花の世界の無限の遠さ:わがレゾナンス
休日になると、一歳の次男は家内にまかせ、帽子を被り水筒を肩から下げて、小学一年の長男と近くの森を散策することがあります。横浜も北部は意外に自然林が多いのです。雑木林沿いの緩い小径を歩いていくと、かたわらにせせらぎが流れはじめ、農家の道具置き場のある、ひらけた場所があります。ここの雰囲気が何ともいえずすばらしいのです。
初めてここを訪れたとき、わたしはルナール『博物誌』のなかのある文章を思い出しました。ここの樹木たちが「家族そろって暮らしている」ように見えたのです。ひときわ大きい「いちばん年長のもの」の蔭にわたしは腰を下ろし、息子はこの木によじ登ってクワガタムシを探します。
さまざまな蝶やトンボが飛び交い、バッタの類があちこちではね回っています。小川が近くにあるとはいえ、小さな茶色の蛙が巨木の根本にいるのは不思議な感じでした。鳥に食べられたのでしょう、カブトムシの頭部だけが転がっています。
そよぐ風。流れる雲。生まれつき心臓が悪く、幼いころは家の中で過ごしていたわたしにとって、戸外の自然は別世界の輝きに満ちたところでした。昭和四〇年代、海に近い松林に囲まれた生家では、室内でも、縁側をカミキリムシが歩いていたり、蚊帳を吊った八畳間をコガネムシが飛び回ることがありましたが――。
長男が歩くこともできなかったころ、抱き上げて散歩に出て、風に梢を揺らす雑木を二人でじっと眺めていたことがあります。また、近くの草にとまったトンボが、呼吸をするたびに細い腹をふくらませたりへこませたりするのを眺めていたこともあります。親しい誰かとともに自然のなかにいるときの、満ち足りた深い充足の感覚には、ほかに代え難いものがあります。
この夏、わたしは王安石の「初夏即事」に共感して、「夏の歌」というタイトルで自由訳してみました。原詩は「石梁茅屋有彎碕。流水濺濺度両陂。晴日暖風羽生麦気。緑陰幽草勝花時。」という七言絶句です。
農道を歩く
石の橋のたもとの茅葺屋根の小屋
川の流れはそこで折れる
清い水が二つの池に注いでいく
青い空 暖かな風 そして麦の薫り
何処を見ても輝くような緑ばかり
花の季節よりも美しい
結句をそのまま受け取ることはできないにしても、夏の美しさには花の季節に優るとも劣らない輝きがあります。
それにしても、自然とは、何とさまざまなフォルムに満ちていることでしょう。名もない花を摘んで見入るわたしに、息子が誇らしげに示す甲虫の美しさ。雲や水の流動性を見ていると、植物にせよ動物にせよ、生命を持った存在が、固有のフォルムを獲得するために費やしてきた途方もない歳月を思わずにはいられません。そしてわたしは、このような世界を創造した神を讃美せずにはいられない。書物や典礼を通してではなく、自然界の観察を通して神を考えることができるようになったのは、息子を授かったおかげです。『ファーブル昆虫記』も、わたしにとっては、これほど面白い神学の書はないのです。
長男が生まれたときの、世界全体が新生したような感覚をわたしは思い出します。とりわけ鮮やかだったのは、路傍の花々や昆虫などの小さな生命たちが、生き生きとその存在を示し始めたことでした。横浜市緑区というのがわたしが暮らす場所ですが、区名のとおり、市内で最も緑被率の高い地域で、ここが横浜かと疑うような雑木林がそこかしこにあります。傾斜地に建設した低層の集合住宅ですが、森に囲まれたシャトーのような風情が気に入って、こどもが生まれたのを機会に狭い官舎から引っ越したのでした。雑木林の中に続くくねくねした農家の私道を抜けて丘の下の市道に出て出勤するのです。朝陽の射し込む林の中には朝露に濡れた花が咲いている。わたしは彼らの一人一人に、おはよう、と声をかけながら歩きました。都内から深夜に疲れ切った体を引きずって帰宅するときにも、月光を浴びるそれらの花々に、わたしは必ず声をかけるのでした。
花というものの、この世のものならぬ美しさに気が付いたのは、恥ずかしい話ですが、このときのことです。「自然の詩について。花は完全に詩である」というノヴァーリスの断章は、当時のわたしの気持を代弁しています。自分はこれまで何を見てきたのだろう、とわたしはいぶかしみました。世界はその秘密を全て開示しているわけではないのだ。人生のある時点で、少しずつその秘密を打ち明けていくものなのだと思わずにはいられませんでした。ノヴァーリスも先の断章に続けて「花の世界の無限の遠さ」と謎めいた言葉を記しています。
ルソーは『孤独な散歩者の夢想』のなかで、「植物は、空の星と同じように、ふんだんに地上に撒き散らされているが、それは人間が楽しみや好奇心によって、自然を研究したくなるようにするためではあるまいか」と記しています。今日、空の星が「ふんだんに地上に撒き散らされている」という実感はないのですが、植物はルソーが続けていうように「ごく自然に私たちの手の届くところにある。それは私たちの足下に生まれ、いわば私たちの手のうちにある」。けれども、私たちの手のうちにあるけれども、無限に遠くあるもの、それが花ではないでしょうか。
それまでもっぱら恋愛心理やスノビズムに関する洞察ばかりが目についていたプルーストの世界がそれまでと違って現れてきたのもそのころのことです。『失われた時を求めて』のなかでは三〇〇にのぼる花が描かれているとききます。若いころに、かたわらで眠る愛人を「花をつけた茎」と呼ぶ感性に言いしれぬ官能的魅力を覚えたことはありますが、プルーストが、片山敏彦のように、花を前にして長い時間立ち尽くしていたというような証言も、当時のわたしにとっては何ということもないただの言葉にしか過ぎませんでした。しかし、不惑間近になって、わたし自身がそういう人となってしまったわけです。
それにしても、プルーストの小説に登場する一つ一つの花について、論文が書かれていることにわたしは驚くのです。物語の語り手にとって花における「初恋の対象」であったサンザシは改めていうまでもありませんが、登場人物がボタンホールに挿しているという、物語でただ一度だけ描かれる花についてまで論文が書かれていることには驚くばかりです。しかし、西欧文化史におけるシンボリズムを引証して、プルーストの「隠されたる意図」を緻密に論証するこの種の論文が、あたかも花の香りの科学的分析のような味気なさを感じさせるのは、客観性を重んずる学術論文の宿命として、論者の実存が小説世界に直截投入されないからでしょうか。プルーストにとって、花はもっと生き生きとした、リアルな存在であったはずです。このような実証主義的視線からは、プルーストの花の世界は――ノヴァーリスの言葉を借りれば――無限に遠いのではないでしょうか。 プルーストは、当時の上流社会や、不透明な人生というものを描いたという以上に、宇宙と人間存在との秘密に満ちた関係を描いた作家です。「花咲く乙女たちのかげに」の中の名高い一挿話をわたしは思い起こすのです。語り手は、馬車に揺られながら、丘の上の三本の樹木を目にします。それらが描く姿は、確かに「一度見たことのあるデッサンをえがいている」のですが、「その場所の見当がつかず、ただむかし私にとって新しい場所だたという感じがするだけ」です。語り手は、それがどこであったのか、そして現在自分が感じている情動の正体を、ついに知ることができません。そのうちに、馬車は木のかたわらを通り過ぎていきます。
《私は木々が必死のいきおいでその腕をふりながら遠ざかって行くのを見たが、それはこういっているようだった、――おまえが今日私たちから学ばなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力しておまえのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私たちをふりすてて行くなら、おまえにもってきてやったおまえ自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。(井上究一郎訳)》
やがて三本の木は、馬車からすっかり見えなくなる。「いましがた、友人を失ったか、自分自身が死んだかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように、私は悲しかった」。 われわれにとって、およそ事物はこのような個別的な神話的形姿で現れてくるものであり、そこに見られるリアルな象徴性は、知的体系としての伝統的シンボリズムに全てを還元することができません。その人にとって時が熟し切ったときにのみ、世界は秘密を開示するのでしょう。
イングリット・リーデルは、象徴結合体としての絵画について、「絵を完全に解明することよりも、絵の扉を開けること、われわれが絵の秘密をより深く理解できるよう接近することが、むしろ重要である」(『絵画と象徴』)と述べていますが、これは、絵画以上に、人生にあてはまるように思われます。人生は絵画以上に象徴に満ちているから、つまり「有り余る意味」に満ちているからです。人生という謎を解き明かすことはできない。しかし、その扉を開けること、人生の秘密をより深く理解できるよう接近すること、これは重要なことでしょう。それはいわば、教会などの社会的権威を通さずに自我が世界と交わす神との私信であり、実存が投入された個別的な理解にほかなりません。
何人たりとも自己の運命に逆らうことはできないのでしょうが、たとい信仰を持っているにせよ、ただひとりで深く噛み締める年月を経なければ、凸凹に満ちた己の人生航路を神の摂理とこころから受け止めることはできないはずです。
花の世界の無限の遠さ。地上に咲き誇る花々が、徐々に萎れ、変色し、縮れ、最後には風に吹かれて飛び去る塵と化すように、わたしも、そしてわたしの息子たちも、いつか土に帰ります。無からの形成。そして無への衰微。そこにかかわる目に見えぬ力を思うとき、今ここに現存する生命たちは、無限に遠い聖なるものとかかわっている――そんなふうに思えてならないのです。
*初出『同時代』19号、2006年12月