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Nozomi Matsuda

ヒミツノハナシ(2)

2018.05.12 22:00

2016年4月。

この学校で教師9年目を迎えた今年、この学校ではついに4年目を迎えた。

知る顔の者は皆卒業し、知らぬ顔の者が入学してくる。

新一年生は去年まで中学生という面影を漂わせながら少しぶかぶかの制服に袖を通し校舎に入ってくる。

入学式を終えて1週間後。

初めての授業が始まった。

私は三年生の担任だが、一年生の数学を少しばかり受け持っているクラスがある。

受け持っていると言っても、教室の後ろに立ち補助をしているだけだ。

八クラスあるなかで三クラスほど受け持っているのだが、どのクラスの生徒も同じようなもので、一生懸命授業についていこうとノートを必死で写す者、窓の外をぼんやり眺めて上の空になっている者、バレないようにこっそり携帯でゲームをする者の三種類の生徒だった。

そして今日、あと一クラスと顔を合わせる。

雰囲気は他のクラスと変わりはなかったのだが、私の目にはある生徒の姿が映っていた。

その生徒は、ノートを必死にとるわけでもなく、ゲームをしているわけでもないが、なにか気になって目に留まった。

その生徒の名は、松田という。

松田は、首を九十度下に曲げ、左手で自分の髪をくしゃっと握っている。

右手に持つ、蛍光黄色のシャーペンはプルプルと震えていた。

どうしたのかと思い少し覗き込むと、松田は目に涙を溜め込んでいた。

付箋に「どうした?」と書き、目の前のノートに貼った。

松田は持っていたシャーペンでノートの端に「なんでもないです。」と書いた。

その場はそれで終わってしまったのだが、授業が終わった後に声をかけた。

「松田、数学嫌い?」

それしか言えなかった。

「はい、嫌いです。大っ嫌い。」

松田は感情を込めて言った。

数学の教師としては少し悲しかった。だが負けじと言い返す。

「じゃぁ、この一年で松田が数学は嫌いじゃないよって言えるようにしよう。好きになれとは言わないからせめて、嫌いじゃないって言ってほしい。」

私の本気の願いだった。

松田は私の顔を見てニコッと笑って、よろしくお願いしますとだけ丁寧に言って去った。

なんだろうか、この喪失感というか、胸にポッカリと穴が空いたようなこの感覚。

ただ、あの松田の笑顔が繰り返し繰り返し脳内で流れ続ける。

翌日の放課後、出入り口から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「失礼します。1年2組の松田です。相沢先生いらっしゃいますか。」という改まった話し方、声のトーンですぐにわかった。

「どうした?」と声をかけると松田はこう言った。

「あの、数学。全然わかんないんで教えてもらえませんか。今日の授業も意味不明で、全然ついていけないんです。」

松田はなかなか目を合わせてくれないが、一生懸命さは伝わる。

「わかった。じゃぁ、10分後2組の教室行くから待ってて。」と言い自分のデスクに戻った。

教科書と裏紙とチョーク、それから準備しておいたプリントを持って職員室を出た。

まだ廊下は寒い。

やっと冬が開けて春が来て、なんとなく温かみを感じてはいたが、廊下は相変わらず寒い。

渡り廊下を渡り、階段を上って4階の1年2組の教室にたどり着いた。

ドアに手をかけながら窓から教室を覗いた。

松田は下を向いてシャーペンを走らせている。

手をかけていたドアに力を込めた。

金属と金属が擦れる嫌な音と台車の回る音が松田だけしかいない教室に響いた。

「あ、先生。」

顔を上げてこちらを見る松田の目は、やっぱり涙がこぼれそうになっていた。

「おいおいおい、泣いてるのか?」私は焦りを隠せないまま声をかけてしまった。

松田は、黙ったまま首を横に振って、俯いてしまった。

私が九年間、教員生活をしてきて初めて見る生徒だった。

こんな風に突然泣き出す生徒というのは見たことがなかった。

「答えたくないならいいんだけど、なんで泣いてるの?」

私はそっと尋ねた。

「数学の…問題が解けない…のが悔し…くて…」

泣きながらそう訴える松田は一度も私の顔を見てくれはしなかった。

まだ何か、続きを言おうとしていたが止めた。

「わかった、わかった。もう、無理すんな。解けないのが悔しくてしょうがねぇんだな。」

私がそういうと、松田はゆっくりと深く頷いた。

「せ…先生。私に、数学は。できない。」

はっきりと、私の耳に聞こえるように言った。

「できない、なんて簡単に口にするな。俺が教えるんだからできないわけないだろうが。俺を信じてやってみないか?」

私には、自信があった。

松田が数学を少しでも好きにさせる自信があった。

松田は、驚いた顔をして私の目を見た。

松田と出会って三十四日目のことだった。