呉茂一:松林のなかの詩人
わたしは横浜市内の病院で生まれたが、育ったのは湘南辻堂である。松林に囲まれた瓦屋根の木造の屋敷は、麻布に住んでいた祖父が、別宅として一九三九年に建てたものであった。東京大空襲で東京の家は焼失し、戦後もそのまま辻堂に暮らすこととなったのだ。藤沢市辻堂三〇六八番地――東海道線の南側、辻堂海岸まで歩いて三〇分ほどの場所に家はあった。平屋だが、部屋数ばかりが多かった。物心つくころの記憶といえば、木魚を叩きながら父が毎朝行う読経の光景である。父は還俗してはいたが、青年時代に僧籍を得ていたのである。父は、朝早く起きて、半眼で読経することを欠かさなかった。
カナブンが飛んできたり、カミキリムシが部屋の中を歩いていたりしたものだ。毎年姿を現す隻眼のガマガエル。泰山木の枝に絡まっているアオダイショウ。地面から顔を出して死んでいる可愛らしいモグラ。夜中に裏の松林で啼くフクロウ。縁側の下に擂鉢状の窪みをつくるアリジゴク。こうした小動物たちが、わたしの最初の友であった。小動物といえば、近所に養鶏場があって、産み立ての卵を買いに行くこともあった。
夏、江の島の花火大会が庭から遠望された。黒い夜空に色とりどりの花火が開き、ややあってどーんという音が聞こえてくる。父母と姉の横に幼いわたしが並んで立ち、遠い花火を眺めている。祖父母はすでに亡くなっていた。そうだ、忘れていた、影絵のようなその画面の中には、一匹の優しい飼い犬もかたわらにいたはずだ。
病弱だったわたしは、母に連れられて定期的に都内の大学病院に通っていた。国鉄辻堂駅まで一二、三分ある道のかたわらには、肥溜のある畑があり、小さな墓所が何カ所かあった(小学館版の児童文学シリーズに収録されていた平井呈一訳の小泉八雲『怪談』のなかに、背中に負ぶった赤子の首が、家に帰るともがれていたという話が挿絵入りで収録されていて、日が落ちると荒涼とした感じになる墓所の前を通るのが怖かったものだ)。
古い木造の駅舎。駅員に切符を切ってもらい、ホームで電車を待つ。体が弱いわたしのために、母は座席に白いカヴァーのかかった一等車に乗った。車内の壁面は木でできており、扇風機が回っていた。灰皿がついていたのは、車内が禁煙ではなかったからだ。藤沢、大船、横浜、川崎、品川、新橋、そして東京。川崎のあたりは工場が多く、橋の下の河はどんよりと澱んでいた。赤い東京タワーが間近に見えると、幼いわたしのこころは明るくなった。病院は嫌いだったが、都電やトロリーバスが広い道路を走るのを眺めるのがわたしは好きだった。もちろん、銀座の天賞堂で鉄道模型を眺めるのも。
幼稚園と小学校は鵠沼の私立学校だった。幼稚園では、昇降口に入ると正面に大きな振子時計があった。小学生になってしばらく経つと、近くの停留所からバスに乗って小田急線本鵠沼駅まで行き、そこから歩いて学校に通った。当時はボンネット型のバスで、運転手のほかに車掌が乗っていた。バスは曲がるときに、ウインカーを左右に飛び出させる。それが面白くて前の方の座席に座った。小田急線は、現在の白色ではなく、オレンジ色と紺色のツートン・カラーであった。昭和四〇年前後の風景である。細い路地は舗装されず、電柱は木で、街路灯は暗く、たまに野良犬が歩いていた。藤沢駅には、アコーディオンを弾く傷痍軍人が路上に腰を下ろしていた。そういえば、外出に着物を着る年輩の婦人もよく見かけたし、祝日には国旗を掲げる家も多かった。
辻堂駅前に小さな古本屋があった。海岸の前に建つ藤沢市立中学校に、制帽を被り学生服を着たわたしは徒歩で通ったが、この店にも毎日通っていた。店の主人は級友の父親であった。母親は、戦争で両親を失った人だといつか耳にした。藤沢から江ノ電に乗って鎌倉の海岸線に建つ県立高等学校に通っていたころ、呉茂一の最後の随想集『アクロポリスの丘の上で ギリシア文学閑話』(新潮社、一九七六年)を求めたのも、ここであったはずだが、著者が同じ町に暮らしていたことをわたしは知らなかった。藤沢市立図書館をよく利用するようになったが、高校卒業の頃に「呉茂一氏寄贈」と朱色のスタンプの押された本を見ることが多くなった。思えば、呉はわたしが高校二年生の時に亡くなったのである。遺族の手により、蔵書の一部が寄贈されたのであろう。現在でも覚えているのは、『ロルカ全集』などの牧神社の本である。呉が辻堂に暮らしていたことを知ったのは、多分このときである。この図書館には「ももんが」も入っていて、たまに読んだ。この雑誌は、藤沢西武百貨店のブックセンターでたまに手にする宇佐見英治らの「同時代」とはまた違った独特の雰囲気があった。
大学に入り、湘南方面に暮らす学友とともに東海道線で帰路につくことが多くなったが、あるとき、どういう会話がきっかけだったのか、現在は高等学校で国漢書道の教師をしている友人が、少年時代に呉家の近所であったことを知った。鷲巣繁男の著書に親しむことを通して、呉茂一の『花冠』や『ギリシャ神話』を読んでいるころだったので、わたしは興を覚え、同君に当時の記憶を訊ねた。幼い時分のことゆえ、定かな記憶はなかったが、千坪はあったという呉家のたたずまいなどは、鮮明な記憶ということであった。とはいえ、彼と交わした会話もすでに三〇年以上昔のできごとである。その頃――一九八〇年頃には、辻堂はサーフィンをする若者で賑わうようになり、海岸近くにはサーフショップや喫茶店が建ち並び、駅周辺の商店街も、代替わりとともに店を閉じるところも現れるなど、町の風景が徐々に変わりつつあった。現在では、呉が暮らしていた頃の面影はすっかり失われている。
田中隆尚の『呉茂一先生』(小沢書店)がわたしにとって特別な理由は、これほど幼い日々の懐かしさを痛切に感じさせる本はほかにないからである(田中は同人誌「ももんが」の創刊者で編集人)。
藤沢市辻堂五九五七番地――呉茂一が暮らしていた家の地番である。呉は太平洋戦争中から亡くなるまでここに居を構えていた。わたしの家は辻堂駅から東の方角に位置するが、呉の邸宅は海側に南下した場所に当たる。しかし、わたしの中学校の同級生がその界隈には住んでいたから、土地の雰囲気を良く知っている。
田中隆尚は、このように記している。
《西町(註・バス停名)からは指定どほりに八百屋と陶器屋のあひだを西にはいると、その小路はもう舗装されてゐない砂の小路になつてゐた。両がはは住宅で、奥にすすむにしたがつて屋敷がおほきくなり、また松の木がおほくなつた。やがて一丁半もきたころ十字路にでて、左むかうの角はのぞみ幼稚園とあつた。十字路のむかうは家がまばらになつて、まだ冬だつたが、のどかな田園風景がかいまみえてゐた。しかし呉先生の家にゆくにはその十字路を右にをれなくてはならぬ。のぞき見したその風景はそののち春がきても秋がきても、とうとう探訪することはなかつたが、しかし右にまがればまがるで、右がは三軒目あたりから家の塀がたえて、松並木になつてゐた。〔……〕その松並木のもとをしばらくゆくと、四つ目垣が右にをれて、右につまさきあがりののぼり路がついてゐた。しかし門はない。そののぼり路には角石のとび石がついてゐて、そこをのぼつてゆくと、右は四つ垣のむかうに種々のうゑこみをした庭がかいまみえ、左がはは松並木のむかうにとなりの塀がせまつてゐた。十数間の坂をのぼりきつた右がはに引戸の玄関があつて、呉茂一といふ表札がかかつてゐた。呼鈴をおすと、すぐ呉先生のすがたがあらはれ、「どうぞ」といつて、左奥の部屋にとほされた。》
これは一九五八年二月に初めて田中が呉宅を訪れたときのことを記した文章である。わたしが生まれる二年前のこと。一つ一つは明確でありながら全体としてわかりにくい印象を与える文章だ。それは迷路めいた湘南地方の道を読者に理解させるために、田中が故意にそう書いているからなのだが、わたしは田中が歩いた路地をありありと思い浮かべることができる。八百屋と陶器屋の間の小路を行くと、一時期「文学界」の表紙を描いておられた田沢茂先生の画塾があって、日曜日になると、わたしは姉と二人で画材道具を携えてそこに通っていたからである。先生の画塾では、鉛筆ではなく、割り箸の先を鋭く削ったものに墨汁をつけて描くのであった。その場に広げた大きな鯉のぼりを描いたり、近くの農家で飼っている乳牛を写生しに行くことなどもあった。
田中の文章には、呉の家の玄関が引戸であったという記述があるが、わたしの家の玄関もそうであった。鷲巣繁男、多田智満子、高橋睦郎の同人誌「饗宴」の呉茂一追悼号には、呉の家の写真が掲載されているが、こうした屋敷は当時辻堂ではよく見かけた造りで、わたしの家もよく似ていた。同誌には中村光夫が「呉さんの家」という追悼文を書いている。中村は一木会のメンバーで、土曜日になるとギリシャ語の勉強に通っていたのである。
《まづ在る場所から云ふと、辻堂の駅から十五分ほど海岸の方へ歩いたところですから、今では通勤にも便利な一等地に違ひないのですが、戦争直後の様子では、何となく荒涼とした砂山のなかといつた感じでした。駅の近くの商店もそのころは殆どなく、湘南地方によく見かける曲がりくねつた細い道が、勝手次第にあちこちに延び、一度や二度では到底おぼへられぬ道順でした。〔原文改行〕当時は路面の舗装もなく、雨がふると一面に大きな水溜りができ、廻り道をしなければならぬところもありました。〔原文改行〕家はちゃうど駅と海岸の中間に建てられ、波の音も、列車のひびきも聞えません。広い敷地は、全部砂地で、屋敷はゆるやかな傾斜の砂丘の上に建てられ、柱だけの表門から爪先あがりに、かなりの距離を玄関まで行くやうになつてゐました。〔原文改行〕家は和風の木造で、古びて大きく、あたりに目立つほどでしたが、面白いのは平屋か二階屋か、一寸わからぬつくりでした。たんに外から見てさうであるばかりでなく、家のなかに這入つても、二階があるのかないのか、僕にはつひにわかりませんでした。》
最後の部分は、電話で友人に尋ねたところ、確かに屋根が高く二階屋のように見える造りではあったが、あれは間違いなく平屋だったということである。
呉夫人は旧姓を依田という。一族が辻堂にいるということで、わたしの中学の同級生で、自転車に乗って一緒に川に化石を採掘しにいった依田君も、もしかすると親族なのかもしれない。また、夫人が入院した酒井医院の長男は幼稚園の幼なじみだし、茂一が入院した長谷川病院は、やはり中学校の同級生だった背の高い色白の美少女の実家である。
『呉茂一先生』を読むと、わたしの通った小学校のそばにある自宅から、田中が本鵠沼駅まで歩き、辻堂駅行のバスに乗って、大平台、浜見山を経由して、西町で下車し、呉宅に通う記述がある。想像を逞しくすると、幼いわたしは、田中と同じバスに乗り合わせたこともあったのかもしれない。
大方の青年子女と同じく、ギリシア語のできないわたしにとって、呉茂一の著訳書は古典ギリシア世界に親しむほとんど唯一といってよい窓であった。それは、豪華で、審美的で、日本語の豊かさに満ちていた。ところが、それと全く違うギリシアが存在することを、わたしは井筒俊彦『神秘哲学』によって知らされた(わたしが読んだのは人文書院の覆刻版である)。そこに描かれた仄暗いギリシアは、これが同じギリシャかと驚くほど呉の世界からは異なっていた。また、その後中井久夫によって現代ギリシャ詩人の世界を知るに及び、呉の世界がきわめて厳しい審美的嗜好によって築かれたものであることを、朧気ながら感じることとなったのである。
その呉が、キリスト教徒として永眠したことを、わたしはぼんやりと知ってはいたのだが、それが身近の者にとっていかに驚くべきことであったかを、田中隆尚の次の文章に見ることができる。
《十二月三十日金曜午前、年末の一部屋の掃除ををへたところに前橋の川原間一より電話がかかつて、呉茂一先生が逝去された、新聞の朝刊に出てゐるといふ。ああ、なくなつたか、とうとうこの一年半おみまひにゆかなかつたと、にはかに良心の呵責にさいなまれて、新聞を読み、河底尚吾君に電話をかけるともうゐない。とるものもとりあへず家をでて、をりよくきた車をひろつて辻堂の呉家にいつた。庭にまはると、木蓮も、ばらも、ぼけも、蘚芳も冬がれして葉がなくなつた、ひろい敷地にひとびとがあつまり、遺体は屋内に安置されてゐて、十二時から葬儀といふ。そこに長谷川秀治氏から電話があつて、わたしがよびだされて、いろいろたづねられる。先生に引導をわたすはずだつた三島の中川宋淵師もすでになく、とりまきのひとびとの意向によるのかカトリックの葬儀がはじまり、嗣子呉忠士、令弟呉章二、中村光夫、湯井壮 四郎、河底尚吾の諸氏、林達夫氏夫人その他大勢のひとびとが座につき、あるいは庭にたつた。献花になり、わたしの番になつて菊の花をささげて、昨年六月二十六日長谷川病院以来の対面をした。そこには頬こけ、血の気がひきながらも、なほほほゑんだ先生の遺顔があつた。》
「とりまきのひとびとの意向によるのかカトリックの葬儀がはじまり」という部分に、田中が感じた意外の念をうかがうことができる。ところが、これは「とりまきのひとびとの意向」ではなかった。呉は受洗していたからである。そのきっかけとなったのが、カトリック修士で画家の津田季穂との出会いであることを、わたしは田中隆尚編『呉茂一先生の手紙 野間祐輔宛書簡集』(小沢書店)を読んで初めて知ったのであった。
ここまで書いたところで、佐々木六戈が編集する「草蔵」六号が送られてきた。早速ひもとくと、佐藤明彦という人が、呉茂一訳詩集『花冠』について書いていて、興味深く読んだ。佐藤は、呉がシモーニデースの挽歌を旋頭歌風に、また、カトウルスの恋の歌を室町歌謡風に訳していることを指摘し、この訳詩集が現代詩に与えた影響について「現代詩史の表面にはその動きを見ることはできない。しかし少なくとも地下水脈となった流れの一つは、高橋睦郎の近業『倣古抄』に確実に到り着いているように思える」と記している。傾聴すべき意見と思う。『花冠』からわたしが受けた第一印象も、外国文学というよりも、むしろ少しずつ親しみ出していた日本古典との親近性であった。だが、『倣古抄』と『花冠』とには、もう少し複雑微妙な距離があるように感じられる。少なくとも、呉と高橋を結ぶ傍らに、鷲巣繁男を置くことを忘れてはならないだろう。高橋は自分を呉の精神的息子、そして鷲巣の精神的甥と見なしていた。
ところで、晩年の呉がキリスト教徒となったきっかけに、カトリックの修士津田季穂(一八九九―一九八一)の存在があったことを記した。呉と津田を結びつけたのは、高橋睦郎であった。高橋は一九七二年、編集者を介して呉の知遇を得てからは、観劇や食事、旅行の伴をするような親しい間柄になっていたのである。呉は、鷲巣繁男に宛てたある手紙のなかで、高橋を息子のように思うと記し、自分のもとからある日突然飛び立って行ってしまうかもしれないが、それはそれでよいとも思うと言い添えている。
一九六〇年、大学卒業を前に肺結核に罹った高橋は、福岡の国立結核療養所に入所し、一年間をここで過ごした。海が近く、療養所は松林に囲まれていた。松林の向こうには、カトリック古賀教会があり、ここから月曜日になると、黒衣で片方が黒い眼鏡を掛け、松葉杖をついた初老の男が療養所にやってきた。これがヨゼフ津田季穂であった。安静度が下がると、高橋は教会に通うようになり、津田から公共要理を教わった。
はじめは反撥した高橋だが、じきに引き込まれるようになり、月曜日になると、松林まで津田を迎えに行くようになった。高橋がキリスト教と出会ったのは、この時のことである。高橋の『友達の作り方』(マガジンハウス)には、津田季穂の章がある。この本の目次には七七人の人物が並んでいる。それらの多くは著名な文学者や芸術家である。男性向けの雑誌「ブルータス」に連載中、加藤郁乎の『後方見聞録』(コーベブックス)とよく似た好エッセーとして、この豪華絢爛な交友録を楽しく読んでいたのだが、津田季穂の章だけは、ほかの回とは違う読書体験を持った。行間から書き手の真摯な思いがひたひたと伝わってきて、心底感動したのである。海岸近くの松林の外れで、二〇歳そこそこの結核の青年が、老修士の訪問を出迎えに行く。この光景は、高橋睦郎という詩人の最も純潔な原像としてわたしの胸に刻み込まれている。
津田は画家でもあった。高橋が編集し、片瀬博子も一文を寄せた『津田季穂画集』(一九六八年)は未見だが、「饗宴」呉茂一追悼号の口絵には、津田が描いた呉の肖像画が掲載されている。見事な作品と思う。
呉は、野間祐輔に宛てた手紙のなかで、津田についてしばしば触れている。
《津田季穂という七十才(七十二才)のカトリクの修道士の方(なかなか高徳で司祭にも当る方で世話になつた人、高名人も多いようです)の画展が三月末か四月にあるので、この方は年輩だけに山本鼎や村山槐多らと同じくらいで、描かれた画も非常に深みのある立派なものです。一般にはまだ左程有名でありませんが、もちろん専門家つまり画家としても修練をつんだ方で、昨年、東京、大阪で日動画廊が展観をし、評判を呼び週刊新潮にも画が出ていました。具象画ですが、深みのある美しい自然の画です。大阪で四月ごろされるようで、それにぜひ拝見にゆきたいと思つていますが、貴君も一つ来られてはどうですか。小さい画が多いのですが、居間や客間にかけるには丁度宜しく、また必ず近い将来に価値の出る(もう高齢?ですから)画ですので、私も二つ三つ、貰つてくるつもり(すでに四、五点家にあります、求めたのは六点あまり)です。》(一九七三年三月一三日)
このほかの書簡でも、呉は津田の画のすばらしさを褒めたり、津田が絵の売り上げを全て公共事業に投じていることをわざわざ記したりしている。
引用した手紙にもある一九七二年の日動画廊での個展で、津田は高橋から呉を紹介されている。絵を仲立ちとして、ふたりの間には「相当の量」の手紙のやりとりがあったという。「呉先生と私との縁」(「饗宴」呉茂一追悼号所収)にはこう書かれている。
《仕事のこと、人生のこと、そして特に人間について興味がおありのようだった。最後になって宗教のことに触れる御手紙が多くなり追々に夫人の御病気が悪くなられ、夫人の受洗について御相談を受けるようになった。その頃たまたま、私達の教区長である田中司教が司教会議に 上京されるときいて、高松に司教さんをお訪ねして呉さんの事情を話し、夫人の洗礼について呉先生に会って、その上、御配慮されるようお願いした。そして間もなく夫人が洗礼を受けられてお亡くなりになったとのお便りがあり、甲斐があったことをうれしく思った。その後、呉先生は御心労が重なったせいか気力が衰え、お体の具合が芳しくないご様子、そして先日の御 永眠の報となったが、亡くなられる前にカトリックの洗礼を受け洗礼名は私と同じヨゼフ。》
呉がギリシア悲劇や叙情詩を訳出する一方で、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を二回訳していることを、わたしは野間祐輔宛書簡を読むまで気が付かなかった。一回目は、岩波文庫の大沢章との共訳である。これは一九六〇年初版。わたしが所持するのは一九七八年の第二〇刷だが、そのあとがきの終わりで、呉は「駒込カトリック教会の水谷九郎師、九大の今道友信氏らの教えを受けたところも多く、〔……〕もし私訳にとるべきものがあれば、それは全くこれらの友人たちの、また遠くはキリストの教えを勧められた故藤浪鑑博士の教戒に基づくところで、ここに深くその恩徳を謝する次第である」と記している。藤浪鑑は、呉の父の親友で、呉は幼いころから「博士のあつい恩顧にあずかった」という。「ひそかに師と呼びたい方々」の筆頭として呉は藤浪の名を記しているのだが、『キリストにならいて』あとがきの文を読むと、彼はキリスト教徒であったようである(「和して同ぜず」『アクロポリスの丘に立って』所収)。なお、共訳者の大沢章は岩下壮一の友人で、九州帝国大学教授。『丘の書』(岩波書店)は「幻の名著」(今道友信)というが、わたしは読んでいない。
二回目は、呉の最晩年、一九七五年に刊行された講談社版『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』である。共訳者は永野藤夫。晩年の呉は、ケンピースの霊的著作を一語一語精読する日々のなかで、カトリックへの傾斜を徐々に深めていったのであろう。岩下壮一は、『カトリックの信仰』(ソフィア書院、復刻版講談社学術文庫)のなかでこの書に触れ、自らの宗教体験にいちいち理屈をつけるプロテスタントの書物と異なり、信仰者の具体的な体験の底に潜む普遍性が読者のこころを深く打つと記している。 野間祐輔宛書簡には、この翻訳に関する記述が少なくない。
《カトリクの友人から「キリストのまねび」の校閲を頼まれたので、自分の仕事は後まわしにしてそれに掛つて消暇いたしてをります。》(一九七四年九月二九日付)
《どうも近頃「キリストのまねび」をやつているもので、浮世ばなれがしていけません。でもアクセクしても仕方がありませんものね。》(一九七五年一月一九日付)
《近頃、トマス・ア・ケンピースの影響か、あまり名誉とか利得とかに拘わりたくない気持で、そのため心を煩わすのは、まことに馬鹿らしいことと考へてをります。〔……〕「キリストに倣って」できましたらお送りします。たぶん七月中には、と思います。》(一九七五年六月一三日付)
呉の受洗については、今道友信が詳しく記している(「生涯の師のやうに」『断章 空気への手紙』TBSブリタニカ所収)。長くなるが、煩を厭わず引用しよう。
《先生が御病気になり、もはや回復は不可能とお考へになつたとき、先生はかねての御希望を御養子の忠士さんに仰言つたので、私はその知らせで、その四日前に伺つた根津の日本医大病院に急行した。私は一応築地教会の水谷神父の許しを得て、先生にカトリックの洗礼をお授けした。霊名はヨゼフであつた。この受洗は、かねて先生が私ども親しくしていただいた人々にはおもらしになつてゐらした御希望であつた。信者としては風上にゐることのできない私の手が、水をひたして先生の額にふれたとき、神はその全能の愛を以て、先生に永遠の生命をあたへたと思ふ。まだ昭和二十年の五月、父の家の焼け落ちる前の最後の客人は呉先生であつた。先生と父とは屡々無言で対坐してゐたが、どちらからともなく、「永遠からみれば小さなことです」と言つて微笑し合つてゐた二つの顔立ちを思ひ出す。〔……〕その頃から先生は永遠を お考へになつてゐた。それは、しかし、なかやさしいものではなく、ギリシアの千古の古典を介して、「デルポイなるアポローン神の祭壇の前に、眩く燦光と漲りわたる異香のあひだに、その黄金の竪琴の絃のおどろの響きを耳にしたかと思ひなす」(神谷註・呉茂一『ぎりしあの 詩人たち』筑摩書房からの引用)ことのできた先生が、それよりも確かな信仰をあこがれる生涯のまことのあらはれであつた。》
洗礼を授けられた日の夜、呉茂一は永眠した。八〇歳だった。葬儀は、年明けに東京カテドラル大聖堂で水谷九郎神父の司式により執り行われた。
先日わたしは思い立ち、辻堂に出かけた。歳末の、北風の強い日であった。駅前からバス通りを歩いていった。商店街もすっかり様変わりしており、古本屋もなくなっていたが、魚屋や茶舗はまだ店を開いていた。熊野ノ森、そして西町。通りを折れて、わたしはすっかり風景が変わってしまっていることに驚いた。このあたりを歩くのは三〇年ぶりのことである。予想はしていたが、これほど変貌しているとは思っていなかった。土地勘はあるはずなのに、あろうことか、わたしは迷った。現在では辻堂四丁目と呼ばれているそのあたりには、びっしりと新しい家々が建ち、幼い日々の記憶の風景が重なる余地はなかった。
路地という路地は舗装されていたが、迷路のような道の続き具合は昔のままのようであった。古いたたずまいの数件の家が、表札に辻堂五九××番と旧番地を併記していて、確かにそのあたりが呉の暮らしていた場所であることを示していた。そうした家の庭には、昔よくみかけた八朔の樹があり、黄色い大振りの実がたわわになっているのが見えた。わたしが驚いたのは、ミニ開発された建売住宅にだけではない。あれほどあちこちにあった松の木がほとんど見られないことであった(後日、詩人でフランス文学者の安藤元雄氏からうかがったところでは、ある年に害虫で多くの松がやられたとのことであった)。茫然としてさまよううちに、三角形の土地に太い松が数本立っている場所に出た。見覚えがあった。だが、周囲の何という変わりようであろう。「駅はどちらですか」。わたしは自転車の婦人に訊ねた。
呉が辻堂に来たのは一九四一年のことである。呉は人力車に乗って駅まで出たという。自邸と松林について、呉はこう記していた。
《何年かの戦さのあいだに南本かの松が枯れ切られた。引きつづく戦後混乱の何年かに、さらに松樹の数は減り、周囲の松林は切り開かれて住宅に代わり、辻堂はれっきとした駅前広場と商店街を持つ住宅都市に変わった。私の家も相も変わらぬ古家ながら多少の手入れをし間取りを変え、やや面目を新たにした。表口もその辺やたらに車を駐められるので、低い仕切を設けたが、それでもまだ石垣などの仰々しさには程が遠く、松の木がまず昔のままに十数本並んでいる。》(「湘南寓居のことば」『アクロポリスの丘に立って』所収)
松林のない辻堂――それは想像外の現実だった。そこかしこに松の木があったのだ。干した洗濯物には松毛虫がつき、わたしが生まれる少し前までは、夜中になれとフクロウが裏の松林で啼いていたというのだから。
だが、わたしは松林の中に佇む詩人の姿をこころに思い浮かべることができる。あの懐かしい風景のなかに、詩人は確乎として存在している。「追想に耽るのは、墓前でなくても、しずかに独居するときにむしろ適当している」(「悼む」『アクロポリスの丘に立って』所収)と詩人も語っている。
*初出:『羚』 6号 2002年12月、『羚』7号 2003年3月