小川国夫『弱い神』:一族の末裔を襲う雷鳴
小川国夫の遺作となった未完の大作『弱い神』(講談社、二〇一〇年)は、死すべき人間存在が織りなす複雑な物語を描き出した傑作である。
光の世界と闇の世界という二つの視点で眺めると理解しやすい。まずは光の世界の物語。明治、大正、昭和。三代にわたる物語だが、最初に登場するのが紅林鑑平だ。やくざの家に生まれたが、四代続く鋳掛屋に弟子入りして藤枝で鋳造職人となる。彼は親方の息子桑原一太郎の異母妹おりんと恋仲になるが、賭博仲間の恵吾の妹おすみに惚れてしまう。鑑平は恵吾の計らいもあっておりんを捨て、おすみと正式に結婚する。藤枝を離れ、海辺の村に紅林鋳造所を設立するが、おりんの兄一太郎も鑑平と行動を共にする。鑑平の息子は鉦作と恒作の双子だが、鉦作が東京の高等工業学校に進学し、鋳造所を引き継ぎ、造船部を作るなど事業を拡大する。軍隊から戻り結核を患うが、三年七ヶ月で全快する。鉦作は、東亜煙草会社の夫と離婚した明子と結婚する。彼女には前夫との間の子供與志がいた。夫婦は二年後に長女真佐代を授かる。與志は文武両道の少年。鉦作は、息子を将来は帝国大学工学部か海軍兵学校、海軍機関学校へと進学させたいと思った。けれども、與志自身は、ドストエフスキーの耽読、また、戦場を体験し、帰還後聖書の信仰に生きる粳田権太郎の影響を受け、学校に通うのを止めてしまう(ただし粳田はカトリック信徒ではない)。與志は粳田が設立した幾波回生舎に身を寄せ労作に従うが、やがて、粳田は結核に罹り、與志にも感染したらしく、與志は「大東亜戦争」終結の翌日に永眠する。
次に闇の世界。商売が成功し、村長の孫の海難を救い、一躍村の名士となった鑑平だが、若い頃、母親が妾をしていたやくざ甚三郎と折り合いが悪く、彼を殺したという秘密の過去があった。桑原一太郎もまた、青年団といざこざを起こし、傷害罪で二年間刑務所に入った過去がある。一太郎の妹おりんは、鑑平に捨てられたことから、鉄道自殺をする。おりんには仁吉という子供がいた。これは鑑平の子供ではない。仁吉は鑑平の下で働くようになるが、年下の鉦作をいじめて伯父一太郎から叱責されたことがあった。一太郎もまた、カトリック系の和仏英女学校を卒業した鉄屋の娘三ヶ尻加代と懇意になり、結婚を夢想したが、加代の親が別の家に嫁がせてしまった結果、大酒を呑んだ翌日に海に小舟をこぎ出して自殺してしまう。仁吉は、おりんの轢死体を見てしまっており、一太郎が海原にでていくときにも浜に戻るよう叫んだのだった。鑑平に恨みを抱く下地はあったのだ。鑑平が甚三郎を殺したときに一緒にいた内藤嘉一は紅林家と絶縁していたが、彼から、鑑平が殺しをしたことがあることを教えられた仁吉は、壮年になると、年をとり往事の面影もなくなった鑑平をゆすり、二万円をせしめる。仁吉は妻と満洲に渡るが、残された息子が三次である。祖母と暮らす三次は與志の異母妹真佐代と同学年、頭がよく、三年生から級長を務めるほどであったが、暗闇を好む癖があった。與志、真佐代、三次は仲のよい幼なじみであった。三次は高等科へ進学したので中学に進学した與志とは同窓ではなくなる。三次は真佐代を好いていたが、真佐代は與志に憧れを抱いており、三人の間には奇妙な三角関係があった。三次は「大東亜戦争」の最中に、幾波国民学校の奉安殿の中で首吊り自殺をする。その晩、奉安殿の鉄の扉に鍵を掛けたのは、ほかならぬ與志なのであった。数十日して、ようやく三次は発見される。死体は腐敗し、半ばミイラ化していた。
以上、物語の梗概を二つの視点から略述したが、鑑平と一太郎、鉦作と仁吉、そして與志と三次とが、それぞれ光と影として対応していることがわかるだろう。
書物巻末の初出一覧を一瞥すると、この大作は一九九八年から二〇〇七年までに断続的に文芸各誌に発表された作品を再構成したものと見えるが、実は最初に発表されたものは二十九年前に書かれた「三次」(『文學界』一九八二年三月号)である。その後に書かれた「弱い神」(『新潮』一九八二年四月号)、「巫女」(『群像』一九八三年一月号)、「明るい体」(『世界』一九八五年一月号)、「弱い神」(『群像』一九八九年九月号、十月号)「献身」(『群像』一九九〇年一月号)はすべて解体され、今回の大作にはそのままの形では収録されていない。これらの「原・弱い神」シリーズは、一貫して與志の妹の一人称告白体による緻密な描写で書かれ、三次、與志、真佐代の濃密なトライアングルと、三次の奉安殿での衝撃的な自殺が中心的事件であった。與志と真佐代も異母兄弟ではなく近親姦すれすれの関係があり、與志の家は木工製作所であった。カトリック教会の司祭も登場し、ドストエフスキーを中心とする神学的考察が随所に書き込まれていたことも特徴的であった。
「流れ者」(『群像』一九九九年八月号)に始まる「鑑平もの」が書かれ始めたとき、わたしはこれが「弱い神」シリーズを吸収、包含するものとは夢にも思わなかった。別系列の作品だと考えたのである。
昭和天皇が崩御し、半旗が日本中に掲げられた頃、わたしは小川国夫に「昭和の初めに生まれた人間として、天皇陛下の崩御に特別な感慨がありますか」と訊ねた。「特別な感慨というものはないね」と彼は即座に応えたが、この言葉にははかりかねるものがあると感じた。「明るい体」に異様な感銘を受けていたので、一九八〇年代を通じ、続きを書いてほしいと顔を合わせるたびに頼んでいた。小川国夫はその度に微苦笑を返すのみであったが、「三次は最後に奉安殿で自殺する。あの時代に本当に一人切りになれる場所は、あそこしかなかったということなんだ。」そんな言葉も聞いていたわたしは、小川国夫は超国家主義体制下の日本と、大日本帝国憲法下の現人神たる天皇に無関心な作家だとは思っていなかった。果たして平成元年に「弱い神」(『群像』一九八九年九月号、十月号)が書かれた。
この大作は、一族の三代にわたる物語とも読めるが、核心は三次の幾波国民学校奉安殿での自殺という出来事にあると私は解釈する。長い物語の中の一挿話とは考えない。作者の苦心が窺われる推敲の痕跡が最も著しいからだ。「原・弱い神」では、與志が事前に三次から奉安殿での自殺の相談を受けてさえいる。三次の自殺の理由は三次にもよくわからない。政治的意図はなかった。與志が奉安殿の鉄の扉の鍵を閉めたことも、與志自身が理解できない。それはそうだ。これは理由のある個人的事件ではない。いわば「選ばれし人」として二人にこのような事件を引き起こさせたものは、限界値を超えるまで高められた時代の緊張の蓄電であり、落雷のように事件は起きたのだ。
カトリック教会の祭壇の背後にある磔のキリスト・イエス像と、天皇皇后両陛下の御真影の手前で縊死している三次の姿は照応してはいまいか。イエスはある意味では弱い神だが、奉安殿の中の御真影、現人神の影もまた、三次のような行動をする者からすれば無力な弱い神でしかない。「奥の壁にかけてあった写真と、棚にあった書類をおろして床に置き、棚をいざらせ、四本の釘に荒縄を回し、端を輪にして、体を吊り下げたまま、ほとんど骨だけになっていたそうです。」これは「原・弱い神」における描写だが、この度上梓された「弱い神」では、ここまでの詳細な描写は削除されている。
ところで、「三次」を発表した一九八二年、小川国夫は埴谷雄高との対談集『闇のなかの夢想』を出版している。埴谷との交流が特に濃密の度を深めたのはこのころのことからと思われる。五年後には「世界」誌上で「『終末』の彼方に」と題する往復書簡を連載し、一九八八年には『隠された無限』と題して上梓している。『群像』一九八九年九・十月号に発表された「弱い神」は、埴谷の影響を思わせる標準語による哲学的対話が作品のかなりを占めていたが、成功しているとは言い難く、今回の大作にも収録されていない。ただ、「永死」という埴谷の造語だけは、今回上梓された『弱い神』に登場する。「弱い神」は、埴谷の影響を受けつつ書き継がれ、埴谷が一九九七年に死ぬとともにその影響から解放され、やがて作品からドストエフスキー的な哲学的対話が削られていったと私は推測する。
語り手が與志の妹ではなく、鑑平以来の紅林鋳造所の関係者である鷺坂濱蔵や粳田権太郎の叔父岸母田欣造となり、聞き手が明子、與志、真佐代となるに伴い、與志の妹の存在感は「原・弱い神」に比較して遙かに弱まっている。また、妹の存在感が薄れた結果、與志が弱い神として当初設定されていた事実も曖昧になり、多義的な解釈を許すようになっている。ただ、誤解してはならないのは、このような語りのスタイルが『悲しみの港』(一九九一―一九九二年、朝日新聞夕刊連載)から始まったものではないことだ。 その夜、奉安殿の柵の中で、與志と三次が並んで話を交わす。「そこから栴檀が三本見えました。すっかり葉が落ちて、ポツポツと実をつけた真黒な梢が風を弾ねつけていて、その向うの星空がとても大きかったんです。それで僕が、星がきれいだな、と言いますと、三次が、だれかがサッと光を撒いたんだよ、と応えましたので、僕はなるほどと感心しながら、だれが撒いたんだろう、と言ってみました。答えなんかがあるとは思いませんでした。しかし三次は、俺さ、と言いました。〔……〕僕には、光を撒く三次の手つきまで見える気がしました、と兄はつけ加えただけだったそうです。」この対話の後、二人は別れ、三次は自殺するのである。夜空に輝く星々のように、わたしども地上の人間存在は、関係の中に生きている。そしてその関係は世代を越えて複雑に絡まりながら続いていく。鑑平、一太郎、鉦作、與志、三次。登場人物たちの誰もが自ら光を撒く。けれども、自分が撒いた星々が作り出す独自の星座を運命として生きるしかないと、この物語は言いたげである。
三次だけが、初出誌以来一貫して、名字以外は名称変更されていない。「原・弱い神」以降、兄妹の名前すら変えられて発表されているのに。「三次」は「惨事」そして「讃辞」を連想させる。作者にはこうした同音異義の企みもあったものと私は思う。「キリストは村八分にされた時、おびただしい白光を発した。それで終わったのだ。」これは「原・弱い神」にある與志のノートの一節だが、「ハブッコ」にされていた三次、「弱い神」たる與志の分身でもある三次もまた、暗黒の奉安殿のなかで白光を発したのではなかっただろうか。
三次は自ら意識してはいないが、奉安殿で自殺することによって、天皇の宗教的神聖化、最終的には死に至るまでの絶対的服従、殉国を強いる権威を否定している。三次の自殺は、古代からの論争の文書「ローマ書十三章」を想起させる。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」というパウロの言葉は、神(教会)と国家とをめぐる論争を巻き起こしてきた。自殺した三次も、自殺に関与した與志も、地方の純粋な若者にすぎず、司祭でも神学者でもない。その彼らが大胆不敵な「不敬」事件を起こしたという設定は卓抜であり、「ローマ書十三章」への文学的回答と読み解くこともできよう。
奉安殿への敬礼が当然とされたこの時代、ほとんどのキリスト教会は「皇道化」していた。それゆえ、作者は物語中に現実の教会を登場させず、幾波回生舎という架空の団体を設定したものと思われる。
小川国夫はカトリック信徒だが、教義に逐一忠実であろうとは必ずしもしていない。彼にはむしろ、聖書の信仰者という呼称の方がふさわしい。聖書を独自に解釈するところに作家としての面目があった。小川国夫の中では文学と宗教が渾然一体となっていたから、矛盾と撞着に満ちた聖書を調和的に読むことができたし、新約聖書学者たちの実証主義の揺さぶりに動揺することもなかった。
鑑平の故郷は地上だが、與志のそれは天上へと移っている。この点も、この大作を味わう上で見逃してはならないだろう。
*初出:『文學界』2010年8月号