テッチェン祭壇画中のわたし
井筒俊彦は、若き高橋巌先生に「君はカロッサとリルケとどっちが好きなの」と尋ねたという。高橋巌先生は、二〇歳の私に「あなたもヴァーグナーが好きなのですか」と尋ねた。高橋先生の下で私はシュタイナー『神智学』や未公刊でタイプ印刷された『神秘学概論』などを精読した。西欧神秘学との出会いだった。その後、私は神秘道を歩むことに限界を感じ、高橋先生の膝下を離れ、教会を通して「神」に接近しようとした。つまり、キリスト教カトリシズムへと実存的に傾斜し、近代日本精神史とキリスト教との関係を研究するようになったのである。拙著『須賀敦子と9人のレリギオ』はそのささやかな成果だ。
ヴァチカンは、人智学を含めたニュー・エイジを古代のグノーシス思想の再来と明言し、警戒を強めている。これはユング的に申せば、西欧神秘思想を自らの「影」と認めているということだ。私の理解では、両方を合わせてキリスト教全体が見えてくるはずなのだが。
ところで、昨年から病気になって休職中だ。ミサにもあずかれなくなり、やむなく自宅で壁掛けの十字架に祈る生活となった。読書といえば、ダンテの『神曲』を、邦訳で毎日数頁ずつ声低く読むのみ。(そういえば、鎌倉在住時代の高橋先生の書斎には、メディテーション用のルンゲの絵画が壁面に掛けられ、その両脇には蝋燭が立っていた。)
そんなある未明に夢を見た。ドイツ浪漫派の画家カスパー。ダヴィット・フリードリヒに「テッチェン祭壇画」(ドレスデン国立近代美術館)という作品がある。私はこの作品を一九七九年に東京竹橋の美術館で開催された展覧会「フリードリヒとその周辺」で見たが、高橋巌先生の名著『ヨーロッパの闇と光』の新版表紙カヴァーにも用いられているものだ。山頂にキリスト・イエスの磔刑された十字架が立ち、背後から曙光が輝いている。夢の中では、その蔦の絡まる十字架の根元に、私がうつ伏せで横たわり、右手を十字架に触れていた。苦心して登攀し切ったところで息絶えたらしい。目覚めたときの感動は忘れ難い。病床にあり、思い出すのは、若い頃に日本アルプスを縦走したときに見た曙光の美しさでもあったからだ。フリードリヒには「テッチェン祭壇画」と同様の構図を、下から見上げるのではなく、鳥瞰した「リーゼンゲビルゲの朝」という作品もある。ここでは十字架に手をかけた若く美しい女性がキリスト・イエスを見上げている。
ダンテを読んでいるからこのような夢を見たのであろうか。わからない。しかし、それは問題ではなかろう。現代は、教皇、枢機卿、大司教はいても、預言者も使徒も教父もいない時代だと今道友信氏はいう。しかし、神はあらゆる空間に遍在し、祈りの場を神化するのだとも。然り。そして祈りを通して自然の中の十字架に象徴される何か――「神」に、自分が辿り着こうと努力していることだけは確かなことのようだ。
*初出:『三田文學』97号、2009年4月