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ナシの花 梨 0127 事実は、偽造が容易 植草一秀君の手鏡事件

2018.04.11 05:31

 

農作物ですので、品種が多く、

花や葉の様子が、品種により違います。

 

花や葉の、どの特徴が、

梨のすべてに、共通であり、

梨以外の植物に無い特徴かを、

わたしは、植物の検索表を見て、

受け売りで伝えるしか、知りません。

 

おそらく、その特徴は、

単なる形質が、複数並列しているのでなく、

幾つかの形質の、何種類もの組合わせであり、

枝分かれのように、

遺伝形質の分岐した順番がありますので、

同じ形質の組合わせでも、順番が違えば、

分類の基準になりません。

 

花柄の長さが5㎝もあり、萼があるのは、

検索表の枝分かれの、

どこかで、使用できるかも知れませんが、

判断の組合わせと順番のすべてが、

規定されていなければ、

花柄の長さと萼の有無を、組み合わせても、

どこにも、使いようがないかも、知れません。

 

そして、品種により、

花柄や萼の様子が、違います。

 

植物図鑑の記述は、じつは、

その植物を特定できる記述でないかも。

 

分類や、進化の系統は、なんだろうって、

事実とは、なんだろうと、疑問に持つのと、

同じ意味です。

 

科学技術が役に立ち、

確かに、その予言の通りに、

だれが行なっても、

いつも、そうすれば、そうなるのでなければ、

だれも信じませんが、

科学技術が信じられない事態って、

いとも簡単に作り出せます。

 

 

   ***    ***

 

 

写真やビデオがあれば、

まちがいのない事実であると、確信して、

わたしたちは、コンビニ強盗を逮捕します。

 

カウンター越しに、包丁を突き付けて、

レジのお金をひったくってから、

逃げて行く様子が、映っています。

 

植物の写真を撮っても、

確かに、何年何月何日の、どこそこに、

その植物の花が咲いていたと、

証明できないことを、だれでも知っています。

 

写真には、日付も場所も、書かれていません。

 

日付を、写し込めるように、設定しても、

いくらでも、嘘の日付を、セットできます。

 

場所も、そう。

ほとんどの写真は、場所を特定できません。

 

日時と場所を、証明するには、

この日、この場所であると、わかるように、

工夫しなければ、いけません。

 

新聞記事があれば、その日よりも後であると、

わかりますし、

JRの駅が写っていれば、駅前とわかりますが、

合成写真かも知れません。

 

フォトショップのような

レタッチソフトを使えば、

簡単に合成写真を作れます。

 

データ量や、

処理速度のような、コンピュータの性能と、

どれくらいに、気の利いたソフトであるかに、

左右されます。

 

ほとんどは、コンピュータの性能に合わせて、

出来合いのプログラムを、

組み合わせますので、

コンピュータの、物理的な性能に、

依存しています。

 

今さら、わたしが説明するまでも、

ありません。

 

 

   幕末の志士は、1860年の、

   ワシントンやニューヨークを、

   見学しました。

 

   その頃の写真が、

   たくさん、残っていますから、

   彼らが見た光景の一端を、

   わたしたちも、見ることが出来ます。

 

   アメリカ合衆国の写真だけでなく、

   幕末の日本の写真も、残っています。

 

   しかし、

   それらの写真が、確かに、

   その年月日の、その場所であると、

   簡単には、証明できません。

 

   証明する方法は、ありますが、

   結局、事実を証明する方法と、同じです。

 

   つまり、言葉により、

   事実を証明するために、

   嘘でないと、わかるような工夫が、

   必要であるように、

   写真やビデオも、

   同じ手順の、証明が必要です。

 

   言葉だけでなく、写真やビデオも、

   偽造できますから。

 

   コンピュータの性能さえ、向上すれば、

   言葉と同じように、

   手軽に、嘘をつけますから、

   1860年の、

   ワシントンやニューヨークの

   写真だけでなく、

   1900年の、

   欧米を実写した動画フィルムなどの、

   すべてが、

   嘘八百と、区別できません。

 

   言葉のように、簡単に嘘をつけるって、

   厄介です。

 

   現在の写真やビデオが、

   まだ、そうでないのは、

   データ量と、

   コンピュータの処理速度に、よります。

   

   コンピュータの性能の向上は、

   時間の問題ですから、

   写真やビデオが、

   言葉の嘘と、区別がつかなくなるのも、

   時間の問題です。

 

   裁判所が、

   証拠として保全したコンビニ強盗の

   ビデオは、

   すべて、証拠価値を失います。

 

   嘘でない、という証拠でなく、

   むしろ、いくらでも嘘をつける、

   という証拠になってしまい・・・

 

   ビデオファイルそのものの、

   現物を証拠とすれば、と

   思いたくなりますが、

   いくらでもコピーできますから、

   現物に、なんの価値もありません。

 

   1900年の動画フィルムや、

   1860年の湿式写真の湿板そのものが、

   証拠物件になりますが、

   化石と同様の考証が、必要です。

   

   記録されているデータだけでは、

   何の証拠にもならず、

   データの真偽が、

   記録媒体(メディア)の実物と考証に

   依存するのは、化石と同じですが、

   裁判の証拠や証言も、すべて同様です。

 

 

手鏡の先生こと植草一秀君の、

2度目の痴漢が、有罪になった裁判では、

彼の手指から採取された、とする繊維が、

被害者の衣服の繊維に似ている、

とする鑑定を、証拠として採用しましたが、

その繊維が、

鉄道会社の制服の繊維と似ている、

とする大学教授の鑑定を、

証拠として採用しませんでした。

 

1度目も2度目も、

彼の事件は、物的証拠がなく、

証言だけが、頼りでした。

 

1度目は、警察官の証言しか、

ありませんでしたので、

偽証による冤罪の可能性が高く、

2度目は、マスコミの報道により、

被告人は、痴漢の手鏡の先生として、

すでに有名人になっていましたので、

彼を発見した乗客によるイヤガラセや、

からかいや、イジメを、

彼による痴漢であるかのように、

捜査当局が、

意図的に誤認した捏造事件でないかと、

疑われました。

 

つまり、1度目も2度目も、

証言の信憑性が、極めて低い、となれば、

何か、客観的な物的証拠を、

探したくなります。

 

1度目の、手鏡の事件では、

駅構内の監視カメラのビデオが、

あるはずでしたが、廃棄されていました。

 

事件があったのに、廃棄したのは、

証拠隠滅でないかと、強く疑われました。

 

2度目の事件で、

捜査当局が提出した物的証拠が、

彼の手指から採取したとする繊維ですが、

身体や衣服には、

他人の繊維が付着するのが、普通ですから、

どこで、だれの繊維が、付着したのかなんて、

わかったものでありません。

 

彼の手指から採取した、と言うのも、

証拠がないだけでなく、

採取された繊維が、

裁判所に提出された繊維であるかも、

不明です。

 

密室の中の、証明されない出来事は、

すべて嘘と、思ったほうが良い。

 

嘘か本当かが、争われているだけでなく、

冤罪なら、捜査当局が真犯人である可能性が、

非常に高いのですから、

嘘をついてもバレない状況で、

嘘をつかないアホは、いないと思われます。

 

戦争と同じです。

殺し合いですから、何が起こったかを、

敵に、正直に伝える軍隊は、ありません。

 

騙(だま)せば、戦わずして勝てますから、

戦争にも、戦争に反対するにも、最善です。

 

本当のことや、事実を疑わない道徳などが、

社会の只中(ただなか)では、

生存を拒否する価値にすぎないことを、

お釈迦さんのように、知っていれば、

虎に、真実や事実を説いて、食べられます。

 

捨身飼虎(しゃしんしいこ)と言いますが、

わたしは、宗教を信じたことが、ありません。

 

嘘をついても、バレない状況で、

争いの当事者の捜査当局が、

本当のことを、言うワケがない。

ぜったいにバレないことを、言います。

 

本当のことを言えば、

敵の有利になるかも知れないだけでなく、

揚げ足を取られかねませんから、

揚げ足を取られないことや、バレないことを、

言います。

 

自分の命はもとより、

味方の命が、かかっています。

 

権力のすることは、全部そうですが、

密室の中のことは、

バレない嘘しか、記録されません。

 

採取していないと、バレなければ、

採取したと、証言しますし、

その繊維片が、どれであるかを、

だれも識別できないのなら、

都合の良い繊維片を捏(で)っち上げて、

裁判所に提出します。

必ず、そうします。

必ずです。

 

繊維片の物的証拠は、

捜査当局による捏造の可能性が、

極めて高いと、言えます。

 

だれにもモニターされずに、

捜査中の密室において、

捜査当局により、捏造され得る証拠であり、

当局の不正の有無を、

だれも証明することが出来ないからです。

 

植草一秀君の弁護士は、

捜査当局が裁判所に提出した繊維片と、

京浜急行の制服の繊維片とが、

酷似しているとの、大学教授の鑑定を、

裁判所に提出しましたが、

証拠として採用されませんでした。

 

捏(で)っち上げが可能な繊維片ですが、

捏っち上げであるとは、証明できません。

 

わたしなら、証拠として認めても、

捏造でないとの証明がなく、

信憑性がないと、一蹴します。

 

捏造でないとの証明がないとは、

たぶん、判決文に書けません。

裁判と捜査は、同じ国家権力ですから、

権力の通弊を、指摘できません。

 

たんに、信用できないと、

判決文に書くだけでなく、 

強いて、理由を書くなら、

提出された繊維片と、被害者の着衣の繊維が、

同一である蓋然性が、不明であるから、

信用性は低い、とします。

 

 

   植草一秀君の事件は、

   2度とも、冤罪の可能性が、

   極めて高いだけでなく、

   捜査当局による犯罪の可能性を、

   否定できませんが、

   わたしの、12才の孫娘は、

   植草氏が、これまでに3度、

   痴漢により、警察に摘発されていて、

   常習犯であると、猛烈に抗議しました。

 

   わたしに抗議するんです。

   ジイちゃんは、卑劣な痴漢の味方だと。

   

   10度も摘発されたことがあると、

   週刊誌に掲載されたそうですが、

   植草氏が名誉棄損で訴え、

   3度と、訂正されました。

 

   当該事件が2度ですから、

   それ以前に、

   1度、摘発されたことがあり、

   被害者と称する女性が、

   被害を取り下げたので、

   逮捕されませんでした。

 

   被害を取り下げた理由は、

   わかりません。

 

   わたしが女性週刊誌なら、

   弁護士が金を積み、示談により、

   被害届を取り下げさせたと、

   書くかも知れません。

 

   しかし、被害届を取り下げたのでなく、

   被害を、警察に訴えたのに、

   最終的に、被害届を

   書かなかったのかも知れませんし、

   いったん提出した被害届を、

   取り下げたのかも知れません。

 

   弁護士がお金を積んだのでなく、

   示談で済ませたのでもなく、

   被害者と称する女性の、

   話の辻褄が合わず、

   誣告(ぶこく)の疑いが持たれたので、

   自分から被害の訴えを、

   引っ込めたのかも知れません。

 

   摘発されたが、逮捕されなかったのは、

   事情を聴かれた、というだけです。

   痴漢の加害を疑われて、

   事情を聴かれたのなら、

   摘発されたと、

   文学的に表現することも、可能ですが、

   ようするに、

   事情を聴かれただけであり、

   刑事事件として立件されず、

   真相はわかりません。

 

   摘発という文学用語しか、

   使っていないことから、

   週刊誌の意図がわかるだけでなく、

   違法行為がなかったと、言えることも、

   わかります。

   

   12才の孫娘は、

   そこまで読み取れませんが、

   わたしは、8才くらいに、

   その程度の国語力はあったような・・・

 

   孫は、あほです。

   日ごろの生活ぶりは、

   特に知的障害と感じませんが、

   娘があほでしたので、

   娘による孫の教育も、悪かった。

 

   女は、自分ひとりで、歩くことも、

   出来ませんから。

 

   わたしは、10才の頃から、

   1人で、ヒッチハイクをして、

   夏休みや春休みに、

   日本全国を旅行していました。

 

   ポケットに1500円を入れて、

   寝袋を持参していましたが、

   お金は、ほとんど使いませんでした。

 

   中学を卒業する頃までに、

   日本全国の、

   人口5万人以上の自治体は、

   すべて訪れました。

 

   その癖があり、

   1ヶ所に、数年も暮していると、

   退屈になり、

   知らない人間が、恋しくなります。

   

   女の子は、痴漢に襲われますから、

   1人で旅行も、できません。

 

   医者や弁護士になったり、

   東大に入学したりが、夢なんて、

   クマのプーさんを抱いて

   寝るようなものです。

 

   車椅子でも、

   医者や弁護士になっている人や、

   東大出身の

   キャリア官僚がいますが、

   1人で、ほっつき歩くことが

   できないのに、

   権力を握りたいと思うのは、

   昔の映画の、

   座頭市のようなものかしら。

 

   彼は、何を頼りに歩いたのかと、

   映画がヒットした時に、

   気になりました。

 

   目が見えないのに、

   知らない道を、歩けるわけがない。

   1人で、ほっつき歩けないくせに、

   女が握りたがる権力って、

   クマのプーさんでなければ、

   仕込み杖なんでしょう。

 

   女は産む機械である、と言えば、

   わたしのせいでないのに、

   わたしや植草君が怒られるから、

   嫌(いや)になります。

 

   孫が10人いますが、女が7人で、

   ローヤルゼリーを与えられて、

   肥育されていますから、

   3人ぐらいは、

   医者や弁護士や東大です。

   

   わたしは、それまでに死にますから、

   無責任ですが、

   うちの父も、

   1人で寝れない知的障害でしたので、

   仕方ありません。

   わたしが生まれました。

 

 

手鏡の植草君が、3度、摘発されたのは、

常習犯どころか、

最初に、痴漢で摘発されたにもかかわらず、

法律違反が、何もなかったので、

手鏡の冤罪事件について、警察のほうから、

報復のために仕掛けた可能性を、

否定できません。

 

そのように、報道から窺(うかが)えます。

不審人物として、尾行していたところ、

犯行に及んだと、

当局は、マスコミにリークしています。

 

警察は、必ず、そうします。

1度、ドジを踏むと、

必ず、ムキになって報復します。

そうでなければ、馬鹿にされたままになり、

警察の沽券にかかわります。

 

そういう組織ぐるみの方針ですから。

馬鹿にされない、という権威を、

大切にしなければ、いけません。

信用があるから、捜査が成り立ちます。

 

権力機関は、皆、そうですが。

必ず、失地を回復するために、

目に物を見せる挙に出ます。

必ずです。

 

目に物を言わせて、恐れさせる。

失地を回復して、信用を取り戻す。

権威がなければ、捜査ができませんから。

 

痴漢を摘発したが、違法行為がなく、

せせら笑われて、馬鹿にされたと、

警察が感じれば、

必ず、仕返しの捏(で)っち上げ事件を、

警察のほうから、積極的に仕組んで、

実行します。

 

どうだ、恐れ入ったか。

これからも、

警察を馬鹿にすると、こうなるぞ。

思い知れ。

 

植草一秀君は、別にバカにしていなくても、

警察官のほうが、そのように感じています。

権力内部の上下関係って、そうですから。

 

だから忖度します。

 

痴漢摘発なのに、お構いなしの事件の、

報復として、手鏡事件の冤罪が、

捏(で)っち上げられた可能性を、

否(いな)めません。

 

こうなると、

風が吹けば桶屋が儲かる状態ですから、

もう書きませんが。

 

 

   写真やビデオが、証拠にならないのは、

   言葉に、嘘や間違いがあり、

   言葉だけでは、信用できないのと、

   同じ仕組みであると、

   わからなければ、いけません。

 

   事実が、そのような仕組みの、

   本家本元であると。

 

   事実は、言葉や写真やビデオなどの、

   知覚の内容を他人に伝えるための、

   メディアの表現にすぎません。

 

   当然、メディアの表現の規則性の、

   言葉の文法のような流行が、

   自然法則と言われる事実の規則性の、

   根拠でないかと、疑われます。

 

   つまり、論理法則は、

   文法にすぎないのでないか。

   自然の摂理や秩序は、流行文化の教条に

   すぎないのでないかと。

 

   加速器に1兆円の予算を付ける必要も

   ないけれど、

   人生って、全部、不要な事実ばかりで、

   国家予算と、

   わたしのケイマン諸島の銀行口座が、

   同じに見えて来ます。

 

   樹木の写真を撮っても、

   この花が咲いていた、という事実を、

   ちっとも証明できません。

 

   嘘八百の樹木や花を、

   簡単に作れるのなら、

   人生の証拠も、朝飯前。

   

   経験や事実ほど、

   虚(むな)しいものはないけれど、

   そもそも、それを求めるための、

   経験や事実でなかったのかと、

   思い返します。

 

   メキシコのシロアリの塚のように、

   個人の身体や知覚の内容は、

   社会や文化の産物ですから、

   インターネットに似ていますが、

   同じ社会と言われる巣を、

   たくさんの個体の身体や、

   知覚の内容のように、

   わたしたちは、表現しています。

 

   同じ1つの巣が、

   75億の身体や、知覚の内容と、

   言われています。

 

   わたしとあなたの、身体や心は、

   見え方の表現や、知覚の内容が

   違うだけで、

   富士山のようなシロアリの巣が、

   1つ、あるきりでないかと、

   疑われます。

    

   75億の見え方や表現が、

   あるだけでないかと。

 

   1860年の幕末のワシントンや

   ニューヨークの写真や、

   1900年のサンフランシスコや

   フィラデルフィアの動画が、

   ただの言葉の嘘と、識別できなくなり、

   何の価値もなくなるって、

   過去の記憶や化石だけでなく、

   事実や経験が、

   虚(むな)しくなりますが、本当です。

 

   コンピュータは、そういう社会を、

   作りつつあります。

 

   憲法改正だけでなく、法治主義も、

   見直さなければいけませんが、

   とりあえずは、大日本帝国憲法や

   日本国憲法などを作った幕末や

   第二次世界大戦などの、

   ロマン主義を標榜する考え方は、

   ビデオを突き付けて、

   コンビニ強盗の動かしがたい証拠と、

   確信する考え方と、同じですが、

   コンピュータは、

   そのような判断の手順が、

   ナンセンスであると、指摘します。

 

   化石から、歴史を築いたり、

   事実から、正義を導いたり、

   経験や科学技術から、

   自然の規則性を確信したりって、

   荒唐無稽の、

   小笠原流の礼儀作法やタロット占いに

   すぎないと。

 

   憲法や警察や精神科医や軍隊などの、

   権力の実力行使を信じるのは、

   水戸藩の尊王攘夷や、

   籠池泰典や安倍晋三の

   憲法改正のように、

   時代錯誤と、わたしは思います。