遠藤周作とアフリカ(1)「アフリカの體臭」
遠藤が生産した多種多様なテクストを詳細に検討すると、そこには非西洋世界、すなわち、アフリカ、中東、アジアの諸国や人々が、さまざまに描き込まれていることがわかる。そこに注目して遠藤文学を解明しようとする試みは、これまで本格的にはなされておらず、研究上のいわば盲点となっている。それは緒論で述べたように、キリスト教を中心とするヨーロッパと日本という比較文化論的コンテクストの中で研究されてきたからにほかならない。
本章では、遠藤文学に描かれた黒人表象について考察する。はじめに、二〇一四年に遠藤の作品と認定された短篇「アフリカの體臭」(伊達龍一郎名義、一九五四年)を、遠藤の大学卒業論文「ランボオの沈黙について」及び、従来小説第一作と考えられてきた「アデンまで」(一九五四年)と併せて論じることで、初期遠藤周作にとってアフリカがどのような役割を果たしたのかを明らかにする。次にポーランという黒人を登場させた短篇群を「ポーラン・シリーズ」と名付けてその黒人像の変容を確認する。最後に黒人を主人公にした唯一の長編小節『黒ん坊』(一九七一年)を取り上げて考察する。
遠藤周作の卒業論文は「ネオ・トミズムの詩論」である。この論文の一部は、大学を卒業した一九四九年の一二月に「ランボオの沈黙をめぐって――ネオ・トミスムの詩論」と題して『三田文學』に発表され、フランス留学後の一九五四年、評論集『カトリック作家の問題』に収録された。四百字詰原稿用紙に換算して約二七枚の小論考である。なぜ卒業論文の一部だと解るのかといえば、『三田文學』掲載本文中の註に、別稿として「ネオ・トミズムの詩論Ⅲ、ポエジイとミスティク」の存在が示されているためである。慶應義塾大学予科時代はドイツ語専修だった遠藤が本科でフランス文学に進んだのは、佐藤朔『フランス文学素描』(一九四〇年)で紹介されていたフランスカトリック文学に関心を抱いたからであった。慶應義塾大学入学以前に遠藤は上智大学予科で短い学生生活を送っているが、太平洋戦争下にあって、文学とキリスト教は彼の胸中を占める中心主題であった。なかでも新トマス主義に彼が深く親しんだのは、岩下壮一神父が創設したカトリック寮で哲学者吉満義彦から薫香を受けたことの影響が大きかったものと思われる。
この論考は、哲学者ジャック・マリタンとその妻ライサ・マリタンを中心とする新トマス主義者たちの詩論を整理し、アルチュール・ランボーの『沈黙』の理由について、理論的な解明を試みようとしたものである。ランボーの沈黙を自分なりに納得することは、これから文学の世界に生きていこうとしていた若き遠藤にとって、避けて通れない問題であったと考えられる。
それでは、以下に、遠藤論文の概略を示すこととしよう。
新トマス主義の詩論において、詩人の認識は聖者の認識と類似したものとして捉えられる。けれどもそこには相違がある。前者は必ず作品という表現に向かうのに対して、後者は深い満足を覚えて沈黙のなかに安らうからである。詩人はその誠実の証として作品の絶対的完成を目指すが、それは人間の分際を超えて天使になろうとする傲慢に陥る。かといって、人間的条件の下で作品を創作することは、不完全で制約に満ちた現象世界にとどまることとなる。ここに詩人のジレンマが存在する。ランボーが直面した問題もこれである。詩の純粋性を目指したランボーは、表現への着地を超越した詩的認識とでもいうべきものへと突き進んだ。その結果、「彼は詩の根本本質である「創る」事adextraを喪い詩作の放棄と異国への逃亡と言う余りに悲劇的な結末をたどらねばならなかった」と遠藤は結論する。
この論考を、遠藤文学の研究者たちはこれまで重視してこなかった。その理由の一つは、小説家となった遠藤が、ランボーについてその後まったく語らなかったからであろう。しかし、この論文は少なくとも二つの点で重要である。一つは、新トマス主義を通じて、遠藤が、トマス=カトリック的世界観を学んだことだ。とりわけ、全能の神、理性を持ち肉体を持たない天使、理性と肉体を持つ人間、そして理性なく肉体だけを持つ動物、という階層構造を理解したことは看過しえない。遠藤はフランス留学でこのような人間理解に強い違和感を抱くようになるとともに、天使でも動物でもない「人間」の中にも細かな序列があることに気がつくからである(1)。もう一つは、ランボー研究を通して、フランスの植民地でもあったアフリカ世界に対する関心を深めたことである。フランスは、英国に次ぐ第二の植民地帝国であり、本国のほかに広大な海外領土を有していた。アフリカもアジアも、その一部はフランスだったのである。
フランスに留学するために遠藤が横浜港を出帆したのは一九五〇年六月四日のことである。マルセイユまで、フランス郵船の旅客船マルセイエーズ号の四等船客として三五日間の旅である。香港、シンガポール、マニラ、サイゴン、コロンボ、ジブチなどを経由していく。第一次インドシナ戦争中のヴェトナムや、反日感情の激しいマニラなど、東南アジア諸地域の現況を目と耳で知ったことは、前後して航空機でパリに行った加藤周一や、同じ旅客船でも二等船客であった多くのフランス政府給費留学生たちと違って、作家遠藤周作を形成する上で重要な体験であった(2)。
旅日記を読むと、アフリカと初めて出会うことになったジブチの土地が、彼に強い印象を与えていることがわかる。六月二八日の日記を抄録してみよう。
《朝、ジプチ近くなる。/窓から初めてアフリカをみる。一草一樹だにない黄褐色の絶壁が百米前につづく。それから砂漠。感無量である。空がすばらしく青い。/七時、ジプチ着。太陽が白く、その周りを赤黒いうん気が漂っている。重苦しい暑さだ。原住民の漕ぐはしけに乗って上陸。〔……〕誰もいない道、馬小屋のような家、光も建物の色も、海も、すべて強烈だ。まひるのさがり、死の街のようだ。》
このようにジブチの印象を印した遠藤の脳裏に、突如ランボーが出現する。
《ランボオを近くよもう。/コロンボの自動車の中で、ぼくは汎神の世界がこの腐土からどうして生まれるのかを考えた。しかし、どうもハッキリしなかった。だが、ジプチの中には 虚無の色彩、光が逆にねばりついているのだ。絶望の絵画の色彩。ランボオはそこに相応しかったのであろう。彼がここに来ねばなからなかった気持、又、ここに来た時の気持を、僕は感じることが出来る。》
ランボーの『沈黙』について、卒業論文において理論的に考察した遠藤は、ここで感覚的にそれを理解している。少なくとも、そのように考えている。ジブチの印象はよほど強かったものと見えて、すでにリヨンで学生生活を送っていた一九五一年一月九日の日記にも、次のような記述が見られる。
《お前はアフリカに行く事は出来ないのであるか。アフリカに住みたいという願望、初めてアフリカを見た日の朝のむき出した山、木一つなく、白陽がギラギラと光っていた。街は死んだようであった。その時の身の疼き……。/巴里に住む事、次にアフリカに渡る事。》
明らかに遠藤はアフリカに魅せられている。そしてアフリカは、まずランボーの幻影と結びついていたのである。
アルチュール・ランボーその人は、一〇代の頃にはパリやロンドン、ブリュッセルなど、ヨーロッパの都市を遍歴していたが、二〇歳くらいで詩を書かなくなり、やがてアフリカに赴く。アデン(英国領)、ハラル(エチオピア)、タジュラー(ジブチ)、カイロ……。彼はヨーロッパから行った他の商人たちと違って、しばしばフランスに帰るということがなかった。ようやく帰ったのは、死ぬ年のことである。ランボーにとって、詩は、ヨーロッパの「(キリスト教)文明」とともに捨て去られるべきものであったように見える。彼はアフリカの「野蛮」に向かったのだ。死の床で彼は司祭による告解を受け入れたが、ムスリムの死の祈りも唱えたといわれている。
ランボーのアフリカ時代については、近年、「アフリカ書簡」の解読が進み、彼の行動の詳細の解明や、詩と書簡を「書かれたもの」として連続的に捉える研究も日本語で行われている(3)。遠藤がランボーに親しんだ時期には、アフリカ書簡は知られてはいたものの、テクストとして読める分量は限られていたし、詩を棄てて砂漠に赴いた早熟な天才詩人というロマン派的イメージが強かったことには注意を払う必要があるだろう。先に引いた卒業論文に見られる「詩作の放棄と異国への逃亡と言う余りに悲劇的な結末」といった文章に、そうしたロマン派的イメージは端的にうかがわれる。
ランボーが商人としての拠点とした街に、アラビア半島南端のアデンがある。ジブチの対岸に当たる港湾都市である。長らく遠藤の小説第一作と見なされてきた「アデンまで」(一九五四年)の主人公は、マルセイユから船に乗った日本人留学生である。彼は白人のフランス女性と別れて、四等船客として病気の黒人女性とともに乗船している。黒人女性は旅の途中で亡くなり、水葬に付される。この小説では、アデンはヨーロッパ世界が終わる場所として設定されている。換言すれば、ヨーロッパ社会からの抑圧が減ずる地点として表象されているのである。
アデンはまた、芥川賞受賞作「白い人」(一九五五)においても重要な役割を果たしている。八月中旬にアデンに来た主人公の少年(父親はフランス人で母親はドイツ人。長じてヴィシー時代のリヨンでナチス協力者となる)は、「目も昏むような熱さ」のなかで「アフリカの黒人、褐色のアラブ人、黒布を顔にまいた女たちのみが蠢いている」アデンで解放感に浸る。彼はアラブ人の曲芸少年を金で買い、岩陰で暴行して暗い快感に浸る。アデンは「道徳、宗教、家庭、学校がそこに住む一切の人間の本能や欲望をしばりつけている保守的なリヨンの重苦しい」世界と違って、日頃抑圧されている本能や欲望を自由に解放し得る世界として設定されている。
遠藤は、リヨンで二年間の学生生活を送り、パリに移ってから、フランス人の白人女性フランソワーズと恋愛している。当時の日記を読むと、遠藤は彼女とともに、アフリカに旅行することを夢見ている。日本人の自分と西洋人の恋人との逃避行――その場所としてアフリカが夢想されているのは何故だろうか。キリスト教の及ばない世界、そこから逃れられる世界、あるいは、肌色の違うカップルを許さない西洋世界を相対化する場所としてアフリカが表象されていたと見ることもできよう。しかしまた、遠藤が魅せられていたランボーが象徴主義の系譜にあることから、ボードレールが「髪」(『悪の華』所収)で、恋人の髪に「燃えるアフリカ」の幻影を見たことを考えると、初期遠藤のなかには、象徴派の精神への親和性とともに、エキゾチズムとしてのアフリカイメージもまた潜んでいたのかもしれない。
フランス留学前の遠藤周作は、「神々と神と」(「四季」一九四七年十二月)に始まる評論によって、すでに文芸批評家として出発していた。一九五〇年六月から一九五三年二月に至る留学から帰国すると、遠藤は「アフリカの體臭――魔窟にいたコリンヌ・リュシェール」(伊達龍一郎名義『オール讀物』一九五四年八月号)、「アデンまで」(『三田文學』同年十一月)を書き、小説家として再出発する(4)。前者は長らく幻の作品であった。管見の限りでは、新潮社版日本文学全集の解説で、村松剛(一九二九―一九九四)が、タイトルを記さずに短く言及していたのみである(5)。 リヨン大学に籍を置いた当初、遠藤は、フランソワ・モーリアック研究で学位を取り、帰国後は慶應義塾大学の仏文学教師になることを考えていた。スタンダールで学位を取得したばかりの片岡美智と面会した頃は、そのように考えていたものと私は思う。だが、この計画はやがて捨て去られ、小説家になることが彼の目標となる。批評家から小説家へ。この転換の背後には何があったのか。社会の上層に位置する白人男性の視点から描かれた小説を通してフランスを見ていた遠藤は、人種、民族、階級、宗教、男女、美醜といった権力関係が複雑に絡み合ったフランス社会の現実を、本国のみならず植民地の実態も含めて見聞した。批評という形式は、複雑な現実を抽象化し、因果律で単線的に論証しなければならない。しかし、小説という形式ならば、複雑な現実世界を複雑なまま一挙提示的に表象することができる。遠藤自身はこのような言葉で説明したことはないが、彼が批評家から小説家へと方向転換した動機には、以上のような思いがあったのではないだろうか。
同時期に書かれた「アフリカの體臭」と「アデンまで」は、六〇年前に書かれたとは思われない衝撃力を持つ作品である。「アフリカの體臭」については、研究者によって取り上げられることもなく今日に至っており、ほとんど読まれたことのないテクストゆえ、論述の必要上簡単に紹介しておくこととしよう。
一九五〇年六月フランス船マルセイエーズ号でパリに向かう日本人留学生が語り手の一人称小説である。主人公は、サイゴンから乗り込んできた、インドシナ戦争取材の特派員ピエールと、ジブチで衝撃的な体験をする。三〇年代に銀幕で活躍したが、ヴィシー時代にナチス高官の愛人だったことから、戦後裁判にかけられ、五〇年一月に結核で亡くなった女優コリンヌ・リュシェール。彼女がジブチで娼婦になっているという外人部隊兵士の話を確かめようとするのだ。探し当てた淫売宿の覗き部屋で主人公たちが見たものは、ラクダ用の鞭で黒人の少年をいたぶるアラブ人の女だった。ところが、女の顔を覆っていた布が滑り落ちると、出現したのは紛れもない女優の顔であった。「白豚のよう」な女主人は、しかし「あれは此処の女だ。〔……〕ジプチに来たら、さう考へなくちや、いけないんだ」と声を荒げる。パリに着いた主人公は、この話をして誰にも信じてもらえなかったが、ボーヴォワールだけが「この話をくひ入るやうに肯きながら聞いてくれた」。…… 以上が梗概である。作者のメッセージは明白であろう。ヴィシー時代にユダヤ人差別政策を行うナチスに加担した対独協力者は戦後罰せられ、死んで葬られたことになっている。しかしそれは虚構であり、フランスは現在も植民地では現地人を差別して迫害している。そしてその欺瞞を本国で深刻に受け止めているのは一部の知識人にすぎない、というものだ。
タイトルについても考えてみたい。「アフリカの體臭」といいながら、ジブチという土地や現地人に対する臭いの描写は一切ない。白人女優の黒人少年への暴力が繰り広げられる娼婦の館でのみ、強い臭気が描写される。「僕はそれまで、又その後も色々な土地の淫売屋をみた事がありますが、これ程、烈しい臭気と、不潔な娼家の内部ははじめにして終りです」。「女が僕たちを連れて行つたのは二階でした。〔……〕下と同じやうに、ひどい臭気が鼻につきました」という二箇所が該当部分である。つまり、フランス人のアフリカ人に対する暴力が、悪臭と不潔さに結び付けられているのである。このようなことから、このタイトルは「アフリカに染み込んだフランス植民地主義」の隠喩と見るのが適当ではないだろうか。
遠藤はジブチで強い印象を受けていた。一九五〇年六月二八日という、主人公がジブチに到着した日付けも、この作品の描写の一部も、留学日記の内容と一致している。小説中に、ジブチで「白夜」があるとか、ここが「アフリカの南端」であるとか、首を傾げるような箇所があるのは、実在した女優を登場させつつも、この物語があくまで「虚構」であるということを読者に強調するための「テクスト内事実」として受け止めるべきなのかもしれない。「白い人」の冒頭部分でも、連合国軍のリヨン進駐が、歴史的事実とは齟齬する一九四二年に設定されていたことを思い合わせると、おそらくそのように考えるべきなのであろう。その一方で、覗き部屋から逃げ出した女優を追跡したものの見失ってしまい、諦めて売春宿に戻る主人公らの行動の描写には、明らかに説明不足のところがある。小説を書き始めた初期遠藤には、修練不足のところもまたあったと考えてよかろう。
コリンヌ・リュシェールは日本でも人気があった女優である。一九二一年生まれだから、一九二三年生まれの遠藤と、ほぼ同世代である。遠藤は少年時代から映画好きだったので、彼にとっても憧れのスターであった。慶應時代に、小林聖心女子学院出身の美しい少女がリュシェールに似ていると三浦朱門に語ったことがあった(6)。野坂昭如(一九三〇―二〇一五)は彼女を「戦死者をもっとも多く出した世代の、銀幕の恋人」であると記している(7)。野坂はそうした世代よりかなり年下なのである。野坂はまた、一九四九年夏に雑誌『りべらる』で彼女がアルジェリアで肺病にかかっているという記事を見、さらに一九五二年頃に、彼女がアルジェリアで「娼婦の館の女主人になっているという噂を、何かで読んだ」という。野坂は一九六三年にフランスに行った際、リュシエールと面会しようとしたという。一九五〇年一月の彼女の死を知らなかったのである。「娼婦の館の女主人になっているという噂を、何かで読んだ」というその何かとは、遠藤の「アフリカの體臭」かもしれない。三浦朱門は、一九五二年の秋に、安岡章太郎の紹介で初めて遠藤と会ったときに、アルジェでリュシェールが娼婦になったという噂があると話したと証言している(8)。なお、野坂と同世代の小田島雄志(一九三〇―)も、この女優への「恋心」を文章にしている(9)。 リュシェールについて、遠藤と同世代の鈴木明(一九二五―二〇〇三)が一冊の本を書いている(10)。女優の母親や弟、フランスの映画関係者などにも直接取材をし、よく調べて書いている書物である。同書に拠れば、亀井勝一郎、円地文子、古屋綱武、羽仁五郎、堀口大學、石川達三、河上徹太郎、北原武夫、尾崎行雄といった人々が、リュシェールの出世作「格子なき牢獄」に賛辞を寄せたという。彼女の対独協力について、ナチス高官の情婦であったというそのレッテルが、アメリカ人ジャーナリストによって国際的に定着したものであることを鈴木は解明している。この書物の最後に、パリ郊外の市民霊園に彼女の墓をようやく探ね当てたときのようすが記されている。その場所には、墓石すら置かれておらず、ただ枯れ草に覆われていた。墓守の老人は、コリンヌという女優の存在すら知らない。彼女は一九七〇年代後半のフランスで、すでに忘れられた女優だったのである。
ある時期の日本人にとって、コリンヌ・リュシェールが憧れのスターであったことは確かで、それゆえ遠藤の「アフリカの體臭」は、憧れの美しい人の零落の哀れを描いた作品という体裁を持っている。「魔窟にいたコリンヌ・リュシェール」という扇情的な副題は、編集部で付けたのであろうか。短い作品であるにもかかわらず、本文にも「淪落の女優」「魔窟探険」「子供を買ふ」「のたうつ金髪女」「夜の幻影」という小見出しがゴチック体で記されているが、これも編集部が付けたものかもしれない。要するに、読者にショックを与えることを作者は狙っていると考えることができる。
美しいフランスの若い女性が実は暗い部分を抱えていることが暴露されるという図式は、実はこの作品が初めてではない。『フランスの留学生』(一九五四)巻頭に収録された「恋愛とフランス大学生」では、シモーヌという美しい女学生が自殺を遂げたが、「果実のようにみずみずした」彼女が「雑貨屋の、だみ声の老人の情婦であったこと」がわかり、「何かそこに陰惨な衰弱感と情欲の死翳が絡み合っている」のを見たという話が書かれている。美しく見えるものの背後に潜む暗黒という構図は、初期遠藤周作に顕著なものであった。それはそのまま美しき共和国フランスの醜悪な裏面のメタファーであるようにも思える。
リュシェールの死については、朝日新聞でもロイター共同の訃報が出たので、留学前の遠藤は、彼女の戦時中の対独協力と戦後の死について知っていた可能性がある。知っていたのならば、慶應義塾の仏文学教室ではレジスタンス文学がもっぱら話題となっていたので、対独協力と美貌の女優との結びつきは、遠藤に強い印象を与えたであろう。鈴木は、「格子なき牢獄」が一九七七年の正月にテレビで再放映されたときに、ゲストとして遠藤がスタジオに招かれていたときのようすを記している。遠藤はコリンヌが「われわれの青春時代の象徴である」というような意味の言葉を口にした。そして、ヴィシー時代の対独協力についてホストが語るのを聞いて、遠藤は「しばらく絶句し、眼のやり場を失ったようであった」と記している(11)。「アフリカの體臭」の作者はここで驚いたふりをしたわけである。
村松剛は、先に言及した文学全集の解説文において「小遣いかせぎのためだけではなく、小説の筆ならし、という意味もあったようである」(12)と書いているが、それ以上の深い意味合いがあったものと考えるべきであろう。
「アデンまで」の主人公も日本人留学生の青年である。彼は、マルセイユからフランス船マドレーヌ号に乗船する。甲板下の船艙にある、油虫が這い回る薄暗い四等船室は、荷物を積む空間であり、乗客は彼と病気の黒人女性しかいない。この船は植民地共和国フランスの階層構造の縮図である。白人男性の船長が頂点にいて、以下、白人の男性船医、白人の(ジブチに向かう)中年修道女、下級水夫などがいて、黒人女性が最底辺にいる。この黒人女性は「このままでいいだ。黒人はみな、このままでいいだ」とフランス語クレオールで呟き続けるが、やがて船室から隔離室へと無理矢理排除される。どれだけの手当がなされたのか、彼女の死亡を主人公は耳にする。検疫の手間を省くため、遺体はアデン到着を待たず水葬に付される。彼女はマドレーヌ号、すなわち白人が主役の人間世界から消去されてしまうのである。船長、事務長、船医、修道女、そして遺体の入った布袋を運ぶ二人の水夫。厳粛な顔で彼らは足下の布袋を見つめる。修道女が読み上げる祈祷書のミサ典書。何という偽善だろう! 「白人の祈祷」が、「もはや俺の耳には乾いた意味のない音としか聞こえなかった」と主人公は呟く。これが遠藤が描き出したフランスだった。
船体のペンキも所々剥げかかった「老朽貨物船」であるものの、それが「まだきちんと動いている」ことから、李英和はマドレーヌ号を「〈ヨーロッパ(白色人種)〉と〈アジア(黄色人種)〉〈アフリカ(黒人人種)〉の過去、すなわち植民地主義時代、帝国主義時代を表わす言葉」として読み取るとともに、「今も顕在しているアフリカ、アジアに対するヨーロッパ人の思考形態を象徴する事物」と分析している。首肯し得る見解である(13)。
小説中には、主人公が友人たちとモンパルナスの裏通りの屋根裏部屋で、淫売婦によるいかがわしい見世物を見る場面がある。「アフリカの體臭」と同様の趣向だ。全裸の白人女が、全裸の黒人女を転がしたり引きずったりする。痛めつけられ役であるにもかかわらず、稼ぎの取り分が白人女より少ないことについて、黒人女は「わしは黒人だもん」と弱々しく呟く。白人の人種差別的価値観を完全に内面化した黒人の姿がここには描かれている。
このように、小説家遠藤周作が出発時に主題化したのは、フランス植民地アフリカと本国を舞台とした人間社会における人種、階級、男女間の権力構造だった。この主題は、留学前の遠藤が書いた評論には全く登場しなかった。「神々と神と」において、遠藤は、「神」「天使」、そして「人間」の諸関係について真摯な思索を重ねている。それは新トマス主義者の著書から吸収した思想であった。しかし、書物のなかに言葉としてあるその「人間」とは、現実世界では実のところ「白人」の謂であり、有色人種が除外されていることに、遠藤はフランスに留学するまで気がつかなかったのである。「人間」の頂点に白人男性がおり、以下、白人女性、黄色人男女、黒人男女がおり、さらにその下に、「ホッテントット」、アボリジニ、オランウータン、野獣が位置することを、遠藤は肌で理解するようになっていた。そうした西洋の「人間」観を認識したことが、「アフリカの體臭」や「アデンまで」を遠藤に書かせたのである(14)。
若き日の遠藤が重要な決断をした上でこれらの作品を発表したことは疑いない。連合国軍占領下の言論統制時代、すなわち出版物の検閲が徹底して行われていた数年前までであれば、連合国の威信を傷つけるこの作品が活字になること自体がそもそもあり得なかった。検閲制度がなくなっていたとはいえ、連合国への敵対心を払拭するための占領政策が徹底して行われてきた時期に、フランス人の有色人差別と、それに対する日本人の心理的屈折について、これを正面から主題とすることは、新人作家として安全着実な第一歩ではなかった。とりわけ当時のフランスは全体主義体制を打ち破った自由の国として日本の知識層に理想化されて語られていた。「抵抗の文学」を生み出したフランス文学も特別であり、ヨーロッパ文学の「代表」と目されていたのである。したがって、「アフリカの體臭」も「アデンまで」も、作者に賞讃も承認も与えない可能性の方がむしろ高かった。白人に対する非難は、「鬼畜米英」に代表される大戦中のプロパガンダを思い起こさせることから人々の忌避する話題であった。また、フランス帰りの留学生にしてみれば、自らがまとう眩惑的光背効果を危うくしかねない秘密の暴露だった。これらの作品は、フランスを理想化する当時の多くの日本人の神経を逆撫でする作品だったのだ。「アフリカの體臭」が別名義であったのは、実名では危険だと考えたからだろう。当然のごとく、「アデンまで」は『三田文學』の合評会で「酷評されたので、大いにしょげていた」(15)。とはいえ、遠藤が本当に「大いにしょげていた」のかどうかは疑問である。彼が臆することなく、フランス現代史の最暗部たるヴィシー時代の対独協力者を主人公にした「白い人」の執筆に引き続き取りかかったのは、その信念が揺るぎないものだったからとしか考えられないからである。「アデンまで」以上の衝撃力を持つ「白い人」は『三田文學』も掲載を見合わせざるを得なかったし、日本国内でこそ代表作とされているが、遠藤の生前は英語にさえ翻訳されず、現在でも仏独語には翻訳されていない。
以上見てきたように、小説家としての初期遠藤周作を理解するにあたり、フランスの植民地であるアフリカは、無視することのできない重要な意味を担っていた。学生時代にランボーへの関心から生まれたアフリカへの関心は、フランス留学時代に自ら直面した西洋植民地主義の生々しさへの強い反発の導火線となり、遂には小説家として出発するための起爆剤となったのである。
【註】
1 トマス=カトリック的人間観に対する遠藤の違和感の背後には、地上の全ての存在を「生類」として並列的に捉える日本人の世界観があると考えられる。第九章参照。
2 一九五〇年代の日本人フランス留学生の実態については、第一章で見たとおりである。
3 鈴村和成『ランボー、砂漠を行く――アフリカ書簡の謎』岩波書店、二〇〇〇年。
4「アフリカの體臭」は、「遠藤周作『侍』展―〈人生の同伴者〉に出会うとき」(監修・加藤宗哉/今井真理、町田市民文学館ことばらんど、二〇一四年一月一八日―三月二三日)において、遠藤の作品であると認定され展示された。
5 村松剛「解説」『新潮日本文学56 遠藤周作集』新潮社、一九六九年。
6 三浦朱門「インタビュー わが友、遠藤周作を語る」『別冊文藝遠藤周作(増補新版)』河出書房新社、二〇一六年、一三四頁。
7 野坂昭如「アルジェの果てまでも」((『文藝春秋』一九八七年七月臨時増刊『女優―わが青春の女優たち』一九頁。
8 三浦朱門『わが友遠藤周作――ある日本的キリスト教徒の生涯』PHP研究所一九九七年、一七七頁。
9 小田島雄志「コリンヌ・リュシエール 青春の憧れはいつまでも」『文芸春秋スペシャル』二〇一三年春号、一七〇―一七一頁。
10 鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』文藝春秋、一九八〇年。なお、同書は書き下ろしではなく、『週刊文春』に連載された後に単行本としてまとめられたものである。当時の読者層がそのままリュシエールを記憶している年代であったことがわかる。
11 同右、一〇―一一頁。
12 前掲『新潮日本文学56 遠藤周作集』五三一頁。
13 李英和「遠藤周作「アデンまで」論――留学体験と疎外されるという絶望」『日本語と日本文学』四五号、二〇〇七年、六五頁。
14 ヨーロッパのこうした差別的な人種階層観については第九章及び以下の文献参照。岡崎勝世「リンネの人間論――ホモ・サピエンスと穴居人」(『埼玉大学紀要(教養学部)四一巻二号』二〇〇五年)、竹沢尚一郎『表象の植民地帝国――近代フランスと人文諸科学』世界思想社、二〇〇一年、竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う――西洋的パラダイムを超えて』人文書院、二〇〇五年、スティーヴン・グールド『増補改訂版人間の測りまちがい――差別の科学史』鈴木善次、森脇靖子訳、河出書房新社、一九八八年、藤川隆男編『白人とは何か――ホワイトネス・スタディーズ入門』刀水書房、二〇〇五年。
15 遠藤周作『落第坊主の履歴書』文春文庫、一九九三年、一〇七頁。
【附記】
「アフリカの體臭」は、本節の初出である拙稿「遠藤周作と アフリカ――『アフリカの體臭』『アデンまで』を中心に」(二松學舎大学『人文論叢』九四輯、二〇一五年三月)発表の翌年に刊行された、遠藤周作の作品集『『沈黙』をめぐる短篇 集』(慶應義塾大学出版会、二〇一六年六月)に初収録された。ただし、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに変更されている。同書刊行時には「幻の処女小説」の発見として、『産経 新聞』(二〇一五年六月三日)をはじめ各紙で報道されたが、この作品の意義についての検討はその後も充分にはなされていない。ポストコロニアルという視点を持つ研究者がいないからである。従来の、キリスト教を軸とした西洋/日本という比較文化論的視点からは、この作品が持つ思想的意義は鮮明に見えてこない。『『沈黙』をめぐる短篇集』の巻末解説で、編者である加藤宗哉は、この作品が「アデンまで」発表以前の小説であることから、「娯楽小説の要素が強いとはいえ、「アフリカの體臭」を遠藤周作の処女作とすることも可能なのである」と指摘しているが、「文体から見ても、小説の内容・状況から見ても、これがフランス留学から帰ってまだ日の浅い遠藤周作によって書かれたことは間違いない。のちに人気作家となる要素も充分に感じさせる小篇である」と説明しており、娯楽小説的側面を強調して、思想的価値には触れていない(同書三〇九頁)。
*初出:二松學舎大学『人文論叢』九四輯、二〇一五年三月