小柳玲子:痛苦に満ちた陶酔
ずいぶん昔に、必要があって澤村光博の同人誌「言葉」を創刊号から目を通したことがあった。そのときに、二八号から三九号まで、足かけ三年、一一回にわたり連載された小柳玲子の「サンチョ・パンサの行方」に引き込まれたことがあった。この石原吉郎を巡る長篇エッセイは、それまで読んだいくつかの石原吉郎論のどれとも異なっていたからである。この連載は、しかしその後単行本になることなく、著者によって長らく放置されていた。今思えば、一冊の書物とするためには、執筆時に匹敵する決意とエネルギーが必要であったに違いない。このたび刊行された『サンチョ・パンサの行方』(詩学社)は、その石原吉郎論を巻頭に収録した待望の書物である。「私の愛した詩人たちの思い出」という副題が示すように、分量的に最も長大な石原吉郎のほかに、黒部節子、杉克彦、水沼靖夫、北森彩子という、著者が親しく接した詩人たち――すべて故人である――に関する文章が収録されている。
石原吉郎は、没後ほどなく全三巻の全集が編まれた。この全集は、編集の行き届いた周到なもので、全詩作品に校異が示されているほか、全散文、対談、インタビュー、書簡に年譜、参考文献まで収録されている。文献一覧を見ると、諸家によるおびただしい批評が書かれていることに一驚する。それらの中に置いてみるとき、このエッセイは異彩を放っているに違いない。諸家の論考を一切参照せず、自分の目を通して見た詩人の肖像だけを記述することに徹底しているからである。著者は、このエッセイに描かれる石原吉郎について「ある時期ある一瞬、私の前を通過した石原吉郎の断片であり、ごくわずかな一断面である」と記している。だが、著者の眼差しはどこまでも透徹していて、一切の美辞麗句、いかなる感傷綺麗事をも寄せ付けぬ厳しさを持っている。彼女は、シベリア抑留から帰国後、詩を書き始めた石原吉郎が最初に作った同人誌「ロシナンテ」で石原と同道し、親疎の違いはあれ、彼の死まで身近で接した人である。先に触れた全集の年譜は、小柳玲子と大西和男の手によるものである。
冒頭に石原の「夜の招待」を引用した著者は、まず次のようにこのエッセイを書き始める。
《どうか石原吉郎の詩を読んでいただきたい。そこに石原吉郎が確実に存在する。他者が記した「石原論」の中にはほとんど彼はいない。彼自身が記した、見事ないくつかのエッセイ、その中にすら真の石原吉郎はいないように思える。エッセイの中に現れる石原吉郎は何かの役を演じているような趣きがかすかにあり、すべては整然としすぎている。》
この文章を、おびただしいほどに書かれてきた過去の石原吉郎論への拒絶の宣言と読むのは適当ではあるまい。むしろ、身近にいた人間にありがちな、我こそは真実を知るという傲慢に陥ることへの自戒と受け取るべきである。勇気を出して本当のことを語ろうと決意した己をのっぴきならない場所へと追い込むために、著者は、まずこのように書き記す必要があったのに違いない。「エッセイの中に現れる石原吉郎は何かの役を演じているような趣きがかすかにあ」るという指摘には、生身の詩人を知らないわたしをはっとさせるものがある。詩人と呼ばれる人のなかには読みにくい散文を書く人がいるが、石原吉郎の言語表現能力はエッセイにおいても群を抜いていたし、その内容も、坐して書を読むだけでは我がものとはし得ない洞察の閃きが必ず埋め込まれていたから、多くの読者を魅了したのも当然と、わたしは単純に捉えていたからだ。
著者は、若き日にこの詩人を尊敬し、敬愛し、詩人もまたそれに応えた。力のない者、弱いものに対する、詩人の優しさ。その詩人が晩年に毀れていき、ぼろぼろになり、のたうちまわりながら、かつてひたむきに説いた詩人としての生き方を次々と目の前で裏切っていくのだ。
彼女は、石原吉郎を「胴上げ騒ぎでもしかねない人気者」にしたのは、彼の散文の影響によるものと考える。詩人のシベリア体験を知る以前に、彼の詩に感動した人だから余計そう感ずるのである。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。/もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」という鹿野武一の言葉に関連して著者はいう。
《石原吉郎熱が詩壇を席巻していた頃、この言葉はまるで石原吉郎自身のもののように錯覚され、鹿野武一の人となりはあたかも石原吉郎その人のように英雄化されてしまった。その熱狂の渦中から毅然として身を引けといっても、それは無理というものである。彼がもっとも危険の多いワナに足をとられたのが今の私には理解できる。喝采と一緒に宙に放りあげられ、やがてゆっくりと落下し、砕け散っていくさまを、私は見ているしかなかった。》
こういう言葉は、なかなか書けるものではない。
《シベリアでの長く苦痛な体験によって、石原吉郎はほとんど人間を信じることはできなくなっていた。人間の中でもことに男性には常に敵を感じ、固く心を閉ざしていたのが分かる。しかし彼にとって女性はまた別の問題だった。それは優しいもの、弱々しい故に彼が庇護してやらねばならぬものだったらしい。》
死の二年前、ある会合のあと、著者は酒に酩酊した石原吉郎が女性詩人たちにかかえられるようにして去っていく姿を、とっさに隠れた柱の陰から見る。「その一団は、なぜか蝉の亡きがらを曳いていく蟻の一群のように私の目には映った。〔……〕この印象は大変無礼なのは承知である。しかしこの印象を拭い去ることはついに私にはできなかった」。ここには詩人の取り巻きに対する嫌悪の正直な表明があるが、彼女は自らに対しても容赦がない。
《だ私が演じた役だけはここではっきりということができる。自分が惨めな日々、身に余る庇護を受け、少し雲行きが怪しくなると、いち早く逃げ出し、柱の陰から観察していたもの、それが私である。》
厳しい他者認識が、そのまま自己認識となることがわかる。「それほど心を動かされた詩人とこの世で出会えたことは何という幸運だろう――たとえその詩人が歪み、曲がり、奇態な形にふくらんで、ある日こわれてしまったとしても。」という言葉は読者の胸に重く響かずにはおかない。
石原吉郎とキリスト教の問題がエッセイの最後で触れられている。この問題は、おそらく著者が最も深く掘り下げたいものではないかと想像するが、彼女は「潔癖な人間に逃げ道を失わせてしまう」ところのあるプロテスタンティズムが詩人を追いつめてしまったところがあるのではないかと微かな疑念を指摘するに留めている。石原自身は、ある対談のなかで、宗教と文学は「全くの別物」と断言しているが、この認識に至るまでの身もだえするような葛藤をわれわれは思うべきであろう。それにしても、現実の人間とは、何と矛盾と混乱に満ちた、奇怪な存在であろう。そしてそういう人間同士の関係とは!
この本で語られている石原吉郎以外の詩人たちは、現在、詩集の入手も容易でない人々、要するに、石原のようには世間名を持たなかった詩人たちである。北森彩子に関する文章にわたしは深く胸を打たれた。この詩人は、石原吉郎のような、年上の尊敬する詩人ではなく、同年代の「詩友」であった。引用されているいくつかの作品を一読しただけで、確かにこの詩人の才能が稀なるものであることがはっきりとわかる。だが、彼女の性格は奇怪に歪んでおり、他人をずたずたに傷つけずにはおかない。ふつうの人間は、ここまで行き着く以前に、関係を絶つことで自分が傷つくのを回避しようとすることだろう。肉親や配偶者といった宿命的な他者以外を相手に、いったいだれがこのような深刻な葛藤を引き受けるものだろうか。しかし、さらに深く、さらに先へと、半ばは運命的な力に導かれつつ、関係を深めていくことで初めて見えてくる世界があることを、この書物は教える。わたしは何度も胸が締め付けられるような思いをしながら読みすすめたのだが、著者をそうした人間関係に引きずりこんでいく源泉は、優れた作品が放つ、抗しがたい、魔術的な魅力なのである。小柳玲子はこの書物を次の文章で閉じている。
《あなたの詩はいつも私の近くにいて、あなたの記憶が遠くなっていっても、私はそれを愛している。私は人生のある時期を、魅力ある大きな才能とともに在ったことに陶酔しているのである。》
*初出:『羚』 15号。2005年3月