されたとき、われわれは驚くべき光景をテレヴィジョンの画面に見ている。天皇陛下とともに競技場にご臨席になった皇后陛下が、競技中に自然に生まれ出てては観客席を巡る人々の万歳の波に合わせ、貴賓席から半ば腰を浮かせ、諸手を高く掲げられたのである。幾度も! 幾度も! そのとき、皇后陛下の両手は無名の人々の幾千の手に混ざりあい、一体化し、区別がなかった。……
神谷美恵子が皇后陛下美智子様の「話し相手」であったことが知られている。皇后陛下は「絶海の孤島」にいるかのように寂しげであったと、やはり「絶海の孤島」に暮らす長島愛生園の患者が聞いているという(宮原安春『神谷美恵子 聖なる声』)。皇后陛下の孤独の深さはわたしには想像の外だが、われわれは、皆、孤独である。意識の中心である「われ」をつきつめれば、その存在は「絶海の孤島」であろう。一体化の夢は、誰しも他人事ではあるまい。
神谷は一九六〇年六月一四日、「人は神の名のもとにどれほどのあやまちを犯すだろうか。自分一個の確信を、聖書によみこんだり、予言者気どりで真理として「証し」したり――」云々と記した後、次のような言葉を書き付けている。
《ミスティシズムかヒューマニズムか、という命題は解きえないものではないか。ミスティックな状態を示し、そこに神人合一、主観客観合一の最高の境地を体験させる能力が人間の精神にそなわっていることはたしかであり、そこにヒューマニズムの最大の根拠があると思うが、同時にこの境地において生ずること、体験されることについて、人はただふしぎとしか言いようのないものを見出すこともたしかだ。もし人が神と名づけるほかないものと接する道があるとすれば、それはまさにこのような精神の部分を通してであろうし、そこにおいて、神に動かされている、と感じても、それは全く自然である。故に、ミスティシズムによって、それを説明しても全然無理はないわけだ。ことは、あれかこれか、というようなものではなく、一つの事実をただべつの角度からみているにすぎないのではないか。》
これはいわゆる六〇年安保の直後に書かれた私文書の一節であるが、ヒューマニズムの最大の根拠としてミスティシズムを置くという考えは、きわめてラディカルである。おそらく戦後このような発想をした者は、片山敏彦など一部の例外を除いてはいなかったはずである。
われわれは「ミスティシズムを最大の根拠にした超国家主義」の恐ろしさを身にしみて知っている。しかし、神谷のいう「ミスティシズムを最大の根拠にしたヒューマニズム」とは、いかなるものであろうか。それはおそらく机上で概念的に理論構築されるものではない。またその思想は最終的に政策化され得ないことを宿命づけられていよう。それは、われわれひとりひとりがもつ無名性と日常性の中に、行為として実現されるものと思われるが、その探究はわれわれひとりひとりに残された重要な主題であるとわたしは思う。
最後に、「窓辺に」という作品を引こう。二四歳のときの作品である。ここで神谷は「私の神」と抱き合って「一体化」している。この神は、さきの詩の「神々しい」癩者と対照的に、何と「人間的な」優しさに溢れていることであろう。超越的絶対的な「神」というよりも、むしろ「天使」的であるとわたしは思う。
しとしととつゆのふりて
心しずかなこの宵べ
ねしずもる家の窓辺に
ひざまずきてねぎごとをささぐ
我は神のふところにあり、
彼はしかと抱き給う。
そのぬくもりは母の胸にまさり、
そのささやきは愛のむつごと。
ひとり荒野にさすらえる
涙とうめきいまやいずこ。
神我をしかと抱き給う、
彼と我のさびしさいやして。
片山敏彦は神秘家と詩人との関係に触れて「詩人は、黙ることが最上の条件であるらしく見えるような瞬間に、その瞬間を言語で表現することを使命とする人間である」と述べたことがある。神谷美恵子は神秘家であり詩人であった。しかし、モートン・ブラウンは「美恵子さんは言葉ではなく、一個の行為だった」と記す。詩人が語り終えたところから行為へと踏み出す者がいるのだ。その人をわれわれは何と称ぶべきであろうか……。
神谷美恵子の詩は、現代詩のコンテクストに入りにくく、論じられることがない。しかしそれが「詩人の詩」とは異なる輝きを放っていることを認めない人はいないだろう。
*初出:『羚』1号、2001年9月