星を知り始めてから2
(前回からの続きです。)
「後、昭和5年(1930)9月号の子供の科学付録の美しい二重星の絵葉書や望遠鏡の作り方の記事を見、急に望遠鏡を作りたくなり、子供の科学社代理部より3cm色消し対物レンズ、ラムスデンアイピース、サングラス等を求め、初めて天体望遠鏡を自作した。それで見た金星、月、星雲、星団等は、自作という誇りの下に満足できるものであった。土星環は思った程に見えないのに失望した。だが、環の存在だけは目のなれるにつれ認められ、少し気をよくした。また、朝2時頃起き出し、裏庭に下り、寒さに震えつつ東天より昇り出てきた四大衛星を引き連れ楕円形に見える巨惑星・木星を見た時、その喜び満足、またその壮観は今でも忘れられない。
花山天文台も公開の度ごとに後7,8回も登った。中村要氏とも数度お会いし、色々お尋ねしたりお話ししたりしつつ望遠鏡を覗かせていただいた。一度地平近い金星を30cm屈折望遠鏡で覗いた時、ただ赤と青の色がついて燃えているように見えた。早速お尋ねすると、「色消しレンズと言っても、屈折は絶対の色消しとてはなく、使用に差し支えない程度の色消しと解すべきでしょう。それに観測者の肉眼そのものが絶対的の色消しではありません。慣れてしまえば、色はそれ程問題でなく視野の平坦な事等は大切な要件です。」と話された。度々お会いした事により、中村氏は、本当に感じの良い素人の言も馬鹿にされない親切なお方だという感じをますます深くした。
最も印象的なのは、一昨年(1932年)2月末公開の夜、いつも花山へ行く時は共に行く当市の友人田中君と二人で、円山公園の方から北風寒い花山路を登った時のことである。円山から少し登るとお堂がある。月もなく暗い山路でつと向こうを見ると、灰色の着物のようなものの傍にボーッと光るものが揺れている。気持ち悪く思い一寸立ち止まったが、またゆるゆる歩いて二人手を握り合いながらその傍を通り過ぎた。すれ違いざまによく見ると、灰白色の着物を着たお婆さんが頭に白い手ぬぐいのようなものを巻き、手にろうそくを持ち、消えないように白い紙でそれを囲っているので、その時向こうも下からうかがうようにこちらの顔を見たが、場所が場所だけに気持ち良くは思われなかった。少し通り過ぎると、路のそばの一軒家の犬2,3匹が吠え出した。星を仰ぎつつ山路を歩み天文台に着いた。公開日であるのに外には誰も来ていず、ひっそりしていた。中村氏の笑顔に迎えられ、1時間半ばかり話しながら30cm屈折望遠鏡で木星、10等位の光度の彗星、二重星等を存分見せていただいた。だが前と違い、中村氏が合わせてくださった像がどうも自分にはピントが合っていない。それで、「接眼部微動ネジを動かしてもよろしいですか。」とお許しを乞うと、「はあ、この頃私は目が随分悪くなっていますから合わないかもしれません。どうぞ。」と微笑みながら申された。このお言葉が結局中村氏を失う主な原因になるであろうとは、神ならぬ身のその時の私は何とも思わず時を過ごした。観望の後、この寒い夜にわざわざ登って来て熱心であるとて、特に中村氏の部屋に入れていただき、研磨機械の並んでいる部屋で研磨中の10cm天体写真玉を見せていただいた。このレンズが7,8枚合わさって1個の写真玉ができるとのことであった。また、30,40cm用中口径反射鏡の研磨機を見せていただいた。いずれこの位のレンズもここで作れますと言われた。そばの機械は、大抵ピッチ、紅柄で汚れており、7,8cmの凹面鏡、平面鏡が3,4個机の上に転がっていた。いろいろお話しして後、ご親切を謝しつつ山を下った。その山路の半ば位下りて来た時である。後ろにガサガサという音を聞いた。何気なく歩いて行くと音は近くなり、急に隣の田中君の後ろで止まった。私がふっと振り向くと、一間(約2m)ばかり後ろに大きな黒い太ったものがいるように思った。一歩後ろへ下がって「シーッ」と叱りつけると、なんと思ったかまたガサガサと音を立てて茂みに隠れてしまった。
後で考えるとどうも山犬であったように思う。向こうが恐れをなして逃げて行ったのが幸いであった。再び追っては来なかったが、山を下り蹴上(けあげ)へ来てからホッとした。花山の方に伺うと、あの山には兎もいてよく糞が落ちており、ある日朝早く、天文台の方が宿舎から出てきて兎を見つけ追いかけると、逃げて見えなくなったそうである。
同年(1932年)9月、賀茂川原荒神口の西村製作所へお邪魔して、同社のご厚意で13cm反射経緯台を河原へ持ち出し、北極星、土星、海王星、アンドロメダの大星雲等を覗かせていただいた。1インチ屈折赤道儀も共に使わせていただいたが、軽便な赤道儀装置は一緒に見せていただいていた同志社中学の北村くんの大変気に入ったようであった。その時、同志社中学の11cm屈折望遠鏡のことなどを話し合った。
本当に赤道儀が便利なことは、使った者でないと分からぬと中村氏が書物の中に言われているのが、やっと分かったように思った。後にやはり西村製作所で伊達氏の11cm反射赤道儀を見せていただき、便利そうな赤道儀に見入ったものである。
さて西村製作所の前の河原は市内ながら随分暗く、天体観望には随分よさそうに思った。いろいろお話ししながら覗いている時、西村繁次郎氏が突然、「花山の中村さんが亡くなった事が新聞に出ていましたね。」と申された。自分にはその言葉はあまり突然の話で、暫し茫然としたが、後その新聞記事を見せていただいて、あの方を死なせたことを残念とも口惜しいとも何とも言えぬ妙な感情が出てきて、花山でいろいろと鏡を覗かせていただき、親しく話させていただいたことなどが走馬灯のように頭を去来した。亡くなられた原因は私どもの言うべきことでないだろうが、最後にお会いした星の光の凍るような空の下、ドームの中で「私は随分この頃目が悪くなっていますから」と微笑みながら申された言葉が、中村氏の死を暗示していたように思えてならない。(後略)」
(写真は、高井宏典氏と愛機11cm反射経緯台(中村鏡)、伊達英太郎氏天文写真帖第2巻より)(記事は、伊達英太郎氏「THE Milky Way」第6号 1934年(昭和9)12月10日発行より)