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アキニレの果実 0014 記憶のための喩え話が大切な、ロマン主義

2017.12.19 08:46

個人の判断の枝分かれが、言葉やビデオなどの、
コミュニケーションのためのメディアにより、
他人や、他のコンピュータに、伝えられますが、
私たちは、言葉やビデオを見聞きして、
コンピュータの集積回路や、
脳の神経細胞の樹状突起などの、
判断の枝分かれや組み合わせを、知りたくありません。
 
記憶のための喩え話を知り、
他人の経験した精神や事実が伝わったと、誤解します。
 

そのせいで、脳の樹状突起には、
判断の汎用性があるにもかかわらず、
脳の特定の部位の神経細胞が、
特定の喩え話のためにしか、作動しないように、
脳の機能の偏食が、変更不能になっています。
 
コンピュータの集積回路は、
そのような不具合が起らないはずなのに、
昔の技術で作られた集積回路のために、
新しいソフトウェアのプログラムを作りませんので、
昔のプログラムのためにしか、
昔のハードウェアの集積回路は、機能しません。
 
脳の樹状突起が、汎用性を失い、
判断の変更不能をきたす仕組が、
今のコンピュータの集積回路でも、日常茶飯です。
 
特定の喩え話のためにしか、
機能しなくなる脳やコンピュータを、
私たちは、
具体的な精神や事実を、たくさん経験したと、
歴史的に表現します。
 
精神や事実は、経年劣化の原因や指標にすぎません。
 

コミュニケーションのための、言葉やビデオなどの、
メディアの表現しか、
精神や事実は、他人に伝えることが出来ませんので、
言葉やビデオを、たくさん経験した人ほど、
脳の神経細胞の樹状突起が、判断の汎用性を失い、
特定の表現のためにしか、機能しなくなり、
判断が変更不能になります。
 
言葉よりもビデオのほうが、桁違いに情報量が多く、
たくさんのビデオを見た人や、
たくさんの事実を、ビデオのように思い出した人は、
早く老化して、早く死ぬかも知れません。
 
頭の悪い人ほど、長生きするので、
精神や事実を、よく覚えている人が、
日本人に虐められた中国人や韓国朝鮮人のように、
南京大虐殺や従軍慰安婦を捏(でっ)ち上げて、
戦争を起こしてまでも、逆転しようと焦るのは、
不思議でありません。
 

果たして、私たちが見聞した事実は、
言葉やビデオにより、他人に伝えられるでしょうか。
 
直接には、他人に伝えられない精神や事実と、
他人に伝えるための言葉やビデオの表現が、
同じであると同定するのは、個人的な定義にすぎないと、
記号論理学者は言います。
 

複数の人間は、
伝えられた言葉やビデオの表現などを、
共有できるだけですから、
伝えられない精神や事実を、共有できるとするのは、
個人の勝手な思い込みでなければ、
権力のための、社会や文化による入れ知恵でないかと、
疑われます。
 

私たちは、ビデオを見て、
自分の記憶と同じであると、確信します。
 
ビデオは、
0と1の判断の道筋や組み合わせを、現していますから、
記憶とビデオは、判断の道筋や組み合わせが同じであり、
脳の中では、
樹状突起の枝分かれの、相対的な道筋として、
記憶されています。
 
1つの神経細胞の樹状突起では、足りませんから、
いくつもの神経細胞の樹状突起を、使います。
 
判断の枝分かれは、
1本が2本になり、2本が4本になるように、
選択肢が分岐しますが、
生物の進化系統図のように、不均一な枝分かれは、
汎用性が低い。
 
どの神経細胞を使用しても、似たようなものですが、
できるだけ均一に、何度も枝分かれした神経細胞を、
たくさん梯子(はしご)して、
判断の道筋や組み合わせの、特定や記憶や再現を、
行ないたい。
 

私たちが記憶しているのも、ビデオが現しているのも、
この判断の道筋や組み合わせですが、
無意味な乱数を暗記するように、
すでに知っていることに、こじつけて、
関連があるかのように、擬(なぞ)らえれば、
合理的です。
 
たくさんの意味を重ね合わせたほうが、
脳の神経細胞の掛け持ちや梯子(はしご)などの、
繋ぎ合わせが、少なくて済みます。
 
私たちが、ロマンティックな物語を作り、
0と1の無意味な羅列を、
言葉やビデオのように記憶するのは、
コンピュータの判断や記憶の仕組と、同じです。
 
人間の脳を、コンピュータが真似(まね)ました。
 
0と1の羅列から、
ロマンティックな言葉の使用に至る経緯は、
コンピュータが、すでに役立っているように、
間違いなく、私たちの脳の常套手段でした。

私たちの脳やコンピュータが、
記憶したり判断したりするのは、
0と1の、判断の枝分かれや組み合わせを、
特定するためですが、
社会や文化は、コミュニケーションのための、
言葉やビデオなどの、メディアの表現だけが、
精神や事実であるとして、
精神や事実の、嘘や間違いや本当を、識別します。
 
0と1の羅列を特定するための、
喩えや関連付けやリンクやこじつけに、
真偽の価値があるとするのは、
論理法則との一致を検証する、という意味です。
 
論理法則に違(たが)わなければ、
いかなる喩え話や物語も、絶対に嘘と証明されない、
という論理至上主義が、
インドヨーロッパ文明の根幹にありますので、
事実の出所が吟味されることは、ほとんどありません。
 

個人が、精神や事実を、直接に伝えられずに、
言葉やビデオの表現だけしか、他人に伝わらないのに、
ビデオと経験事実の内容が、同じであると、
判断するだけでなく、
他人も、その人の経験とビデオの内容が、同じであると、
判断して、
同じビデオが、同じ事実を経験した証拠になるのは、
論理法則に違(たが)わないからであり、
まったく別の判断も、簡単に成り立ちます。
 

汎用性のある樹状突起の枝分かれが、
喩え話のために使われるので、
脳の判断が変更不能になり、汎用性を失うのは、
ロマン主義の典型です。
 
ビデオの内容が、喩え話であるのは、
脳やコンピュータには、大切でなく、
社会や文化にとって、精神や事実の喩えが大切である、
という意味ですから、
どのようにして、ビデオは、
社会や文化の、特定のバーチャルな物語を、
記録できたのか、ということが、問題です。
 

社会や文化にとって、存在するのは、
言葉やビデオなどの表現だけであり、
個人が知る精神や事実は、バーチャルにすぎませんが、
個人にとっては、個人的な精神や事実だけが存在して、
言葉やビデオの内容は、
他人や社会や文化に伝えるための、
コミュニケーションの手段としての、
表現や権力にすぎません。
 
事実や精神と、言葉やビデオなどの表現が、
一致するのは、
個人と、社会や文化などの権力が、
結託しているからであり、
一致しないのは、争っているからです。
 
科学技術が、写真やビデオを作ったのは、
科学技術が、現代の権力を作ったからです。
 
論理主義と科学主義は、
共産主義革命や2度の世界大戦やホロコーストなどを
招いたロマン主義の特徴です。
 

ハルニレに比べて、
アキニレはこじんまりしていますが、
凄まじい量の翼果が飛びますので、
ポプラの雌株と同じで、街路樹にされると、迷惑です。
 
アキニレは雌雄同株ですので、 
この木が1本あると、周囲の生垣の中にまで、
たくさんの苗木が芽吹きますが、
大きくなると、病気に罹りやすく、また迷惑です。
 
せっかく育てたのに、病気になり、
伐らなければいけないのは、こん畜生ですから。
 
樹皮が剥がれて来ますので、あまり奇麗でありませんが、
病気に罹らなければ、
日本の広葉樹の高木の、最も細かい葉の質感が、
遠くからでも、美しく眺められます。
 
日当たりの良い水辺に育ちますから、
田んぼの多い日本の木ですが、
水辺の確保が、都会では難しい。
 
同じ楡(にれ)でも、ハルニレと大違いです。