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一瞬が永遠になる…。Mindfulness

2023.02.28 12:59

http://yogatherapy-chandra.jp/column/8017.html 【一瞬が永遠になる…Mindfulness】より

先日、相模女子大学の統合心理学の授業を聴講させていただいてきました。

サイコシンセシスについて書かれた1冊の本を、学生さんがまとめて発表、それについて解説やディスカッションをするという講座でした。

そこで紹介されていたのが、「トランスパーソナルな気づきを促進するための5つの一般原則」。

1.美的感覚を育むこと。主に、自然環境のさまざまに違った形態をよく観察し、それに親しむこと。

2.全ての生命と生命の形態に対する驚きや、感嘆や、畏敬の念を育むこと。

3.さまざまな点で、スピリチュアルな生き方の役割モデルとなるような、人間の実例を示すこと。偉大な宗教的人間。非常に高い人間性に達した優れた人たち。人道主義者、芸術家、科学者。偉大な人々の自伝や伝記を読んで話し合うことも良い。

4.内的、精神的霊的な(スピリチュアルな)人生の側面に、正しい関心と重要性をおくこと。

5.精神的な目覚めと理解を促進するような他の方法、瞑想などを賢明に取り入れること。

講師の尾崎真奈美先生がされた解説の中に、印象的な言葉がいくつかありました。

「自然の中に本質が見える。あるべき姿が見える。」

「美的感覚を育むこと」と、「全ての生命と生命の形態に対する驚きや、感嘆や、畏敬の念を育むこと」に関して、最近、感じていたことと繋がった瞬間でした。

美的感覚は、なにも 特別美しいものを見たり、感じたりすることで養われるのではない・・・ということ、

「今」という一瞬を本当の意味で感じられた瞬間に、

全てのものは美しく、かけがえのないものだと気づくのだということを、一番身近な人から学びました。

朝、普通に目が覚めること。

今、息をしていること。

それらは、本当は奇跡のようなもの。

明日がやってくるかどうかは、本当は誰にも分からない・・・という事実。

常に、「今」しかないという事実と、その瞬間に自分の全てを繋ぎ、浸した時、

一瞬は永遠になり、全ての景色、物事、感覚、経験が素晴らしく、美しく、かけがえのないものになる・・・。

目に入る景色。いつもと変わらず、目の前に広がる山や、稲刈りの終わった田んぼに茂る雑草の緑、控えめに咲く道端の花を見て、「綺麗だ。綺麗だ・・・。」と何度も言葉にして・・・。いつもと同じ、普通の家庭料理を少しずつゆっくりと口に運び、噛みしめながら

「美味しい。美味しい・・・。」

と目を閉じながら味わっている姿を見た時、その人は、その瞬間に永遠を生きている・・・と感じました。そして、肉体が自分なのではなく、その瞬間に五感を通して、喜びを感じている深い部分が自分の本質なのだと理解している、その人の姿から、私もそれを実感しました。

大切なこと、本質的なことは、とてもシンプルで、身近なものだと感じます。

それに気づかせてもらえたこと。

物事の本質を見る感覚を開くことは、自分の手の中にあると感じます。

来年1月のインド・・・。

今までとは違う感覚で「いのち」を感じられるようになった今、師の元で学べることに感謝します。

FacebookOSHO Japanese投稿記事 ·

これまでに樹に挨拶をしたことがあるかね? やってみなさい。

するといつかその樹の方からも、彼女の口からも、独自のことばで 挨拶が返って来るのに驚くことだろう。

樹を抱きしめてやるのだ。するとまもなく、抱きしめているのは自分だけではないーー

樹もそれに応えているのだ、樹に手はないが、自分もまたその樹に抱きしめられているのだ

ということを感じるときが来る。

樹木には樹木なりの、喜び、悲しみ、怒り、恐れの表わし方があるのだ。

全存在が感受性をもっているのだ。それが私が、存在は神だと言うときに意味していることだ。  Osho

一指李承憲@ILCHIjp

人間を含めたすべての生命現象は自分の努力とは関係なくそのままですでに特別な存在です。咲く花はどれも美しいのです。自分自身を最も早く不幸のどん底に落とす方法は「人と比較する」ことです。ありのままの自分を認めて愛することから本当に自分の人生の主になる道が始まります。

https://toyokeizai.net/articles/-/233870 【一流の科学者が「神の存在」を信じるワケ】より

最先端を突き詰めた先に見たものとは? 仲野 徹 : 大阪大学大学院・生命機能研究科教授

キリスト教の教えを大きく揺さぶってきた科学。最先端を突き詰めた先に科学者たちが見たものとは?(写真:CreativaImages/iStock)

あなたは神を信じますか? こう訊ねられたらどう答えるだろう。日本だと、神様は存在しないと思うけど神頼みはする、というのが多数派だろうか。この本『科学者はなぜ神を信じるのか』で問われるのは、我々が普段思い浮かべるようないたるところにいる神様ではない。キリスト教の神、創造主としての神である。

科学者たちは神とどのように折り合いをつけてきたのか

科学者のスタンスはどうだろう。『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスは『神は妄想である』という著書で、科学的合理性こそが重要で、宗教はそれに反するものであると痛烈に批判した。この本、宗教的背景からか日本ではあまり話題にならなかったが、世界中で100万部を越すベストセラーになった。もちろん賛否激論である。

一方、ヒトゲノム計画を率いた一流の生命科学者、米国・国立衛生研究所(NIH)所長のフランシス・コリンズは、無神論者の家庭に育ったが、後に敬虔なクリスチャンとなった。そして、科学的真理と信仰的真理は矛盾しないと確信し、『ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える』という本まで上梓している。

ドーキンスとコリンズは、10年ほど前に『タイム』誌で対談している。その際、ドーキンスは、宇宙創造の背後に神のようなものが存在することまでは否定していなかった。宗教上の教義による思考停止が科学に反する、というのが、神は妄想であると敵視する根本的な姿勢なのだ。

この2人は生命系の科学者である。それに対して『科学者はなぜ神を信じるのか』は、素粒子論を専門とする一流の理論物理学者にしてカトリック教会の助祭でもある三田一郎先生による、物理学の歴史という視点からの神についての考察だ。

うわ、難しそう、と、ひるまれるかもしれない。じつは、わたしもそう思っていて、買い置いたあと、しばらく積ん読状態になっていた。しかし、読み始めるや、あまりに面白くて一気に読んでしまった。

地動説のコペルニクスに始まり、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、量子力学のヴェルナー・ハイゼンベルクとポール・ディラック、先頃亡くなったスティーヴン・ホーキング。1章ずつに、それぞれの理論とその周辺が説明される。そして、多くの物理学者たちが神とどのように折り合いをつけてきたのかが解説されていく。とてもわかりやすく説明されているし、どのエピソードもバツグンに面白い。

たとえばニコラウス・コペルニクス(1473~1543年)のお話。まったく知らなかったのだが、コペルニクスはキリスト教の司祭でもあった。しかし、地動説に気づいてしまう。その考えは口コミで広まり、教皇の耳にまで届くが、当時の説の精度の低さからか、さして咎められはしなかった。

意外なことに、聖書の教えに背く者として徹底的に糾弾したのは、カトリックではなく、宗教改革の火の手をあげたマルチン・ルターであった。おもしろいのは、ルターから徹底的な攻撃をうけたコペルニクスだったが、宗教戦争の時代にルター派の若者をかくまったということだ。コペルニクスが心優しき聖職者でもあったことがよくわかる。

「宇宙はもっと美しいものであるはずだ」

コペルニクスは心から神を敬い、神がどのような宇宙を作ったかを知りたかった。そして、「宇宙はもっと美しいものであるはずだ」という考えから、宇宙に複雑な仮定が入り込むことを許せなかったのだ。その考えが、観測が進むにつれて矛盾が噴出していた天動説を否定することにつながり、地動説という新しい時代の宇宙論の嚆矢となった。

コペルニクスの考えが正しいことを明確に証明したガリレオ・ガリレイ(1564~1642年)は、ご存じのとおり宗教裁判にかけられた。コペルニクスと同じく、キリスト教の教えをおおきく揺さぶったガリレオだったが、自身は神の存在を疑うことなどまったくなかった。

ガリレオと入れ替わるかのように生まれたのがアイザック・ニュートン(1642~1727年)である。ニュートンは、運動方程式の確立、万有引力の発見、微分積分法の開発などを、わずか1年半の間、それも25歳になるまでに成し遂げたという真の天才だ。ちなみに、そのニュートン、人間のことは信じられなかったが、無神論者を説得するほどに、創造主としての神のことは信じていた。

ニュートンの業績により、初期値さえわかれば、全知全能の神でなくとも方程式を使って未来を予測できる、ということになってしまった。言い換えると、神の領域が科学の領域へと引きずり下ろされたのである。聖職者にとっても科学者にとっても、どれだけ大きな衝撃であったろう。この時代から、議論は、神そのものの存在ではなく、「宇宙に創造主は存在するか否か」へと収斂していくことになる。

本の後半、は読んでのお楽しみだが、もうひとり、三田先生と同じく、聖職者であると同時に物理学者であったジョルジュ・ルメートル(1894~1966年)だけは紹介しておきたい。宇宙膨張論はエドウィン・ハッブル、ビッグバン理論はジョージ・ガモフによると世に知られているが、じつは、いずれもルメートルが先んじていたというから驚きだ。

どうしてルメートルにクレジットがいかなかったかというと、ルメートルの謙虚な人柄と、科学と宗教という「不毛な議論」をさけようとした姿勢のためだとされている。しかし、これも意外なことに、非常に早い段階で、教皇により「ルメートルらの発見は神の創造を科学的に証明したもの」で「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」と認められている。

「神の存在を信じる」ようになった理由

『最後に言っておきたいこと 私にとっての神』と題された短い最終章を読めば、三田先生がこの本を著された理由がわかる。子どものころに洗礼をうけたが、宗教にはさして興味なくすごしておられた。しかし、50代になって、物質と反物質の研究から宇宙のはじまりを見つめ、「神の意志を感じ」、「神の存在を信じる」ようになられたのだ。

"「ついに人間が宇宙のはじまりを、神を持ち出さずにすべて理解した。もはや神は必要ない」と考えることは、それこそ思考停止なのではないでしょうか。どこまでいっても、宇宙をすべて理解した、と言いきることは決してできないはずだからです。"

創造主としての神を信ずる姿勢は、「自然に対して最も謙虚であるべき科学者」と全く矛盾しない。ドーキンスが拒絶する思考停止とは真逆で、科学と神について考え続けることこそが正しいく科学的な姿勢である、というのが三田先生のお考えだ。

"初めに神は物理法則を創られた。そしてエネルギーの塊から物質と反物質を創られた。物質の方がほんの少し多かった。同量の物質と反物質は消滅しあい、エネルギーに戻った。ほんの少し多かった物質が残った。"

そして神は天地を創られた。

もし『三田一郎版聖書』があれば、こういう書き出しになるらしい。なるほど、こんな神なら存在しうるのかもしれない。

これほど素晴らしい知的刺激にあふれた本、それも、日本人によって書かれた本はめったにない。科学に興味のある人にも、宗教に興味がある人にも、いや、どちらにも興味のない人にこそ読んでほしい1冊である。