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ヒヨドリとアカギ 0058 知覚を根拠としない規則性

2018.02.01 05:29


 

トウダイグサ科のアカギですが、

沖縄では常緑樹でも、大阪では落葉樹です。

 

日本生態学会が、日本の侵略的外来種ワースト100に、

アカギを選定したのは、

小笠原に移植されて、猛威を振るっているからですが、

大阪は、侵略されそうにありません。

 

沖縄では、2~3月に、花が咲くそうですが、

大阪では、桜の頃に、葉芽の展開と共に、花を開きます。

 

ヒヨドリは、

頭の毛が逆立っていますので、すぐにわかります。

アカギの実が、少し残っていました。

 

 

   ***   ***

 

 

生まれつきの遺伝形質の組合わせから、

個体特有の知覚の規則性を、個人は、論理法則と感じます。

 

たぶん、個人は、そう名付けないだけでなく、

世間一般の論理法則と、個人的な知覚の規則性の違いが、

多数派の集団の規則性と、

個体の生まれつきの、変更不能な精神の違いであると、

気づいていないはずです。

 

知覚の問題に、昔の知識人は、敏感でした。

本人の示す言葉や絵は、嘘や間違いかも知れませんので、

個人の知覚の内容を、他人は検証できません。

 

知覚の真偽が確定しなければ、

論理法則の根拠がありませんので、

一切の議論や論証は、無効であり、

個人は、他人か自分かの、いずれかを騙(だま)すために、

論理を使っているに、すぎなくなります。

 

これでは、キリスト教やイスラム教などの、

神の使いの言葉だけが、真実であるほうが、

ましかも知れません。


科学が、ただの実用のためなら、

科学と言わずに、技術と言えば、済むことです。

科学者は、神を騙(かた)る詐欺師でないかと、疑われました。

 

キリスト教やイスラム教は、

聖書の言葉を、論理法則の根拠としますが、

科学が、自然を根拠としたのでは、

宗教よりも下等で原始的な、自然崇拝かも知れません。

 

 

   写真が発明されたことから、

   知覚の規則性が、論理法則の根拠の座を失ない、

   言葉や写真などの、

   コミュニケーションのための

   メディアの表現の規則性が、論理法則の根拠になり、

   宗教は、廃れました。

 

   写真やビデオがあっても、

   他人の知覚を、検証できないことに、

   変わりはありませんから、

   メディアの表現のような、人為的な規則性を、

   論理法則の根拠とするのは、

   金本位制を廃止しても、

   通貨の信用が失われないようなものです。

 

   科学は、技術の紐でないかと、疑われます。

 

   技術立国と言わずに、

   日本の政策は、科学技術立国ですから、

   何のために、科学が、

   頭にくっついているのでしょうか。

 

   知覚されなければ、

   技術の有用性も、へったくれも、ありませんから、

   技術が、知覚に依存していることは、確実なのに、

   知覚から離れた議論を正当化するのは、

   フーコーの振り子のように、

   科学の特徴です。

 

   個人の知覚から離れたメディアの規則性は、

   金本位制の金のように、

   権力の扶養家族の座を、求めているのでないかと、

   疑われます。

   

   科学は、ロマン主義と共に、

   葬り去られるべきかも知れませんが、

   法律や医療も、論理法則を根拠にしています。

 

   個人の知覚はあっても、

   集団の知覚は、ありませんので、

   科学や医療のように、

   メディアの規則性が、自然の摂理を標榜するのは、

   民主的でなければ、呪術的な権力でさえ、あり得ます。