「原譜」という言葉の存在自体がおかしくないですか?
作曲家の八木澤教司氏がこんなツイートをされていたので、共感してリツイート。
そしたら、このような返信がありました。
よくある質問。
こちらの質問者さんについて何か言うつもりはまったくありませんが、「じゃあこの場合は?」「だったらこの場合だと?」と永久に終わらない言葉遊びが始まる予感がする質問です。
この質問者さんは僕に質問をされたわけではないのですが、どうしても言いたかったのでこのように書きました。
まずこう考えて欲しいのです。
なぜコピーすることがいけないのか。
それについて答えが出れば、おのずとどのように把握し、行動すればいいのか見えてくると思うのです。
この場合は、コピーしたら作曲者や出版社にお金が一円も回ってこないからダメなんですよね。だから本来であれば利用する人数分の楽譜を購入する必要がありますが、ただ、吹奏楽の場合は「セット」としてスコアとパート譜が販売されているので、演奏者数に偏りがある吹奏楽団体では足りないパートが出てきてしまいます。トランペットのパート譜が1枚足りないから、もう1セット買いなさい、なんてこと言えるわけもないので、販売方法と団の現状を考えたらコピーをすることはしかたがない、という流れになるでしょう。
みなさん(僕も)普通に「原譜」という言葉を使っていますが、本来はこの言葉を使うこと自体が少々おかしいのです。原譜の対義語は「コピー譜」。コピーすることが前提になっているのです。
楽譜はそもそもコピーをして使うものではなく、買ったものをそのまま使い、使い終わったら回収して保管するものです。
プロのオーケストラは普通にこうしています。
なくしたらどうするの?とか声が聞こえてきますが、そもそも紛失すること前提に考えているネガティブさが違うと思うのです。
購入した楽譜をそのまま使うことで、楽譜を大切にする気持ちが芽生えると思うし、
何色も色ペンを使って音符が見えなくなるまで書き込むこともしなくなると思うのです。
楽譜はあんなに書き込むものではありません。授業のノートじゃないし、楽譜にたくさん書き込むことが熱心でもなければ良い演奏へのアプローチではありません。むしろ逆です。
楽器がなければ演奏できない。だから大切に扱う
この気持ちを持っている人は多いのに、
楽譜がなければ演奏できない。だから大切に扱う
この気持ちを持っていない人が多すぎると思うのです。
楽譜は基本、購入して使うものです。
購入して、何らかの理由で必要分をコピーすることはグレーゾーンですが、公にしなければ問題ないと思います(個人的利用が目的であれば、ということ)。でも借りてコピーして使うのはいかがなものでしょうか。
荻原明(おぎわらあきら)