ある受付嬢の日常
かいぶつたちとマホラカルト(現行未通過❌)
彼は不思議な人だ。
そもそも私のような禄に素性も語らない――語るほどのことがないだけだが――表情の乏しい女を、クリニックの受付に据えるのだから、それだけで可笑しな人というには十分だ。
私の職場はある都市にそびえる、いくつものオフィスや商業施設が入った無駄に壮大なビルの一角にあるクリニックだ。
クリニックとはいえ大げさな検査機器があるわけでもない、完全予約制の精神科…平たく言えばカウンセリングルームだった。
艶やかなタイル敷に木目調の落ち着いた自動ドア、潜れば照明はぐっと落ち着いた間接照明へと変わり、足元も毛足の長い絨毯へと変わる。
そこに踏み入れ、黒壇のカウンター奥に座る私に予約の名前を告げれば、彼の待つやけに豪奢でシックな部屋へと案内されるわけだ。
彼から与えられた仕事は予約の受付、整理。
患者の案内。
カルテの整理。
ちょっとしたお使い。
それから、特定の人物を秘密の扉から招き入れること。
ある日は午後に一件の予約があった。
彼は多くとも日に二件しか予約を取らない。
個人のクリニックで、更にこれほどのビルのフロアを貸切り、豪奢な調度品を置いているにしては傲慢な経営だ。
けれど資金面については、雇われているだけの受付が知る術も必要もないこと。
勿論私はひとつも疑問など口にせず、目の前に立ちそわそわと落ち着きなく目線を泳がせる壮年の男性へ恭しく礼をした。
予約の名前をそっと告げ、彼の待つ部屋の扉を開ける。
「やぁ、よく来たね。」そう部屋の奥から洋々とした声が聞こえ、途端に不安そうな顔をしていた男は恋する乙女のようにぱっと顔を上げ、頬を染めて扉の中へと引っ込んでいった。
ほんの2,3日前に凶悪な事件を徹底的に捜査すると、息巻いて記者会見場の中心に座っていた姿からは想像もつかない表情だ。
部下や雑誌記者が見たならぽかんと口を開けている間に、鳥の巣を作られてしまうだろう。
扉が閉まれば一切声は外に漏れ聞こえることはない。
だから想像だが、彼はきっと手ずから香りの良いハーブティーを淹れて(リラックスにはノンカフェインがいいそうだ)男に勧め、ベッドにもなる革張りのソファに腰掛けさせて微笑みでも浮かべながら男の話を聞くのだろう。
時折手を握り、背を撫でてやりながら。
中年の男同士が手を取り合っている光景など一部の需要を除き、ぞっとしない。
私はいつも扉の前に長く留まることはなく、さっさと受付のカウンターに戻っていく。
ふと見ると、カウンター内の細やかなランプが点灯しているのに気づく。
それは通常の患者ではない『特別なお客様』が、正面入口とは違う扉の前に現れた合図だ。
精々スマホサイズのモニターを確認すると、そこに映っているのは青い髪が目を引く少年。
少々心もとないのか、あちらこちらへ視線をやり、ポケットに手を入れたり、出したりと所在なさ気な様子だった。
この少年が訪れるようになったのは3年ほど前からだっただろうか。
初めこそ戸惑いも強く不審げな足取りをしていたものだが、流石に今はそこまでではない。
「お入りください」
通信ボタンを押し声をかけると同時に、自動扉の解錠を操作する。
こちらの扉は観音開きの自動ドアで、作りは一層に重厚。
分厚いマホガニーの扉にアイアンの装飾が張り巡らされたそれは、古城の通用門のようでもある。
ここは普通の客人であれば通ってくるであろう、ビルの正面玄関やホールと別の入口から入らねば到達できない場所であるため、大凡見知らぬ他人がたどり着ける場所ではない。
まず此処に来た時点で特別、更に受付である私が確認し、知らぬ人であれば応答すらしないという寸法だ。
扉が開くと少年はカメラの方を向き、何事か口を開いて中へと入っていく。
残念ながら音声を拾う用途のないカメラなので全く聞こえないのだが、口の形からしていつも同じ、『ありがとう』と言っている、と思う。
私と彼は直接会ったことがほぼないのだが、いつも溌剌として礼儀正しそうなその姿に密かに癒やしを感じていたりもした。
席についてしばし、またランプが一つ点灯しているのに気づく。
青髪の少年の時と同じくモニターを見れば、今度は三人の人影がある。
一人は見目麗しい若い男性だ。
カメラ越しであるにも関わらず髪は艷やかで線が細い印象が分かる。
両脇に…モニター越しだからわからないということにしたいが、中性的な――この場では少女とするが――少女が二人。
男性は慣れた様子でカメラの方へと軽く手を振って見せ、少女たちは不安そうに扉を見つめている。
どのような関係性かは聞いたことがないのでわからないものの、先程の少年と同じくここに新たな客人がある時はこの美しい男性とともに来るのが恒例なので、少女たちもそうしてそのまま定着しているのだろう。
「お入りください」
変わらぬ口調で入室を促し、解錠ボタンを押す。
モニターの中で扉がゆっくりと開き、先をゆく男性に置いていかれないようにパタパタと少女たちは足早にカメラの外へとフェードアウトしていった。
片方の少女は十代だろうか、それとも幼く見える二十代か。
もう片割れはもっと幼い様子、本当に一体どんな関係…そもそもここを訪ねてくる時点で己の雇い主の関係者でもあるはずなのだ、謎が深まった。
それに男性に負けず劣らず目はぱっちりとして頬は丸く、まさに美少女といった容貌には羨ましさを通り越してため息が出る。
考えてみればここを通るのは美しい人ばかりだ、これが雇い主の彼の趣味であったらどうしたものか。
かといって詮索する趣味はない。
私は自由が効き給金もいいこの職場を、実は気に入っているのだから。
自分の仕事をうまく回せればよいという、日本らしくない企業ポリシーのお陰で私は毎日ひる休憩の他に、適宜ちょっとした休憩時間が取れる。
今もおやつの時間と言わんばかりに悠々と紅茶を…これも彼が福利厚生だと買ってくれたイギリス産のファーストフラッシュだ…を淹れ、ロイヤルコペンハーゲンの小皿に戴き物のクッキーを三枚乗せた。
これは誰に貰ったのだったか。
先週カウンセリングに訪れていた若い女性患者からだったかもしれない。
あの人は印象こそきつい美人で、水商売の方面では知る人ぞ知る有名人であったらしいが、ここに来るということはそういうことだ。
彼女もまた彼の穏やかな微笑みの前に破顔し、父親に縋る幼子じみた泣きべその顔をしていた姿を記憶している。
センス良い彼女の、十中八九彼へのプレゼントであったであろうピエールマルコリーニのクッキーはさくさくで美味しく、更に見た目も可愛いかった。
でも私はなんだかんだ、ただのミーハーのようだがゴディバのチョコレートクッキーが一番美味しいと思う。
いずれにしても彼はこのクッキーを食べずに私に渡してしまったし、ゴディバだって差し入れしたら食べるだろうかと考えると否で、要するにこの思考は唯一人で浮かべては消える程度のものだった。
三枚目のクッキーを食べ終え紅茶を一口飲む。すると背後でカチャリと扉の開く音。
雇い主である彼のカウンセリングが済んだのだろう。
振り返れば想像通り、どこか柔らかくすっきりと…いや、うっとりとした様子の患者を前にして彼が現れた。
「また、先生…」
「ええ、疲れた時にはいつでもおいで。僕はいつも君を慮っているよ。」
「ああ…!ありがとうございます…ありがとうございます…」
感極まった様子の患者が彼の手を取る。
強面をくしゃくしゃに崩し、母親に思慕する子供のような、初めての恋に溺れる女学生のような顔をして。
正直この様相で手を取られたら、私であれば悲鳴を上げて逃げる自信がある。
人によっては、特にこの患者の部下たちであれば逆に腰を抜かしてその場から動けなくなるかもしれない。
しかし彼はそんな様子を見せることもなく、もとより細い目をにっこりと細めて手を握り返すのだ。
秘密の話でもないくせに声のトーンを落とし、囁くように。
あたかも『君のことを理解っているのは僕だけだよ』というふうに。
「お見送りを頼むよ」
彼に促されて同意を持って頷く。
患者は彼が『チャオ』と微笑んで扉を閉めるまで、その姿をじっと見つめていた。
自分であれば絶望しそうなほどの高額な会計を「いつも通りに」の一言だけで終え、患者は一度、二度、扉の方を振り返りながら帰っていく。
あからさまに後ろ髪引かれるという言葉を体現しているが、実は決まったカウンセリングの時間を越えて彼が患者を構ったことはない、この患者もそろそろ気づくべきだ。
恭しく礼をしてそんな後ろ姿を見送ると、再びランプの点灯。
モニターの中に映るのは長身の女性…のように見えるが、実際顔がよく見えないので確信はない。
煌めくロングドレスに大きなつばの帽子、フワリとたなびくロングヘア。
ドレスの裾の翻りから背の高いヒールを履いていることも何となく見て取れる。
だがそれにしてもやはり、背が高い。
モニター向こうで一人で立っていると分かりにくいが、きっと最初の青髪の少年と比べれば頭が二つ分くらい上にありそうだ。
それに肩幅も少し広いような…いや、どちらにしても確信はない。
先に来ていた少年や、少女連れの男性とは違いカメラの方を一瞥することもなく己の手元を見ているらしい佇まい。
そこまで細部はわからないが、まるで「ああネイルの飾りが取れそうだ」なんて思っていそうではある。
「お入りください」
そうして再び声を掛け、解錠ボタンを押す。
彼女はやはり最後までカメラを意識することなく、颯爽と画面外へと消えていった。
合わせて5人、この場所とは違う何処かへ案内を終えふと時計を見る。
契約によればそろそろ退勤時刻というところだった。
今日は現れなかったが、見るからに強面の、浅黒い肌に無精ひげの男を通すこともある。
この男が来る時間はまちまちであるし、時々道端に捨てられたボロ雑巾のように焦燥した様子で現れることもある。
しばらく見かけておらず、その草臥れた…いやアウトローな風貌から何処かで野垂れ死んでいるのではとも考えたが、最近また訪れるようになったので杞憂だったらしい。
今日は姿を見ていないが、この男は訪れたまま”帰らない”時が多々ある。
もしかしたら彼の部屋に今日も居着いているのかもしれない。
「お疲れ様。今日の仕事は以上だ、少し早いが上がるといい」
「はい、お疲れ様でした」
背後の扉が開き、彼が顔を出す。
先程の患者を見送った時には被っていなかった帽子と、手袋、そしてコートを身に着けて。
ごく偶にカウンセリングが長引いたり、何らかのトラブルなのか「ちょっと待っていてくれ」と待機させられることもあるが、大体定刻前に終わらせてくれるこの職場は、やはり働きやすい。
壮年と言って憚らない年齢の彼がウインクなどしてくるのは年甲斐がなくてどうかと思うが、彼は私の雇い主で上司だ。文句を言うでもない。
人の心を専門にした彼にとっては、顔に出ているも同然かもしれないが。
ただ彼も私にそれを深く咎めたりしないし、私も彼の行いに口出しなんてしない。
丁度良いのだ、つまりこの職場は。
身支度を整えて、一般客と同じく表の扉から出る。
広いエレベーターに乗り込み、美しく夕日の差し込む正面ホールを抜け。
ふと仰ぎ見た大理石とガラスで象られたインフォメーションを見やれば、私の職場の名前もしかとそこに載っている。
でも私は知っている。
彼がここのクリニックの代表として名乗っているのとは別の名前で、無精髭の男は彼を呼ぶことを。
彼が時折物凄く冷たい目で人々を見下ろしていることを。
彼と、招かれた客人が連れ立ってしばらく帰ってこないことを。
空が曇天に、地面が汚泥に塗れたあの日から、彼が一層に複雑な表情を浮かべるようになったことを。
それでも私は何も追求しない、心地よい居場所を守るため。
そしてほんの少し、そんな謎多き不思議な人に、信頼されることが誇らしいからだ。
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かいぶつたちとマホラカルト