信仰の成熟をめざして
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。ヘブル6:1
きょうは、ヘブル6章から、私たちが「なぜ信仰の成熟をめざすことが大切なのか」について見て参りましょう。私たちの信仰は「風車」にたとえて考えるとわかりやすいかも知れません。あなたや私が信仰の風車を持っているとします。イエスさまの救いを信じたばかりの時には、私たちは信仰の風車を自分で回すことが上手くできないかも知れません。なぜなら、イエスさまによって救われてはいるけれども、主の救いが完全に自分のものになっていないからです。でも、歳月がたち、信仰の歩みを始める中で、私たちが(聖霊にふれられて)悔い改めの経験を繰り返すときに、ある時、突然のようにイエスさまによる救いが明確に示されてわかるようになる時があります。私たちはそれを「聖化」と呼んでいますが、この聖化という霊的な体験を通し、人はその信仰がステップアップしていくのです。そして、救われたばかりの時には回せなかった信仰の風車を、自分で回せるようになるものです。
皆さんは、自分の信仰が「成長する」とか「成熟する」って、具体的にどういう変化が起こることだと思いますか? 私は(自分の)信仰が成長しているかどうかの「目安」は、、、(自分が)イエスさまの救いのことをさらに「知りたい」と求めているかどうかであると思います。 以前よりも、「イエスさまの救いについて分かるようになったな」と思える人は、、、成長しているのです。イエスさまの救いについてもっと知りたければ、読んでいる「みことば」(聖書のことば)や、礼拝で開かれる「みことば」を通して、主が(いま)自分に何を語りかけておられるのだろうと(積極的に)問いかけながら聴くことが大切ですね。停滞しないことです。さらにイエスさまの救いが自分のものになるよう、前進することをお勧めします。ヘブル書を書いた人物も、救われてしばらく経つユダヤ人クリスチャンたちに、そのように励ましました。
しかし、彼らの中には(残念ながら)救われる以前の生活に戻ろうとする人々がいたことがわかります。彼らはイエスさまの救いを知りながら、、、なぜ、以前のユダヤ社会の生活に戻ろうとしてしまったのでしょうか。おそらく、イエスさまが「わたし」の罪のために身代わりに死んで下さったお方であることの意味が(霊的に)わからないからだと思います。それが分かれば、どんなことがあっても人は主(の恵み)から目を離さないはずです。しかし、彼らの中には、主の救いから目を離してしまい、かつて自分がいた社会の価値観に戻ってしまった者がいました。★私たちは(決して)そのような者にならないようにしたいものです。そのためには、「主の救い」が今以上にわかるように、さらにイエスさまの「御声」に耳を傾けて参りましょう。そして(7節にあるように)、「有用な作物」を生じさせる「私たち」でありたいと思います。神はそのような「あなた」や「私」を祝福し、成熟した私たちを宣教へと送り出してくださるはずです。