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三浦半島剣崎の大根畑から鋸山 0055 科学と事実と論理と自然

2018.01.29 12:26

畑の向こうに、浦賀水道と、房総の山々が見えるのは、

いつもの風景。

 

私は、横須賀の軍艦と、三浦半島の大根畑や、浦賀水道を見て、

20年以上も暮らしましたから、長すぎました。

 

今は、ほとんど横須賀に帰らなくなり、

赤坂のマンションで暮す日々になりました。

 

早く、車や家やマンションなどの、持ち物を処分して、

身一つで死ねるように、頑張っています。

 

人生は、50年で充分でした。

身体が、くたびれて来ますので、

長生きしても、何も出来ません。

 

最大の誤算は、50才を超えると、知能がなくなることです。

これは、誰も教えてくれなかった。

50才になると、人間は知的障害です。

早く死ぬべきだったと、後悔しています。

 

両親の世話に、時間がかかりました。

50才を超えてからの月日は、両親と障碍者の介護だけだったような。

健康な子供ばかりが、生まれると限りませんから、

これも、誤算でした。

 

どうして、妻は1人なのでしょうか。

しなければいけないことが多すぎましたので、

妻は、同時に5人くらい、必要だったような・・・

 

それぞれに亭主をつけてあげますから、

わたしが多数を独占するのは、お断りです。

多夫多妻制が良かったと、人生を回顧しています。

 

 

   ***    ***

 

 

2人は、同じ物を見たかのように、思っているが、

知覚の内容は、全然違うかも、知れません。

 

同じであるとする言葉が同じだけかも知れません。

 

石ころを見たと言えば、もう1人も、石ころを見たと。

2人は、まったく違う知覚の内容を、

石ころと、名付けているだけかも知れません。

 

その石ころを空に放り上げると、落ちて来た。

固く重く、水に沈んだ。

 

石ころだけでなく、

空も水も、放り上げるも落ちるも沈むも、固いも重いも、

すべてが、まったく違う意味かも知れませんが、

他人の知覚の中を、検証できませんので、

私たちは、言葉が同じであれば、同じことを知覚したと、

思わざるを得ません。

 

同じ物を見たと、思ったのは、

同じ言葉を使ったの、間違いでないかと。

  

   

   言葉でなく、絵を使っても、事情は同じです。

   同じ絵を指(さ)して、

   知覚の中身と同じであると、2人は言います。

   

   その絵が、

   どのような知覚の中身を、指(さ)しているかは、

   2人の間で、まったく違うかも知れませんが、

   お互いに相手の判断を、検証できませんので、

   知覚の中身と同じである、とする相手の判断を、

   評価できません。

 

   同一の絵を、

   それぞれの知覚の内容を表す印として、

   使ったことが、

   2人は同じなので、同じ知覚を共有していると、

   言われるだけです。

 

   言葉や絵の代わりに、写真を使っても、

   事情は、まったく同じです。

 

   同一の写真に写っている物を、

   2人は、それぞれに、

   知覚の内容と同じである、と言いますので、

   2人は、同じ物を見たと、されますが、

   それぞれが見た物と、写真に写っている物が、

   同じであると、他人は検証できません。

 

   嘘や間違いだけでなく、

   メディアの表現と、知覚の内容の、対応関係は、

   それぞれの人の自由ですので、

   メディアの使い方が、

   他人との関係に、支障をきたさなければ、

   特定のメディアの表現が、

   どのような知覚を意味しても、構いません。

 

そこで、1人が、コップにお茶を入れて、

もう1人が、そのお茶を飲む光景を、ビデオに撮り、

経験した内容と、そのビデオの映像が、同じであると、

それぞれが証言すれば、ビデオの映像を証拠として、

2人は、同じ事実を共有したと、証明できます。

 

さきほどと同様に、

ビデオの映像と、経験した知覚の内容が、同じであると、

それぞれが証言しても、もう1人だけでなく、

他人は、その知覚の内容を、検証できませんから、

その判断の真偽は、わかりません。

 

ビデオに映っていますので、

2人が、ビデオの内容を経験したと、

2人だけでなく、他の人も、判断できます。

 

同一のビデオの映像を、

2人やその他の人が共有した、という意味であり、

同じ言葉を共有する代わりに、

同じビデオを共有しました。

 

2人のそれぞれの知覚の内容を、

他人が共有したのでありません。

 

科学技術の成果のビデオは、

旧来の言葉の代わりになりますが、

けっして、知覚の内容が、

他人に共有されるのでありません。

 

ビデオの映像が、言葉と同様に、

コミュニケーションのためのメディアの表現であることは、

一目瞭然です。

 

 

   私たちは、ビデオのような、科学技術のメディアの表現に、

   嘘や間違いがないことから、

   知覚されたと証明されないにもかかわらず、

   事実が、知覚に因らずに、知覚の外側に存在すると、

   確信します。

 

   科学技術は、知覚を捨て置き、

   唯物論を主張して、信用されましたので、

   事実が知覚されなくても、平気です。

   

   知覚されない科学技術は、あり得ませんが、

   論理法則を延長すれば、

   知覚されない事実を操作することにより、

   知覚される事実を変更できます。

 

   役に立つ事実は、次回も歓迎されますので、

   毒ガスのように、知覚されない事実を使い、

   知覚される事実を変更するには、

   最初に、役に立つ事実を示して置けば、簡単です。

   

   私は、科学技術の使い方の道徳を、

   言いたいのでありません。

 

   論理法則を運用する能力だけでなく、

   論理法則の教条が、人それぞれに違うにもかかわらず、

   特定の教条の組合わせにより、人を殺せるから、

   その組合わせが、

   論理法則として通用するようになったと、

   言っています。

 

   みんなに共通の自然の摂理でなく、

   科学技術は、流行文化を運用します。

   知覚や論理法則の目的が、人殺しでないかと、

   疑われるのは、憲法と同じです。

 

   知覚や論理法則や科学技術などは、

   事実や精神と同様に、

   自然の摂理でなく、流行文化や権力に従います。

 

   抗精神病薬を、強制的に投与された健常者が、

   権力や流行文化に従順になる仕組が、わかります。