蘇りの春
【「永劫回帰・輪廻転生」とは?】
「永劫回帰・輪廻転生」から和多志は ブラックホール・ホワイトホールの逆渦を連想します。
宇宙の誰もが知る公理に回転があります。回転からは遠心力、求心力が生まれます。
何かが時計回りに回転すれば、反時計回りの渦が生まれるということです。
創造のみ柱は時計回りの渦と反時計回りの渦で表現されます。
命は(現象世界は)「精神が己を外化しつつ発展してゆく過程(現象学的物理学)」であり、死とセットといえるのかもしれません。
死のスピリット(エネルギー・精神・意志・渦)が働けば生のスピリット(エネルギー・精神・意志・渦)が生まれ、生のベクトルが生まれれば死のベクトルが生まれる・・・・渦の大きさは意志の強さによるのでしょうか?
カルマン渦と呼ばれる逆渦の流れもよく知られています。
カルマン渦をシンボリックに表現した「命の木」の図をよく見ます。
命が死と再生の逆渦であることを暗示しているのではないでしょうか?
カルマン渦とはウィキペディアでは
「カルマン渦(カルマンうず、英: Kármán's vortex[1])またはカルマン渦列(カルマンうずれつ、英: Kármán's vortex street[2] )は、流れのなかに障害物を置いたとき、または流体中で固体を動かしたときにその後方に交互にできる渦の列のことをいう。ハンガリー人の流体力学者セオドア・フォン・カルマンにちなむ。」と紹介しています。
https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9E...
さらにカルマンについては「業(ごう)とは、仏教の基本的概念で、サンスクリットのकर्मन् (karman) を意訳したもの。
サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。
今日、一般的にこの語を使う場合は、(因縁・因果による)行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)、不合理だと思ってもやってしまう宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い。」と記しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
地球の北半球と南半球では渦が逆巻きになるといわれます。
リンゴの皮をむく実験を見ました。皮を細く細く向いていくと、芯を中心に反転する逆渦の形になります。
球とは芯を中心に反転する、時計回り、反時計回りのメビウスの輪が形作る世界といえるのではないでしょうか?
「悪い部分が、どうしようもなく、ますます酷くなって行く」という言説は創造のエネルギーが極まり転じ、破壊のエネルギーに傾いてゆくということではないでしょうか?
死と再生がセットであり、時計回り、反時計回りの渦がセットであるということからも言及できるのではないでしょうか?
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02903/ 【日本人の死生観を探究するための三つの扉】より 山折 哲雄 【Profile】
日本を代表する宗教学者が、環境・風土、神話、歴史的背景などを手掛かりに、日本人の死生観とその多層的な意識構造を洞察する。
風土・環境的背景―三層構造の日本列島
日本人の死生観を考える上では、三つの扉を開けて入るのがわかりやすい。
第一の扉が、風土的・環境的な背景を手掛かりにすることだ。以前、日本の広告会社が、日本列島を3000メートル上空から撮影したビデオを作った。沖縄からセスナ機を北上させ、日本列島を縦断して北海道にいたる眼下の景観を、一時間ほどにまとめたものだった。
私はそれを見て驚いた。沖縄から本土までは一面の大海原だったが、その後そこに展開する国土の連なりは、行けども行けども山また山、森また森だったからだ。あえて言えば、そこに展開する自然の中に、稲作農耕社会の片鱗(へんりん)さえ見いだすことはできなかった。むしろ森林社会、山岳社会、そして海洋国家といえばいえるような景観がどこまでも続いていたのである。
やがて、これは高さのトリックによる錯覚ではないか、と気付いた。もしもセスナ機の高度を1000メートル近くに下げたらどうか。そこに関東大平野のような耕作地帯が見えてくるはずだ。さらに機首を500、300メートルと下げるとどうなるか。そこに近代的な都市と工場地帯が姿を現すに違いない。
ハッと思った。日本列島は三層構造で出来上がっている。森林山岳社会、稲作農耕社会、そして近代工業社会、である。そしてこの列島形成の重層性が、そのまま我々の意識と感覚に重要な性格を刻み込んだ。深層における縄文文化、中層における弥生文化、そして表層における近代的な意識や価値観である。そしてこの風土と意識に関わる三層構造は、2011年3月11日の「東日本大震災」のような危機に際して、柔軟な対応を可能にし、いつ起こるかもしれない自然の脅威と、それによって発生する不条理な死を忍耐強く受容する態度を生み出した。
例えば、近代日本の代表的な自然科学者であり文学者でもあった寺田寅彦は、1930年代に「天災と国防」「日本人の自然観」というエッセーを書いて、次のようなことを言っている。第一、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈の度を増す。第二、日本列島は西欧に比べて地震、津波、台風による脅威の規模がはるかに大きい。第三、そのような経験の中から、自然に逆らう代わりに、従順に首をたれる態度が生まれ、自然を師として学ぶ生き方が育まれた。
その結果、日本の科学も自然を克服するという考え方からは離れ、自然に順応するための経験的な知識を蓄積することで形成された。ここで特に注目しておきたいのは、西欧の自然が比較的安定しているのに対して、日本の自然がはるかに不安定で、時に狂暴な性格を持ったということだろう。
日本風土の中で変容した「無常観」
それだけではない。寺田寅彦はこのような自然への随順、風土への適応という態度の中に、仏教の無常観と通ずるものを見いだしていた。数限りない地震や風水による災害をくぐり抜けることで、「天然の無常」という感覚がつくりあげられたと言っているからである。この「無常」というのはもちろんインドの釈迦(しゃか)が考えたものだ。この地上に永遠なものは一つもない。形あるものは必ず滅びる。人はやがて必ず死ぬ、というのが、釈迦の説いた原理的な立場だった。
ただこのインド産の無常の意識は、日本的風土の中で重要な変容を遂げることになった。我々を取り巻く自然界には四季の巡りによる蘇り(よみがえり)と循環の無常が息づいているという感覚である。春に花が咲き、秋には紅葉と落葉、そして冬になって木枯らしが吹く。けれども年を越せばまた春が来る。照る日、曇る日が循環し、それが生きる支えになっている。ねばり強く、柔らかな、たおやめぶりの忍耐力が芽生え、やがて近づいてくる死の影、死の訪れを静かに受容して土に帰る、自然に帰一する、そういう感覚が発達したのである。
「信じる宗教」と「感じる宗教」
第二の扉が、一神教との対比における日本人の死生観という問題である。私は1995年の秋に、初めてイスラエルを訪れた。そしてイエス・キリストの足跡を追うような形で旅をしたが、行けども行けども砂漠、砂漠の連続で、次第に気分が落ち着かなくなった。地上に頼るべきものが何一つ存在しない、そんな実感が胸に迫ってきた。「聖書」をただ読んでいるときの印象とはまるで違う。
ヨルダン川沿いに聖都エルサレムに向かっているときだった。天上のはるか彼方(かなた)に唯一の価値あるものを求めざるを得なかった砂漠の民の思いが、突然、脳裏にひらめいた。地上の砂漠から隔絶した彼方に、唯一の神の存在を信ずるほかなかった砂漠の民の悲願である。それを信ずることなしには一日たりとも生きてはいけない、そういう切実な認識である。一神教という「信じる宗教」がこうして誕生したのだ、と思わないわけにはいかなかったのである。
イスラエルの旅を終え、飛行機が日本列島に近づいたとき、私は目を洗われるような気分になった。眼下に緑なす森林が続き、大海に流れ入る河川と鬱蒼(うっそう)たる樹木に覆われた光景がどこまでも展開していたからだ。思わず、山の幸、海の幸の数々が眼前に浮かぶ。清冽(せいれつ)な川の流れの音が聞こえ、四季折々の草花がにおい立つ。
古代の万葉歌人たちの感覚が蘇り、かつての山中生活者たちの胸の鼓動までが聞こえてくる。この地上こそ、生きとし生ける者たちの安らぎの場所、何も天上の彼方に唯一の価値あるものを追い求める必要はない。森林や山野に神々の気配が満ち、仏たちの声がこだましている。多神教という名の「感じる宗教」が、こうしてこの日本列島に育まれるようになったのではないか。
「個」vs「ひとり」・「無常」
信じる宗教と感じる宗教の対照性、といっていいだろう。その信じる宗教についてであるが、そもそもこの信じるという生き方を表す上で「個」という言葉ほどふさわしいものはないであろう。自立した個人がそれぞれに、天上の彼方に絶対的な価値が存在することを信じている姿がたちのぼってくる。個人とか個性という言葉の本来の意味もまた、そこに発しているのではないか。
ところがこれに対し、感じる宗教の場合、その「個」にあたる言葉が「ひとり」という大和言葉だったことに気付く。「ひとり」は「独り」とも「一人」とも書く。寂寥(せきりょう)の中の孤独、独り寝を楽しむ一人、極小の我が身を嘆くひとりから、宇宙大の自意識へと膨張していくひとりまで、「ひとり」を巡る伝承や物語を追っていくと、あっという間に千年の歴史を超える。
近代ヨーロッパ語から輸入された「個」と比べるとき、その日常言語としての含意はさらに深く、イメージの波長も長い。そしてこのような「ひとり」の意識が、先に触れた日本列島人の「無常」感覚と切っても切れない関係にあったのである。
「神仏習合」と国家神道の誕生
もう一つ、この国で生み出された「感じる宗教」の特質として挙げなければならないことがある。外来の仏教と土着の神道が共存するシステムが作られて、「神仏習合」の信仰が形成されたことだ。ここでいう神道の神、すなわち日本の神は、キリスト教諸国でいう神とは違う性格のものだった。もともと日本列島の神々は山野河海(さんやかかい)や森林に宿り、自然の奥座敷に鎮座すると考えられていたからだ。個性もなければ肉体も持たなかった。その多くは、名前を与えられず、どこにでも憑着(ひょうちゃく)する霊力を持っていた。だからそれは神と呼ばれるよりは、神々と複数で、記号のように名指しされる傾向が強かった。そこへ仏教が伝えられ、神々と仏たちの共存、棲み分けの時代が始まった。
神々の仏教化が始まり、それがいつしか神仏習合と称されるようになった。面白いのは、このような棲み分けや混合を繰り返しているうちに、神と仏をほとんど同一視してしまう神仏信仰が出来上がったということである。やがて明治時代になり、そこへキリスト教が正式に伝えられた。日本の神々のキリスト教化が始まったのであるが、それは明治の近代国家の成立を経て、一神教の運動を生み出した。日本列島の神々の中から特定の神を選び出し、それを最高神の地位に祀(まつ)り上げたのである。国家神道の誕生だった。
万人が死んで「ホトケ」になる日本
こうしてわが国には、山野河海の神々、仏教化した神々、キリスト教化した神から成る三階建ての神殿が出来上がった。その構成が、先に触れた日本人の意識の三層構造に対応していることに注意してほしい。
そのことで外来宗教としての仏教の側に、もう一つの重要な変化が生じたのである。ここは日本人の死生観を考える上で、鍵となる要所なのでそれに触れておこう。「仏」とは日本語で「ブツ」もしくは「ホトケ」と発音するが、この「仏」とは元のインドでは修行して悟りを開いた仏陀(ぶっだ)のことだった。悟りを開いた覚者(かくしゃ)をサンスクリット語でブッダといい、漢音写して仏陀と表記した。それがもっと単純化されて「仏」と略記されるようになる。
その仏陀の教えが日本に伝えられると、神道の影響もあって新しい意味を付与されるようになった。いつのまにか死んだ人を「ホトケ=仏」と呼びならわすようになったからである。神道では、人は死んで神になると考えられていたのである。論より証拠、我々の社会では今でも死者のことを仏(ホトケ)と称して何ら怪しまない。インドの正統的なブッダの伝承を頭の中ではそれとして受け入れながら、しかし日本の仏教はいつの間にか、万人すべてが死んで仏になる、という思想を生み出したのである。
神話と歴史に見られる日本独自の連続性
最後の第三の扉が、神話と歴史についての日本人の独自の考え方である。知られているように、古代のギリシャ人やローマ人の間では、神話と歴史は別次元の話だった。つまりギリシャ・ローマ神話の出来事と、ヘロドトスやツキジデスが書いた歴史の記述の間に、つじつまの合う連続性を見いだすことはできないと考えられていた。それは西洋の神話学や歴史学では当たり前のことだった。
ところが、古代日本の神話世界と歴史記述の間の関係はそれとは違っていた。なぜなら神々の誕生と人間世界の成り立ちが、ほとんど同一次元のリズムの中で捉えられていたからだ。だから国の成り立ちに関しても、その始原の歴史観が西欧の場合と大きく異なっていたのである。
記紀神話を読めばわかるが、そこに登場する世界では二種類の神々が区別されていた。いつまでも生き続ける神々と、死んで陵(みささぎ)に葬られる神々である。永遠の神々と無常の神々と言ってもいい。前者を代表するのが高天原(たかまがはら)で活動する天つ神で、後者に属するのが天孫降臨(てんそんこうりん)以降の国つ神(くにつかみ)たちである。
天つ神(あまつかみ)たちは一時的に身を隠すことはあっても死ぬことはない。ところが地上に降り立った国つ神の子孫は、みんな死んで墓に埋葬されている。そして、この死んで陵に葬られる国つ神たちの系譜の中からあの神武天皇が誕生し、以後歴代の天皇の時代が始まる。生と死を繰り返す神々の運命がそのまま生と死を繰り返す人間の運命へと引き継がれていったと言っていい。神話の記述が、そのまま途絶えることなく人間の歴史へと連続しているのだ。
このことを背景にして、2013年秋に行われた伊勢神宮の「式年遷宮」を考えると、その根本の構造が見えてくるだろう。20年ごとに神を祀る殿舎を建て替える儀式であるが、そのとき神は旧正殿から新正殿へと移動する。その神の移動が真に意味するところは何かといえば、古い神が死んで新しい神が誕生するということをおいて他にはないだろう、と私は考えている。神の死と再生の儀式ということだ。
神もまた人と同じように死ぬ、という観念が成立していたからこそ、神話から歴史へと連続する独自の世界観や死生観、そして人間観が生み出されることにつながったのである。そしてまた神の死の無常性が、人間における生と死の無常性と深い連関を持つに至ったのだ。
肉体性に満ちた西欧の多神教、肉体性が希薄な「八百万」の神々
ところで、今述べたような日本の神話に登場する神々の世界は多神教といわれてきた。ともかくそこには「八百万(やおよろず)」の神々が現れるのであるから、多神教には違いない。しかしよく観察すると、この「八百万」教はギリシャ・ローマ神話にみられる多神教とはどこか違っている。インドのヒンズー教や中国の道教に登場する多神教世界とも異なっている。一体どこが違っているのか。
多少の例外を切り捨てていえば、この「八百万」教の神々は他の多神教の神々と比べて、個性とか肉体性が希薄である点で際立っている。いってみれば、目に見えない多神教なのである。もともと日本列島の神々は先にも触れたが山野河海のような自然の奥深く鎮(しず)まっていると考えられてきたのである。それに対して、ギリシャ・ローマ神話に登場する老人神ゼウス、青年神アポロン、少年神キューピッドは個性や肉体性に満ちていることがわかるだろう。ヒンズー教の主神であるビシュヌやシバもそうである。これらの神々はいずれも肉体的個性を持ち、目に見える神々の世界を構成しているといっていいだろう。
多神教こそデモクラシーに最も近い宗教
もう一つ、日本の多神教にみられる特質について触れておこう。キリスト教やイスラム教のような一神教では、ただ一つの神々を超越神とか絶対神と呼んできた。人間界から超越した存在とみなしたのである。地上的なものとは隔絶した価値を持つとされてきた。このような一神教は、私の常識的な感覚では、政治の領域における専制支配や君主制と対応するように映る。なぜなら、超越神が全宇宙を支配しているように、この地上世界をいわば人民の頭越しに超越的に支配しようというのが専制支配であり、君主制であるからである。要するに、一神教というのは宗教の世界における独裁体制であるといえないこともない。
ところが誠に不思議なことに、われわれにも親しいデモクラシーという近代の政治体制が、その一神教的な土壌から産み落とされたのである。英国の民主的な議会政治もフランス革命の急進的な民主主義も、みんなこのような一神教的な風土の申し子であった。
しかしよくよく考えてみれば、政治上のデモクラシーに最も近いはずの宗教システムは、むしろ多神教ではないだろうか。多元的な価値と多様な神々の存在を認める多神教こそ、民主主義的な政治体制に最もふさわしい宗教の在り方と思うのだが、どうだろう。
神が死ぬという観念と、相対的で多元的な価値観に基づく政治の在り方というのは、これまで述べてきたようなこの世界の移ろいやすい無常性という一点において結びついているのである。