Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

L'atelier de 423

強制的異性愛 in 中学校

2018.05.08 07:44


先日、中学時代の友達と思い出話に花を咲かせた。当時は疑うことすらしなかったような行事も、よく考えてみると「暴力性」を孕んでいることに気がついて、胸の中で脂っこいものがべとりと張り付いたような感覚を覚えた。


思い返せば、学校にはジェンダーや性にまつわる問題がいたるところにあると思う。その中でも特に考えさせられたのが、「肝試し」の行事だ。


僕たちの中学校では、2年生の時に「自然教室」と銘打って、農業体験などをしに長野県へ2泊3日で行く。その間の夜に、毎年の恒例行事として「肝試し」をすることになっていた。夜に怪談を聞いたあと、暗い林の中を一周してくるというもの。


それの一体何が問題かというと、肝試しを回るペアは「男女限定」であること。同じクラス内で事前に「自由に好きな人と」ペアを組んでおくというルールだった。


つまり、あらかじめ自分から声をかけ(またはかけられるのを期待し)、異性の相手を見つけなければいけない。


男子の方が若干多い、普段異性と交流していない、今で言うスクールカーストにおける“下層”にあたるなど、様々な理由でなかなかペアを組めない人も多かった。また、自分や友人もそうだが、その過程に苦しんだ人もいた。あまるとくじ引きをして強制的にペアを組まされるし、男子同士のペアも少数ながらいた。


教員たちにはおそらく「男女間の交流を図ろう」とか、「中学生同士の恋愛を促そう」というような意図があったのでは、と思う。ただ、そこには明らかに異性の恋愛しか想定されておらず、生徒たちが大人たちが傍観して楽しむ「おもちゃ」と化していたと言っても過言ではないように思える。


現在、クラスに数人の割合で性的マイノリティがいると言われている。もしかしたら当時、周りには言えずにそういった自分の個性に悩んでいた人もいたかもしれない。

そのような存在の可能性を一切無視して、「男女」に限定して行事を強制するのは非常に暴力的だ。これはまた、単なるグループ決めにおいても、自由に組ませるという自主性を尊重する一方、必ず余る人が出てきてしまい、まさに「晒し者」になってしまう。これは大人であっても苦痛ではないのだろうか。


「疎外感」を感じるのは、自分が集団に属しているからだ。「自分は異性を好きになれないから異常なんだ…」「グループ決めなどで余ってしまうから自分はダメな人間なんだ…」など。


そのような感情を教員になった大人たちも自分で感じてきたり、少なくとも見てきているはずなのに繰り返してしまう。なんだか悲しいことだなあ、と心が枯れてしまう。


せめて、恋愛の対象は異性だけだという幻想を疑うキッカケだけでも教育の機会に存在していたらと思う。


参考 

ここのサイトでは、男女のペアを「成功」と捉えている。