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SUZUKI HISTORY その2. T20 1965/T21 1966

2018.05.12 09:38

■高性能ロードスポーツ時代の到来

ホンダに遅れること1年、昭和35年にスズキはGPレースに参戦を開始して、主に小排気量クラスで輝かしい戦績を残した。そして、こうしたレース活動を通して、スズキは世界的に認知されるオートバイ・メーカーとなったのである。また、GPレーサーの開発によって得られた貴重なノウハウは、次々と市販車にフィードバックされていった。

昭和40年10月、CCI分離給油潤滑システムをはじめとしたGPレーサーの最新技術を満載して、初の本格的ロードスポーツとしてデビューしたのが、「スズキ250T20」であった。クラス最速モデルとして誕生したT20は、アメリカをはじめ、世界的に高い評価を得ることになり、スズキのイメージは一新することになった。さらに昭和42年には、前代未聞の500ccの2サイクル・ツインを搭載した「スズキT500」が発表され、スズキは一躍、2サイクルのトップ・メーカーへと躍り出たのである。こうした2サイクルのスズキ、といったイメージを決定づけたのが、昭和45年に登場した「スズキGT750 」だった。水冷2サイクル3気筒エンジンを搭載したGT750は、4サイクル全盛のナナハン市場に強烈なインパクトをあたえることになったのである。

その後も、ロータリー・エンジン!の「スズキRE5」を発表するなど、スズキは、あくまでも4サイクルに背を向け続けた。しかし、1970年代になって表面化した、排気ガス、騒音といった諸問題は、2サイクルの先行きに深刻な影を投げかけることになった。また、アメリカ市場での4サイクル人気も、スズキに苦戦を強いることになった。こうした状況を打開するため、昭和49年3月、ついにスズキは従来の方針を変更して、4サイクル・エンジンの開発が決断されたのである。そして、スズキ初の4サイクル・ロードスポーツとして、「スズキGS750」と「スズキGS400」が、昭和51年暮れに相次いでデビューを飾ることになった。このGSシリーズの開発によって、2サイクル・メーカーの看板を自ら返上したスズキは、今日の隆盛に向けて新たなる第一歩を踏み出すことになったのである。


SUZUKI T20 

(リード)

1965年5月、アメリカ市場を衝撃的なニュースが駆け抜けた。その発端となったのは、有力専門誌“サイクル・ワールド”に掲載された、1の日本製モーターサイクルの試乗記事だった。誌上を飾ったモーターサイクルの名は、X6ハスラー。日本名を『T20』という250㏄クラスのロードスポーツだった。CW誌はこのニューカマーを“500㏄クラスに劣らない高性能車が登場した”と、手放しで絶賛したのである。

(本文)

 1960年代当初にはじまった250㏄クラスのロードスポーツ・ブームに、スズキはただ一社、乗り遅れていた。実用車しか持たないスズキは、好調に販売実績を伸ばすホンダやヤマハに対向できる、本格的なロードスポーツの開発が急務となっていた。また、後発のカワサキの動向も、スズキの危機感をいっそう煽ることになった。

 T20の開発計画は、1963年にはスタートしていた。スズキでは、“世界最高水準の250㏄クラス”の開発が至上命令とされていた。つまり、CB72、YDS1といった国内のライバル・メーカーの製品をターゲットに、これらを凌駕するロードスポーツの開発をめざしていたわけである。

 開発コードX6と呼ばれたこの計画はまた、アメリカという巨大マーケットで競争力を発揮できるモーターサイクルの開発でもあった。X6計画で設定された目標馬力は、リッター当たり100馬力、つまり250㏄で25馬力以上というものだった。この数値は、ライバル車を凌ぐ、当時の量産車としては途方もないものだった。こうした目標は、GPレースで培った様々なノウハウなしには、クリアできなかった。スリーブ入りアルミシリンダーやクランクシャフトへの分離給油潤滑(後のCCI)システムなど、最新のレーサー技術がおしげもなくフィードバックされて、X6のエンジンは、徐々に完成に近づいていったのてある。

 当初はまだ、セルミックスと呼ばれたCCIは、他社の分離給油方式がインレットに強制給油するのに対して、コンロッドのビッグエンドに強制給油するシステムで、クランクケース内で飛散したオイルがピストンとシリンダーウォールまわりを潤滑するという一歩進んだメカニズムだった。このCCIによって、スズキの2サイクル・エンジンは、宿命だった焼付きから完全に解放され、優れた耐久性を発揮することになったのである。X6は、完成間もない竜洋のテストコースで熟成された後、広大なアメリカ大陸でも入念な走行テストが行われた。慎重に、そして技術的には大胆に、X6は開発されていったのだ。そして、その成果が、冒頭のCW誌の試乗記事であった。対米輸出に遅れること2か月、7月に発売が開始されたT20は、みるからに個性的なロードスポーツだった。

 フレームには、スズキの量産モデルとしては初のパイプ製ダブルクレードル・タイプが採用されていた。また、2サイクル空冷2気筒エンジンは、ピストン・バルブ方式で25ps/8000rpmを絞り出し、市販車初の6段ミッションを介して、最高速度は160㎞/hにまで達した。T20は、出力、最高速ともに、トップクラスの実力を有していた。CB 72もYDSも、T20の前では顔色をなくすことになった。

 スズキが自信を持って投入したT20は、掛け値なしで世界一速い250㏄ロードスポーツとして、デビューを飾ったのである。しかし、T20には、さらに驚くべきポテンシャルが秘められていた。デビューの翌1966年に登場したT21では、2サイクル・ツインの出力は30.5馬力にまで引き上げられていたのだ。これは、アメリカ仕様ともいえたX6ハスラーの29馬力仕様を元にチューニングされたものだった。

 T20が黒とクロームメッキを基調とするオーソドックスな塗装だったのに対して、T21はキャンディレッドとキャンディブルーという派手なカラーリングが施され、イメージは一新していた。そのスペックから連想されるとおり、T20/21は、過激なロードスポーツだった。エンジンは4000rpm以下ではまったく使いものにならず、最大トルクを発生する7000rpm付近をキープすれば、3速でもフロントを容易に持ち上げた。高回転域でのレスポンスのよさは素晴らしく、このピーキーな出力特性がT20/21の大きな魅力となっていた。また、T20/21は、当時としてはバンク角も充分にとられていて、コーナーリング性能にも配慮の後がみられた。しかし、T20/21は、高速コーナーでは独特な挙動を示し、馴れないライダーを恐怖に陥れることもあった。これは、今日の基準でいえば、明らかにフレーム剛性が不足していたためだった。換言すれば、スズキ初のロードスポーツは、完全にエンジンが車体に勝っていたといえそうだ。ともあれ、T20/21は、パワフルな2サイクル・ツインを軽量コンパクトな車体につんだ、高性能ロードスポーツだった。0 ~400mを14秒台前半で駆け抜ける実力は、当時の街角では群を抜く存在だった。