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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 242 (04/03/23) 旧首里真和志平等 (5) Mawashi Area 首里真和志町

2023.03.06 00:27

旧首里真和志平等 首里真和志町 (まわし、マージ)



まだ自転車の修理ができていないので今日も徒歩にて首里区の真和志町を巡る。



旧首里真和志平等 首里真和志町 (まわし、マージ)

昔の首里は真和志、南風原、西原の三間地の広範にわたっていたが、中山世鑑を編集した摂政 (シッシー) の羽地按司朝季 (1617年 [尚寧29年] - 1676年 [尚貞7年]) の時に現在の首里の区画内に限定し、真和志、南風、西の三平等に行政区分し、真和志は琉球王国時代には首里城下町の中心に位置し、真和志間切のドゥームラ (首邑) として栄えた。 町端 (現池端町)、山川町、金城町、当蔵町などと隣接し、古くから町端と合わせて「真和志・ 町端」 (マージ・マチバタ) と連称される兄弟村だった。域内には王府時代、中城御殿、大美御殿、金武按司、美里按司、浦添按司、東風平按司の御殿屋敷が並び、王府で使う什器類など製作する御細工所も設置されていた。

廃藩置県の翌年 1880年 (明治13年) に三平等役所を廃し、真和志、 金城、赤田、江良次、赤平、当蔵、桃原の七管区に変更している。真和志は山川と町端と合併して真和志村となっている。

この地域も沖縄戦でほとんどが、焼失・破壊され、往時の面影は消えたが、ここにあった多くの文化財は復元され、王都の雰囲気が再現されている。真和志は沖縄方言ではマージといい、先日訪れた寒川町のマージムイ (真和志森) に由来するともいう。


首里真和志町の1880年 (明治13年) の人口は1190人だった。上の地図のように民家は域内の中心部に集中している。西には中城御殿、大美御殿跡に首里高校があり、東は龍潭、御細工所跡に城西小学校があり、域内の4分の三を占めているので、民家の密度は高かった。この土地利用区分は現在まで変化がなく、住宅地が拡大する余地はなかった。その影響なのだろうか、人口は減少を続け、現在の人口は324人までに減っており、明治時代から70%減少している。

首里区内の19の町の中では、明治時代は中位の下だったが、現在では二番目に人口の少ない地域になってしまった。

首里古地図に今回歩いて見て回ったスポットをプロットしてみた。域内の北側には、琉球王国時代には存在しなかった県道29号那覇北中城線が、村の東西に造られて、その辺りは大きく町並みが変わっている。


首里真和志町訪問ログ



先日訪問した中山門跡から守礼門に伸びる綾門大道 (アイジョーウフミチ) 沿いから首里真和志町の散策を始める。


綾門大道 (アイジョーウフミチ)

第一尚氏の尚巴志王代から第二尚氏四世尚清の初期にかけて首里城第一の国門だった中山門は美しい飾り門を意味する綾門と呼ばれていた。

中山門から守礼門までの間の大通りを (アイジョーウフミチ) と呼んでいた。この中山門から守礼門へ至る道は、歴代の冊封使や侵略薩摩軍、ペリー艦隊一行、そして琉球処分官の松田道之らも通った琉球王国第一の主要道路だった。首里王府時代には国王の即位を祝う一世一代の大綱引きの綾門大綱が、この通りで催されていた。


旧中城御殿 (ナカグシクウドゥン) 跡

中山門跡を入った綾門大道沿いには首里高校が建っているが、琉球王国時代には次期国王になる世子の屋敷である世子殿が置かれていた。世子は中城間切の領地を与えられていた事から、中城御殿 (ナカグシクウドゥン) と呼ばれていた。世子は中城王子として、中城間切に鎮守し、時々首里在府中はこの別邸に住居していた。幕末期には、米国提督ペリーが首里城を訪問した時には、総理官邸として、この中城御殿を接待所として使われた。

この中城御殿は1639年 (尚豊19年) の創建とされ、その後順次整備されたが、1875年 (明治8年) に龍潭北側向かいに移転している。この屋敷では薬草栽培もなされており、城西小学校敷地内にあった上の薬園に対し、下の薬園とも呼ばれていた。


櫨園跡 (ハジイン)

現在の首里高校正門を入って左側校舎の北西部分一帯は、王府時代に蠟燭や漆器の原料となる漆を採取する櫨園跡 (ハジイン) が置かれた場所だった。1821年 (尚灝18年) から、これまで蠟立主取 (ロウダティヌシドゥイ) の家宅で植実や桐実の醸造をしていたが、この櫨園の一部に醸造所を設置して、髪附油や蠟燭を製造していた。

この櫨園跡地には国学発祥地の碑 (写真右上) が立っている。15代尚温王 (1784-1802、在位 1795 - 1802) の国師である蔡世昌 (高島親方) がそれまで久米村人の官生 (明/清の国子監に派遣された留学生) が琉球王府高位高官就任資格が独占され、その質の低下を憂慮し、官生制度の改革を提言した。久米人の猛反発を受け、久米村出身者の粛清を断行する官生騒動まで発展したが、1798年 (寛政10年) に、当時の琉球では最高学府の国学を創立し、中城御殿に仮設され、当初は久米人が孔子廟がない事を口実に国学と呼ぶことに反対され「公学校所」と呼ばれていた。二年後の1800年 (寛政12年) に当蔵村勘定座に移転、1801年 (享和元年) には龍潭池畔の松崎に校舎を新築移転し「国学」に改称し、多くの人材を育て、身分の低い者の中からも官生として国子監に派遣し帰国後に登用していた。この時に尚温王が学生たちのために「海邦養秀」と書かれた自筆の扁額と直に勧学のための文章(勧学文)を授けている。前者は沖縄戦で失われたが、後者は国学訓飭士子諭 (こくがくししにくんちょくするのゆ) と称されて、現在に伝えられている。海邦養秀の扁額レプリカは首里高校に飾られており、首里高校の精神の拠り所となっている。

尚温王が15才から18才までに行われた改革で、まだ尚温王は若く、久米人の蔡世昌 (高島親方) の助言に沿ってのものだっただろう。尚温王は19才で死去してしまったが、この国師の影響は大きかったと思われ、存命であれば、もっと多くの改革ができただろう。る。1837年 (尚育3年) に国学に付設した首里聖廟 (しゅりせいびょう) がこの場所に建てられている。首里高校の校舎裏に当時の聖廟の石垣が残っている。 (写真下) 尚温王と蔡世昌 (高島親方) の死後は、国学は続いていたが、次第に、古い久米人優先の慣習に戻ってしまった。国学は、1879年 (明治12年) の廃藩置県 (琉球処分) には沖縄県庁の所轄となっている。なお尚温王の時代には、国学設立と同時に平等 (ひら) 学校の中等教育機関も設立している。

1880年 (明治13年) に、国学を首里中学校と改称し、1891年 (明治24年) に現在の首里高等学校の敷地に移転。1899年 (明治32年) に沖縄県中学校と改称、生徒数の増加により首里城内に仮教場 (後の分校) を設置。1911年 (明治44年) に分校が沖縄県立第二中学校として分離独立し沖縄県立第一中学校と改称。戦後、1946年 (昭和21年) にアメリカ合衆国統治下で首里赤田町三星クラブ跡に糸満高等学校首里分校として再開し、同年には首里高等学校として独立し、元のこの地に移転している。


内ヌ井戸 (ウチヌカー)

首里高校の石積擁壁の下にコンクリートで蓋された井戸がある。戦前には、この井戸水を利用して、パナマ帽子の原料の製造をしたそうだ。


電車の前 (デンシャヌメー)

現在の県立首里高校正門辺りが沖縄軌道の終点駅が置かれていた。

 1914年 (大正3年) までは交通の中心は人力車だったが、那覇・首里間の交通機関に路面電車が導入され、往来が便利になった。 那覇の通堂を起点に、当初の終点は観音堂付近だった32年後に当時の県立第一中学校 (現首里高校) 正門前まで延長された。1933年 (昭和8年) に新垣バスが運用を始めた事で廃業している。


大美御殿 (ウフミウドゥン) 跡

中城御殿の東側に隣接してあった屋敷で、元々は四代尚清王 (1497 - 1555年、在位1527 - 1555年) の世子時代の邸宅だったが、その後1547年に増築し、首里城内の女性の休養、産所、冠婚葬祭などの儀礼式を行う場所になっていた。首里城修理の際には、仮の王殿としても利用され、10代尚質王 (1629 - 1668年、在位1648 - 1668年) の冊封はここで行われた。 幕末期の1853年5月に来琉したアメリカのペリー提督一行が、6月に首里城を訪問した際、大美御殿を摂政邸と称して、宴会が催された。(下の絵はペリー一行のハイネが描いた宴会の様子)

1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、建物の一部に首里役所が置かれたが、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年(大正14) に県立第一中学校の運動場となり、沖縄戦後は、首里高等学校の校地として引き継がれている。


大市 (ウフマチ)

首里の公設市場は廃藩の頃、先日訪れた町端村の龍潭の西に在った首里市 (シュイマチ) だが、1914年 (大正3年) の電車導入計画で、終点の候補だった事で首里市は廃され、この場所に移された。この市場には、沖縄戦まで、マチソージー (市場掃除人) もおかれ、米、雑穀、肉、魚介類、雑器、雑貨、茶、呉服など全ての生活必需品が商われていて、市の周辺には、そば屋、てんぷら屋、今川焼屋などの飲食店もあり、大いに賑わっていた。夕方になるとトゥイマチ (鶏市) が開かれ、鶏や家鴨が持ち寄られ、鶏の鳴き声で騒々しさを増した。また盂蘭盆の市には、近隣の農村から供物用のヲゥジ (荻=甘蔗) が玉陵の石垣に所せましと立てかけられ、足の踏み場もないほどの喧噪な市だった。


下ヌ石門 (シムヌイシジョー) 通り

大美御殿敷地の東の小路は下の石門 (シムヌイシジョー) 通りと呼ばれていた。東には並行して走るもう一本の道の上の石門があり、対をなしていた。下の石門通りにはもう一つ説があり、中城御殿と大美御殿の間にあった通りともいうが、その通りは現在では存在しない。


甕ヌ坂 (カーミヌフィラ)

下の石門通りを北に進むと下り坂となり、首里大通りに出る。この短い坂道を甕の坂 (カーミヌフィラ) と呼んでいた。この坂道沿いに水甕を焼く窯場があったのでそう呼ばれたという。また、別の説では、 先程訪れた西の方にある内ヌ井戸 (ウチヌカー) を見下ろす位置にあるところから「井戸を見た坂」 (カーミヌフィラ) になったともいう。


石粉所 (イシグードゥクル)

甕ヌ坂の下りが始まる所、右側に小路が出ている。この小路を少し入った所には、水量の豊かな新井 (ミーガー) や内ヌ井 (ウチヌカー) などの水を使用して、王府時代のある時期に、この一帯に道路を作る際に使う石粉の材料を採取する石切場が存在していた。 現在では住宅地になっており、当時の面影は失われている。石粉所はこの後に訪れる岩小の根辺りまで広がっていたと考えられている。全盛期には石切場はもっと広範囲で真和志町西側一帯が石切場であったとも推測される。


真和志村学校所 (教護館) 跡

石粉所のすぐ東側には真和志村の学校所だった教護館が置かれていた。教護とは「おしえまもる」という意味で、周の管仲撰の治安百姓、主之則也、教護家事、父母之則 (人民の安んずるは君子の制にあり、内輪のおしえをまもるは父母の模範にある) から名付けたそうだ。


門小小路 (ジョーグヮースージー)

石粉所、教護館と小路を進むと路が狭くなり左に折れている。大正時代にはこの左に折れる路とは反対側にもっと狭い道があったそうだ。ここにあった民家が、近隣住民のために家の敷地に道を造り、移ってきた大市へ便利にいける様にしたという。この道を門小小路 (ジョーグヮースージー) と呼んでいたそうだ。


上ヌ石門 (ウィーヌイシジョウー) 通り

先程通った下ヌ石門の小路と対になるのが、上ヌ石門 (ウィーヌイシジョウー) 通りで、下ヌ石門の一本東にある道になる。現在の首里城公園入り口の交差点から池端大通りまでににあたる。今は道幅が広くなっているが、当初は幅員も現在の半分ほどの石道で、昭和初期 (昭和5~6年ごろ) にコーラル (石粉 イシグー) 舗装に変わっていた。を、かつてそう呼んでいました。 廃琉置県後には、かつての御細工所に働いていた旧王府士族が職を失い、手先の器用さを生かして、零落士族が手先の器用さを活かして、藍傘 (エーガサ) という琉球伝統の日傘作りや、黄金細工 (クガニゼェク) たちが、南鐐 (ナンジャ・ジーファー) などを作る店が数軒あった。また、大市 (ウフマチ) の入口という事もあり、茶舗、雑貨店、ヤマトゥドーフ屋 (油揚屋)、古着屋などもある町屋通りだった。商売する店が並び、食べ物屋まである庶民の通りとして親しまれていたそうだ。


久場下小路 (クバサスージ)

上の石門通りの町端寄りの北側から西にむけて小路がある。この路地は昔とは変わってしまっているのだが、久場下小路 (クバサスージ) と呼ばれていた。元々は「縁の所の小径」 (フチサスージ) だったのが変化したと考えられている。


岩小ヌ根 (シーグヮーヌニー)、安国寺跡

久場下小路の途中から、先程の真和志村学校所 (教護館) 跡や石粉所があった路地に向かって別の路地があり、そこの民家の塀の内側に蘇轍が生えた岩ある。岩小 (シーグヮー) と呼ばれることから、この一帯を岩小の根 (シーグヮーヌニー、小岩の辺り) と呼んでいる。この一帯には1674年 (尚貞6年) まで安国寺の寺域だったと考えられている。


中山劇場跡

久場下小路に戻り小路を進み、その終点には、昭和初期、私営の演舞場だった中山劇場が建てられていた。当時、沖縄芝居は最大の娯楽で、この劇場で数々の名作が演じられ、路面電車で那覇から観客が多く訪れ、遠くは、西原や浦添からも観客が押し掛け人気を博していた。昭和に入ってからは映画も上映されていた。昭和16年に火災のため焼失し、この劇場は廃業となっている。


真和志村屋 (マージムラヤー、真和志町倶楽部)

中山劇場跡の西隣は、真和志町クラブと呼ばれる真和志町の町民集会所がある。ここは戦前から真和志の村屋 (ムラヤー) だった。階段を上がるとゲートがあるのだが施錠されており、中には入れなかった。資料では、敷地内には赤瓦の建物があり、獅子頭が安置されているそうだ。旧暦8月の十五夜にはこの前庭で獅子舞が催され、村屋内では空手の模範演武が披露されたそうだ。


新井戸 (ミーガー) 跡

真和志町倶楽部の前の道は琉球王国時代には存在せず、大正の初め頃に新街道 (県道29号那覇北中城線) として造られ開通したもので、道幅も大通りとして広くとられている。この大通りの歩道上に井戸跡が保存されている。既に近くに内ヌ井戸 (ウチヌカー) があったので新しい井戸という事で新井戸 (ミーガー) と呼ばれていた。いつの時代に造られたのかは不明。現在では形も変わり使用されていないのだが、昔は水量も多く、地下に降りて行って水を汲む共同の降り井戸 (ウリガー) だった。首里台地は水の豊富な地域なのだが、池端町と真和志町は水の便の悪い地域だった。首里城稜線や龍潭などからの水脈の上にようやく掘り当てたのがこの井戸で、真和志町では、この新井戸が唯一水量の豊かな村井 (ムラガー) だった。この井戸のすぐ脇に新に井戸を掘って夫婦井戸にしても水量に心配はなかったそうだ。昔はこの県道を広げる際に工事で現在の様に保存されている。


龍潭 (魚小堀 イユグムイ)

上ヌ石門の北の端は龍潭通りの池端交差点になる。ここを通る龍潭通りを東に進んだ所に龍潭の池があり、別名 魚小堀 (イユグムイ) とも呼ばれている。1427年 (尚巴志8年) に建立された安国山樹華木記碑によると第一尚氏尚巴志王の時代の国相だった懷機が中国で学んだ造園技術で首里城外に池を掘り、安国山 (ハンタン山) をかさ上げした造った人工の池 (龍潭) で、樹華木を植え、ここで中国からの冊封使を歓 待する舟遊びの宴が行われていた。1942年 (昭和17年) の戦時下では、この池で鯉を養殖して市民のタンパク源にしたそうだ。

首里に来た時はいつもこの龍潭で休憩する。ここには人懐っこい猫の親子が住んでいる。ここに来る人達に可愛がられているのだろう、全く警戒心がない。特に子猫は近寄って来てかまってくれとせがんでくる。この他にも猫が何匹か住んでいる様だ。龍潭には本土ではあまり見かけないアヒル達がいる。本土の真っ白なアヒルはあまり見かけない。


龍淵橋 (りゅうえんきょう、リンミーバシ、観蓮橋)

龍潭の奥にももう一つ池があり、円鑑池という。この二つの池の間にはアーチ状石橋の龍淵橋が架けられている。1502年 (尚真20年) に築造されている。石橋の本体は琉球石灰岩で、勾欄はニービヌフニとよばれている細粒砂岩で作られている。 勾欄羽目には獅子、龍、麒麟、花、鶴亀、鳳凰、牡丹等の豪華な 浮き彫りの彫刻が施されていた。

龍淵とは「龍の棲む淵」の意味で、古くはこの橋から水蓮を愛でたことで、観蓮橋とも呼んでいただ。戦争で破壊されたが、1950年に勾欄を除いて一部修復されている。


安国山 (ハンタンヤマ)、第二小学校の山 (ダイニーヌヤマ)

龍潭の奥、龍淵橋の西側はうず高い林になっている。琉球王国時代、1418年から1427年の間に、この場所に龍潭を掘った残土を積み上げ嵩上げをして遊息の地として計画的に造林され、琉球全域の樹果木が植林されていた。龍潭も含めて首里城外苑の一部だった。この安国山には龍潭造成を記した安国山樹華木記碑が1427年(尚巴志6年) に建てられていた。「永楽丁酉国相懐機王命を帯び中国へ至り、社会秩序や治世の盛んなることを視 察し、また名山名勝などの荘重な様子を見て還る云々」とある。

後日、たまたま南風原町新川にある沖縄県公文書館を訪れた際に、安国山樹華木記碑のレプリカが玄関口に置かれていた。

明治19年には、この地に首里小学校女子部がおかれ、校地の拡大のため安国山は切りとられてしまった。大正12年には首里小学校女子部が首里第二小学校となったことから、この地は第二ヌ山 (ダイニーヌヤマ) と呼ばれる様になった。また沖縄戦で林も様変りし、昔の面影は無くなってしまった。


園比屋武御嶽 (スヌヒヤンウタキ)

この安国山 (ハンタンヤマ) には尚真王が1519年 (尚真43年) に建立したと伝わる園比屋武御嶽 (スヌヒヤンウタキ) があり、琉球国由来記にはソノヒヤブ御イベ、神名をモジロキヨウニギリキヨウと記されている。言い伝えでは、金丸 (尚円王) は、信仰していた伊平屋の勢理客村のタノカミ御イベ神名ソノヒヤブを、王城近くに勧請したいと考えていて、彼の死後58年にして尚真がソノヒヤブ神を勧請したとある。また、旧記遺老伝には昔一人の権臣が王に危害を加えんと計っていることを、この御嶽の神が告げ、未然に防ぐことができたとし、1672年 (尚貞4年) より、国王行幸の際は必ず祈願する霊験あらたかな御嶽とされていたとある。園比屋武御嶽石門は沖縄戦で破損され、復元後、守礼門を入った所に移設されている。


御細工所 (ウセークドゥクル) 跡

龍潭の西側には城西小学校があるが、この地には琉球王府時代、王府で使う日常の道具、家具類を製作する職人を集めた御細工所が1733年 (尚敬21年) に創設されている。琉球王由来記によれば、金奉行職の属下に金具師8名、表具師8名、削物師3名、彫物細工9名、縫物細工3名、糸組細工3名、玉貫細工9名、錫細工3名、 鞍打細工5名などが、 王府直傭の職人として働いていた。その西側、現在の城西幼稚園の場所には上の薬園も設置されていた。


御殿の内 (ウドゥンヌウチー)

現城西小学校西側に隣接し、学校の崖下一帯は御殿の内 (ウドゥンヌウチー) と呼ばれていた。この地には第三代聞得大君梅岳の御殿があったと伝わっている。その後、尚清の六男 尚苑国東風平王子の屋敷だった東風平御殿となっている。現在は住宅となっている。

この御殿の内には三つほど井戸があったと資料に書かれていたので、この辺りを探すと二つの井戸跡が見つかった。井戸の名称はわからないのだが、二つとも拝所となっているので昔からあったと思われる。


真和志町内には首里城の一部もあるのだが、そこにある史跡は首里城を訪問する際にまとめて訪問記に記載する予定として、これで首里真和志町の散策は終了。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 新 琉球王統史 06 宮古 八重山 尚清王 尚元王 尚永王 (2005 与並岳生)