「荊冠と聖遺物信仰」
ルイ9世は、なぜ国家予算の半分以上の大金を払ってまで「荊冠」を手に入れようとしたのか?それは聖遺物信仰と関わる。聖遺物とは、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」や「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」を言うが、キリスト教中世においては「黄金や宝石よりも価値がある」と形容された。それは、聖人の身体に生前から宿り、死後もその遺体に残存し続ける特別な力を持つとされ、そのため人々は聖遺物に何より奇跡、なかでも病気の治癒を願った。
では、聖遺物の中で高い価値を与えられたものは何か?一般的には、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」が第一級の聖遺物とされ、「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」は副次的聖遺物とされるが、例外があった。それはキリストと聖母マリア関連の聖遺物である。キリストは、磔刑後、復活、昇天したとされるし、聖母マリアは死後被昇天したとされ、いずれも地上に遺体が残されていないからだ。そして、中でも重要視されたのが、キリストの受難に関わる事物だった。キリストが架けられた十字架(「聖十字架」)、キリストのわき腹を刺した槍(「聖槍」=「ロンギヌスの槍」)、頭に被せられた茨の冠(「荊冠」)、四肢を十字架に打ち付けた釘(「聖釘」)などだ。ベルニーニはローマの巡礼路を整備するにあたって、サンタンジェロ橋をこれらの受難具を手にした天使像で装飾した。
このような聖遺物を収めた教会は、多くの巡礼者を呼びキリスト教の布教、堅信につなげることができた。その街は潤ったし、また聖遺物をもたらしそれを収める教会を造った支配者の権威を高め、統治に大いに貢献した。ルイ9世が、聖遺物中の聖遺物である荊冠を莫大な金を払ってまで購入したのにはこのような背景があったのだ。
しかし、聖遺物の入手方法として、ルイ9世のような金銭による購入はまれだった。なぜなら、金銭によって売買される聖遺物には、真正性への疑念が付きまとったからだ。身元のしれない骨が、由緒ある聖人の遺骨との触れ込みで持ち込まれることもしばしばあった。そもそも聖遺物は、もっぱら外見上は何の変哲もない人骨等であり、それ自体では真贋も判然としない。だから、本物であることが確実な聖遺物を略奪・盗掘することが頻繁に行われた。そしてそれを正当化する論理はこうだった。その略奪行為が本当に許されざる行為であるなら、聖遺物が、つまり聖人自身が抵抗し、略奪は成功しなかったはず。成功したのは、聖人が略奪による移葬を望んだからだ、と。
ヴェネツィアの中心はサン・マルコ寺院でありサン・マルコ広場。あちこちで目にする有翼の獅子はサン・マルコ、すなわち福音書記者マルコをあらわす。聖マルコはヴェネツィアの守護聖人。ヴェネツィアはもともと聖テオドロを守護聖人としていた。しかしヴェネツィアの繁栄、発展のために、キリストや聖母マリアに次ぐ聖人の聖遺物を求めて、聖マルコの遺体をエジプトのアレキサンドリアから盗み出してきたのだ。それがどのような影響をもたらしたか。20世紀の歴史学に大変革を起こしたフランスの歴史学者フェルナン・ブローデルは『都市ヴェネツィア 歴史紀行』のなかでこう述べている。
「823年、エジプトのアレクサンドリアから、福音書作者聖マルコの貴重な遺骸がヴェネツィアにもたらされ、彼とその象徴としての獅子が、この町の守護聖人となった。神とその子たる救世主に感謝が捧げられた。その時いらいヴェネツィアは、ほどなく着工されたバジリカ会堂とともに、確固たる心=確信をもつことになる。言い換えれば、力と情熱をもって、誇りと自信をもって自分自身であり続けるよりどころをひとつふやしたのである。」
聖遺物信仰は聖人(特に守護聖人)信仰とともに、ヨーロッパの都市や精神世界を理解するうえで重要なカギとなるように思う。
(「荊冠」)現在は、パリのノートル・ダム大聖堂が保管)
(エル・グレコ「十字架を担うキリスト」メトロポリタン美術館)
(「サン・タンジェロ城」と「サン・タンジェロ橋」)
(サン・タンジェロ橋の受難具を持った天使像)
(「サン・マルコ寺院」ヴェネツィア)
(カルパッチョ「聖マルコの獅子」ドゥカーレ宮殿)
(ティントレット「聖マルコの遺体の発見」 ブレラ美術館 ミラノ)
(ティントレット「聖マルコの遺体の運搬」アカデミア美術館 ヴェネツィア)