小川国夫「止島」小論:キリスト教以前の世界
遺作短編集『止島(とめじま)』(講談社、二〇〇八年)を読んだ。巻頭に収録された「葦枯れて」がすばらしい。わたしはこの作品が『新潮』二〇〇六年一月号に発表されときに読んでいる。小川国夫は、すごい世界に入っていかれたものだと感じ入ったことを思い出すことができる。近代以前の物語だが、いわゆる時代小説、歴史小説とは趣を異にしている。これは小川国夫でなければ書けない作品だ。物語は鳥瞰されず、終始一貫して土地に密着して意生きる人間の視線で描かれている。登場人物が幼馴染を殺す、息を呑むような場面があるので引用しよう。
《やつは息をするばかりでさ。肩がしきりと上下していましたの。それにしたって、かなりの使い手でさ。わしが繰り出す穂さきをはずして、打ちこんできましたが、わしはだんだんと前へ出て、やつは葦を背にして、刀で槍をよけていたです。しかし、とうとう槍の石突きがやつの喉を突き、やつは葦の下に倒れこんで、ふるえているんですに。目も白くなっていて、二突き目は要らない、とわしは思わず言ったです。ふるえはいつまでも止まらないっけです。それでわしは、苦しかろうと思い、胴の下を、思いきり突きましたです。三度突いたです。……ションジイ、お前とはよく小川や田圃で遊んだ。葦の中へも入って行った。すると鉄色の源五郎が、蛙に抱きついて、白く柔らかな腹を鎌で裂いた。おれは今ここで、同じことをお前にしてしまった。一番親しい連れを、こうしてばらしてしまった。……この思いが、消えて気が晴れる日はもう来ないだろう、とわしは感じましたです。》(十五―十六頁.)
小川国夫の「藤枝もの」には、わが国の戦前(昭和前期)のようすが周到に描きこまれている。軽便鉄道、人力車、畳敷きの病院。旅役者。それらは芝居の大道具のように描かれているわけではない。ごく自然に、そこに在る。世界は奥深い。そのなかに、登場人物たちが息づいている。
あれから数十年が経ち、小川国夫は昭和から数百年遡った世界を同じようなリアリティで描きだすようになった。独立した短編として発表されたが、この作品はもっと大きな物語のピースにおそらくなるだろう、とわたしは考えた。しかし、この作品は、さらに大きな物語に発展することはなかったようだ。『止島』に収録された他の作品は、全て昭和以降のできごとだからである。
「葦枯れて」は小川文学のなかで特異な位置を占める作品ということになるだろう。何故そのように言いうるのか。古代イスラエルを舞台とした「聖書もの」の諸作品に、「あの人」と呼ばれる、キリスト・イエスを思わせる神人が登場することは、小川文学の愛読者には周知の事柄であろう。「あの人」の影は、何らかの形で小川文学全体に偏在しているといってよい。しかし、この「葦枯れて」では、「あの人」のいない世界が語られているのである。「あの人」の登場によって世界が全く新しいものに変貌する。その驚きを、戦きを、小川国夫は多くの作品を通して描こうとしていた。だから「聖書もの」では、旧約の時代を取り上げることになった。
「藤枝もの」では、日米戦争以前の昭和前期が多く取り上げられていたが、「葦枯れて」一篇で近代以前の人々が描かれたことによって、「藤枝もの」全体が新しい光を浴びて見えてくるようになった。「藤枝もの」全体の奥行きが増したと言い換えてもよい。「葦枯れて」は、近代以前の日本人の心性を描いている。この作品は、戦いに鉄砲を使い始める時期を扱っており、舶来のこの武器を未だ不気味なものとする感性が描かれている。人を殺めることについても、近代人特有の、刑法違反行為としての認識はここにはない。そして「あの人」は、ここでは影も形もない。
土地、肉体、そして方言――これらは小川国夫にとって特別なものであった。それは最も具体的なものであったから。抽象の誘惑に対する断乎とした拒否が、小川文学には染みわたっているように感じられる。
*初出:『神谷光信のブログ』2008年6月25日