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HISTORY SUZUKI その1

2018.05.11 10:47

メーカー・ヒストリー

SUZUKI

■戦争で頓挫した小型自動車計画

現在のスズキ株式会社の前身、“鈴木式織機株式会社”は創業者・鈴木道雄によって、大正9年に浜松市に設立された。当時、我が国の主幹産業だった繊維業界に広く受け入れられた鈴木式織機は、順調に業績を伸ばして、年号が昭和に変わる頃には東南アジアにも輸出されるようになっていた。しかし、鈴木式織機はやがて、大きな壁に突き当たることになる。ライフサイクルが半永久的な織機の場合、その市場は昭和初期には、はやくも飽和状態に達しようとしていたのだった。

そこで、鈴木式織機は小型自動車の将来性に、活路を見出すことになった。鈴木三郎を主任として、小型自動車の研究、開発がスタートしたのは、昭和11年のことであった。さっそく、研究/開発グループは、英国製のオースチン・セブンを購入して、自動車の基礎知識を習得することになった。そして、3年の歳月を経た昭和14年には試作エンジンが完成して、いよいよ鈴木式織機の自動車生産への道が開けるかにみえた。しかし、第二次世界大戦へ向けてエスカレートの一途をたどる軍国主義が、鈴木式織機の夢を打ち砕くことになったのである。軍需産業への転換を強いられた鈴木式織機は、軍部の要求に従って、自動車生産計画を断念することになったのだ。

日産自動車が横浜工場でダットサンの生産を開始したのが昭和9年、トヨタ自動車工業が設立されたのが昭和12年。このわずか数年の遅れが、鈴木式織機の運命を左右したのである。順調に計画が推移していれば、スズキの小型自動車は、我が国の自動車産業の黎明期に確かなトレッドマークを刻むはずだった。

■再スタートされたエンジン計画

敗戦とともに、鈴木式織機は、本来の事業である織機の生産を再開した。だが今度は、当時、日本国中に吹き荒れていた労働争議の嵐が、鈴木式織機の前途に立ちはだかることになった。こうした争議から鈴木式織機が解放されたのは、実に昭和26年のことだった。その間、国内にも、再建の息吹は確実に芽生えはじめていた。2輪の分野では、昭和21年に唱和製作所から唱和号が登場、富士産業のラビット号、目黒製作所のメグロ号といったオートバイが先を争うように名乗りを上げはじめていた。そして、昭和23年になると本田技研工業が設立され、次々とヒット作を世に送り出すことになった。

労働争議をなんとか乗り切った鈴木式織機ではさっそく、当時、爆発的に普及しつつあった自転車用の補助エンジンの試作が開始された。戦前の自動車研究グループに所属していた設計課長の丸山善九らによって、鈴木式織機の補助エンジン試作プロジェクトは再開されることになったのである。丸山は、自動車計画が中断された後も、趣味で模型飛行機エンジンを製作していた。この模型エンジンをベースとして、鈴木式織機の補助エンジンは開発された、といわれている。

この「アトム号」と命名された試作1号エンジンは、2サイクル30ccで最高出力0.2馬力を発生していた。一般的には、人間が持続して発揮するパワーが0.2馬力といわれている。この点を考慮して目標馬力が設定されたアトム号だったが、実際に走行テストしてみると、非力感は否めなかった。そこで急遽、排気量を36ccに拡大した、1馬力エンジンへの仕様変更が行われることになった。この改良型は、昭和27年4月12日に完成、改めて「バイク・パワーフリー号」と命名されたのである。

■ダイヤモンド・フリー号の成功

パワーフリー号は、5月に行われる浜松の“凧揚げ祭り”の会場で発表されることになった。当時は、ホンダA型が補助エンジン市場全体の70パーセントを占め、残りのシェアをめぐって、数多くのメーカーが凌ぎを削るという状況だった。晴れてデビューを飾ったパワーフリー号にとって、けっして状況は楽観的ではなかった。しかし、パワーフリー号には、既成の補助エンジンとはひと味違った、優れたメカニズムが採用されていた。常務の鈴木俊三のアイデアといわれる“ダブル・スプロケット・ホイール”と呼ばれた駆動装置や、補助エンジンには珍しかった2段変速によって、パワーフリー号は先行するライバルよりも、性能的に一歩抜きんでていたのだ。7月15日に東京・日本橋のモーター・バイク展示即売会に出展されたパワーフリー号は、こうした斬新なメカニズムによって大反響を巻き起こしたのである。

だが、パワーフリー号のデビューと時を同じくして道路交通法が改正され、無試験許可制の原動機付き自転車の排気量が、4サイクルは90cc、2サイクルは60ccまで引き上げられることになった。こうした法改正は、36ccのパワーフリー号には当然、不利に働いた。そこで、鈴木式織機では急遽、2サイクルのフルスケール、60ccエンジンの開発に取りかかった。そして、設計と試作を合わせても2か月という短期間で、次期モデルは開発されることになった。このパワーフリー号の発展モデルは、「ダイヤモンド・フリー号」と名付けられて昭和28年3月から発売された。それまで非力といわれた鈴木式織機の補助エンジンだったが、排気量が拡大されて2馬力にパワーアップされたダイヤモンド・フリー号は、最もパワフルな原動機付き自転車となったのである。ダイヤモンド・フリー号は、発売間もない7月には“富士登山レース”にデビューウィンを果たした。またその後、乗鞍岳、富士山といった高山の登頂に成功するなど、派手なデモンストレーションでいちやく注目を集めることになった。こうしたダイヤモンド・フリー号の成功によって、販売網の拡充にも目処がついた鈴木式織機は、オートバイ・メーカーとしての基盤を築いたのである。

■本格的なオートバイの生産

補助エンジンで好調に販売実績を伸ばしていた鈴木式織機だったが、当然、次なる目標は完成車の生産へと移っていった。パワーフリー号での苦い経験をもとに、本格的オートバイのエンジンには、法規上、より排気量が大きく設定できる4サイクルが導入されることになった。こうして、空冷4サイクルOHV型の90ccエンジンをプレス製チャンネルフレームに搭載した初の本格的オートバイが誕生した。「コレダ号CO型」と呼ばれたこの完成車は、国産初のスピードメーターを採用するなど、先進的なオートバイだった。また、4馬力を発生したエンジンには、当時としては珍しい自動進角装置付きフライホイール・マグネトーが装備され、低速域でも充分なフレキシビリティーを発揮していた。このCO型はその後、再び道路交通法が改正されたのにともない誕生した原動機付き第二種に対応して、125ccにボアアップされた「コレダ号COX型」に発展した。

■2サイクルに社運を懸けたスズキ

4サイクルのCO型と並行して、もう一台の原動機付き第二種モデルの開発が急がれていた。鈴木式織機の社内では当時、同一排気量なら、構造がシンプルで取扱いが容易な2サイクルの方が性能的には有利、と考えられていたのである。こうした“一般大衆に広く愛用されるのは2サイクル”という信念に基づいて発表されたのが「コレダ号ST型」だった。ST型の125ccエンジン(5.5馬力)は、従来の2サイクルの弱点だった騒音と、耐久性を配慮して開発されていた。こうした高品質なエンジンが市場に受け入れられて、ST型は発売と同時に、爆発的な人気を博することになったのである。そして、その後6年間、幾度かのマイナーチェンジを経てST−6型にいたるまで、総生産台数およそ10万台というベストセラー・モデルとなったのだった。ダイヤモンド・フリー号、そしてコレダ号ST型と、相次ぐヒットに恵まれた鈴木式織機は、多くの中小メーカーが淘汰される不況下で、順調に売上げを伸ばしていった。 こうしたオートバイ事業の進展にともなって、昭和29年6月1日をもって、鈴木式織機株式会社は“鈴木自動車工業株式会社”に社名を変更、いよいよ宿願の自動車メーカーとしてのスタートを切ることになった。

スズキ初の軽自動車、「スズライト」は当初、採算を無視して生産された、といわれている。こうした冒険は、フリー号シリーズというドル箱モデルが存在して、はじめて可能な先行投資だった。しかし、そのスズキの屋台骨を背負った補助エンジン付き自転車にもやがて、旧態化が目立ちはじめてきた。

そんな折、昭和31年にヨーロッパのバイクモーター業界調査団に同行した鈴木俊三(当時の社長) は、“モペット”の人気を目の当たりにした。そして、帰国後すぐに、開発が開始されたのが、ペダル付きの原付第一種、「スズモペットSM型」だった。スズキはその後、昭和35年にデビューした「セルペットMA型」に端を発するセルペット・シリーズで、我が国のモペット・ブームの一翼を担うことになったのである。