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かなかんぶつ

2018.05.10 08:30


ゴールデンウィークが終わり、ホっと一息しています。

大型連休の名の通り、お仕事がお休みだ!なんて思って過ごしただけでしたが、よく考えたら、そのお休みには理由がありますよね。

昭和の日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日。


こどもの日、皆様、息子さんがいらっしゃるお宅はお飾りしましたか?

私の同級生の家でも年齢は40代半ばなのにお母さまが飾ってくれたそうです。兜に、鯉のぼり、そして吹き流し。豪華です。まさにこれ、愛ですね。

昔はあちらこちらに競うように大きなこいのぼりが立っていましたね。めっきり見なくなりました。

戦前には、端午の節句5月5日に甲府の軒並みの家が、菖蒲とヨモギを2束づつ軒に挿していたそうです。屋根を葺くというこの習わしは戦時中に途絶えてしました。

そしてその景色と同じく、この山梨の地だけに伝わる5月の節句の伝統でなくなってしまったものがあります。



「かなかんぶつ」です。

木型に和紙を張り重ね、面型を取り絵の具で目、鼻、口を描き、頭には兜を描いています。その顔は武田信玄公、勝頼公をはじめ、頼朝、義家、など源氏の大将軍など武将の顔がモデルになっています。

顔とは別に厚紙で鍬形、草摺りを作り、一揃いを木製枠に立てかけて、大きさは、1m程度から大きいものでは2mほどあります。

実はこれが、幕末から明治の中ごろまで庶民の間に大流行した、山梨の五月のお飾りでした。明治36年の中央線の開通以後、東京から入てっきた現在のような武者人形に取って代わられ廃れてしまいました。

当時の玩具商、甲府・柳町武井八右衛門(井筒屋12代目)が職人を使って作っていたそうです。

古い写真を見ると天狗を模したものもありますね。


親戚や知人に男の子が生まれると、健やかな成長を願って贈られていた人形です。毎年4月末から、縁側などの人目につきやすい場所に飾られていました。その数が多いほど家の繁栄ぶりを示すものとして、互いに競い合って飾る風潮が生まれました。その競い合いが流行のきっかけになったといわれています。 



「 かなかんぶつ」は、別名「甲斐かなかんぶつ」、「甲州かなかんぶつ」、「おかぶと」とも呼ばれていました。 名前の由来は、「金兜(かねかぶと)」がなまったという説と、「紙冠物(かみかんぶつ)」(紙でできている冠)からとったという説があります。

 


実はこの「かなかんぶつ」が庶民に流行ったのは、競いあいもありますが、昔、身分制度があって様々な制限があったことにも由来します。


五月のこいのぼりは元は、鯉より、節句幟を飾っていました。戦国時代、旗差物から始まっています。男子出生の家では家の誉れとして屋敷内に家紋を染めた幟と吹き流しを立てました。

※写真は信玄公祭り。戦国時代のイメージです。


江戸時代には吹き流しは武士以外は飾ることを禁じられていまいた。今、禁じられているものって、ないですね。お金でどうにかなる時代になっています。


武士ではなく、町人階級や豪農の家では紙のこいのぼりを立てて祝っていましたが、江戸中期になると内密に座敷に小型で豪華な幟、吹き流し、鯉のぼりを作り、床の間に飾るようになります。


江戸末期になると武家は兜面が床の間に飾られるようになり、武家にあやかる一面、武家に対する反発の気持ちが現われ、和紙で作った甲州独特の武将を模した「かなかんぶつ」が庶民の間で流行ったそうです。


ここだけに流行ったものがあったって、面白いですよね。

もしかしたら、まだどこかのお蔵に眠っているかもしれません。

もし、見つけて「この大きなお面は何だろう?」と思った方、それはご先祖様が生まれたことを喜んだだくさんの人の愛情の現われですから大切にしてください。