オープンとクローズ
似たようなものであっても、何か苦手だったり違和感があるものと、自然ですんなり受け入れられるものの違いは何だろう。単にその個人との相性もあるだろうが、線引きがある気がしてならない。その線引きについて個人的見解だが、所謂「スピ系」と「spiritualであること」の“違い”について考えてみた。
結論から言うと“閉鎖的・特権意識と排他性・商売目的・依存的”であるか、“開放的・普遍性・知恵や文化・自律的”であるかで線引きが成されると思う。
なぜスピ系が距離を置かれたり忌避されるのかというと、取り扱うテーマが“見えない世界”であることによる疑念より、独特の閉鎖的陶酔や商売目的の綺麗事(嘘)が気色悪がられるように見受けられる。それは普通とは違う“壁”を感じさせるからだ。メソッドでもアイテムでも、そのものは心や体の悩みを癒してくれる本物かもしれない。けれど、そこに関わる人達だけで通じる“スピ用語や取りつかれた様な熱弁”が、それ以外の人達との温度差や“壁”を生む。弱さや自己顕示欲から見えない特別なモノを祀り上げることで自分を“特別にしたがる”感覚も、マイノリティやはぐれ者が居場所を見つけて“そこだけを神聖視”しがちなことも“壁”の元だ。壁で閉鎖していると淀んでゆき、最初は良かったものも世界と隔絶してカルトじみてくる。そして、過剰なポジティブワードや自己実現などの糖衣でオブラートした高額アイテム販売や資格商法を“売りつける”と警戒される。浄化、オーラ、気等の本来は普通であった言葉が、“スピ臭い”と使い辛くなってしまったのは、不安とサバイバルの時代を背景にスピ系が“癒しビジネス”として無理に拡大した負の側面だろう。本当に良いものを取引するのはいいが、癒しやパワーのレッテルを張って粗悪なモノや依存助長のサービスを売りまくっていたことが、スピ系=胡散臭いという大多数の認識を作ってしまったようだ。そして私もスピ系が苦手だ。
逆にspiritualであることというのは、とても地味で自然なものだ。日本人なら八百万の神というように、木や水辺などに特別な空気やエネルギーを感じたり、すべてを大切にしようという意識がある。アニミズムだけでなく、人が生きる上での縁や導きなど、大きな理を認識していることも多いだろう。それらを体験したり伝えるときは“普通の言葉”で実感をもって話すから、聞いた人も共感したり受け入れることが難なくできる。見えない力や不思議なことというのは、空気の様に当たり前のものなのだ。それを大切にすることは“知恵”として文化や風習で広く引き継がれている。高額のお金を出して選ばれた人たちが得る、という商売と真逆の在り方だ。ネイティブアメリカンのことわざが国を超えて人の心を打つように、タオイズムが老子の崇拝集団ではなく哲学として広まり活用されたように、どんな地にも大いなるものと繋がる祭りがあるように、それらは普遍的で開放的なものなのだ。宇宙まで広がる意識、生命、生きるということ、自然の力、文化的な面白さ、そういうことを考えていることはとても芯を捉えていて大切だと思うので、私はspiritualであることを肯定している。
このブログはそういうスタンスでとりあえず一気に書いてみた。これからはインスピレーションが湧いた時や思い立った時に更新していこうと思う。オープンして普遍的な知恵や文化としてシェアしていくことができたらいいなと思っている。