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muffler

「根源的両義性・間身体性を参考にした,友達・SNSについての考察」

2018.05.14 04:46

2017年前期に取っていた講義「関係発達論」で提出したレポートを載せる

成績は95点だったからそれなりに間違ってない,かと,,

今と意見が変わってるところもあるけれど

つまり今はそんな〜に「友達と一緒にいる時は一人になりたいと思い」って気持ちは無いかな〜〜と

そして当時も今も一度も推敲してない文章なので,読みづらいかも・・


ちなみにだるま員(大学で所属している映画製作サークル「雪だるまプロ」メンバーの意)にしか通じない話だけど,この論文は「√-孤独」を書くベースになってます。あの映画のラストは意味不明な台詞だが,実はこういうことなんだ,と思ってもらえたらいいな。



[根源的両義性・間身体性を参考にした,友達・SNSについての考察](2017)


 私は,友達と一緒にいる時は一人になりたいと思い,一人でいる時は友達が横にいてほしいと思うことが多い。そのことについてまずは考察する。

 友達と会う時,最初は嬉しさを感じるが,段々と一人になりたくなる。喋る内容がなくなったり,相手をあまり見なくなったり,そっけない態度を取ったりする。相手が何かを喋っている時に他のことを考えてしまうこともある。しかし,いざ一人になった時は,今度は誰かに隣にいてほしくなるのだ。そうして私は友達と喋りたくなり,LINEといったSNSで常時複数人と並行して話している。その繋がりが無いとどことなく寂しくなり,友達と会いたくなるのだ。

 この矛盾は何だろうか。根源的両義性のうち,繋合希求性と自己充実欲求に照らし合わせて考えてみる。他人と繋がることで安心を得たいという性質が繋合希求性だ。私は一人の時,繋合希求性により友達を求める。しかし,それは結局自己充実欲求につながっている。繋がることで安心を得るのは自分のためである。私の場合,友達と会うことによる安心とは,ただ友達と会って喋っているだけでそれがまるで人生に意味を直接もたらしている気がすることだ。人と関わること以上に価値あることは無い,と私は思う。一方で,何にも配慮をする必要がない状態である一人になりたい,つまりパーソナルスペースを保ちたいという欲求もある。つまり,友達と会うという場面での自己充実欲求は二種類あるのではないだろうか。まず,繋がっていたいという欲求。次に,パーソナルスペースを保ちたいという欲求である。友達といる時は,前者の欲求は満たされている。だから満たされていない後者の欲求から,一人になりたいと思う。友達といない時は,その反対で,後者が満たされているから前者を追い求める。これは両義性ではないだろうか。

 また,友達と会っている時に一人になりたいと思う根源的な理由は他にもある。それは,今後も繋がっていたいという欲求のために生まれる危機感や配慮に疲れるから,ということである。

 我々は友達との繋がりを失いたくない。だから失わない様に,友達と接する時は様々な配慮や理性的な己の統制,将来の予測をする。そうすると次第にこの危機管理に疲れを感じる。それならばいっその事会わないでいる方が,将来の繋がりの可能性を絶ってしまう危険性がないのだ。いつまでも繋がっていたいから,繋がらない。非常に逆説的だが,これは真実だろう。一つの証拠を提示すると,我々は一人の時でも,全人類との関係が絶たれているとは思わない。友達や家族,知り合いとの関係は当然繋がったままで,その温もりの中で生きている。この温もりをそのままに保存するためには,本人に会わないでいることが一番良いのだ。相手に会わない間は,相手との関係を自らの思うままに思い込むことができる。しかし相手に会っている間は,相手との関係は自分では制御できない。そこに本物の相手がいるからこそ,その関係は意図しない方向へと動いてしまうのだ。だから,「いつまでも繋がっていたいから,繋がらない」という保身は最もなことであろう。



 一人でいる時は,LINEといったSNSで友達とチャットをし繋がっている。実際に会ってもほとんど喋らない人とSNSでは頻繁に話したり,実際に会って話すよりもLINEでの方がうまく話せたりすることはよくある話だ。今度はその理由を考察する。

 SNSの大きな特徴は,まず,好きなだけ考えてから返信できるということだ。例えばLINEだと,スマートフォン上に出る通知を見れば,「既読」をつけずとも相手のメッセージを読むことができる。Twitterであれば,そもそも相手が読んだかどうかわからない。私は実際,相手のメッセージに対しどのように返信したらどう会話が進むか,どこまでなら相手のパーソナルスペースに切り込んで良いのか,相手にとっての自分のイメージはどうありたいか,などといったことを考えてから返信をする。そのことにより,相手との関係を傷つけないことで将来も繋合希求の欲求を満たせるということと,自分のパーソナルスペースを守るということについて計画できる。自分が会話(会っていないが)によるその人との関係性の変化を計画できるのだ。それは対面での即時的な会話にはない,関係性の変化の制御である。

 そして,この制御が簡単にできる理由は,考えてから返信できることのほかにもう一つある。SNSの特徴の二つ目,相手が見えないという点だ。チャットでは,情動は文字からしか伝わらない。そこには間身体性は何もない。このことは,自分と相手との関係を制御するにあたり,とてもありがたいことだ。実際に相手と対面している時,我々は相手の表情と身体を見る。そこからは当然,間身体性を介して様々な複雑な相手の情報が我々に伝わってくる。退屈か否か,楽しいか否か,大人っぽいか子供っぽいか,気を使っているか否か,本気か嘘かなど。そして,その間身体性を知っているからこそ,我々は微妙な表情の差などで伝わる間身体的な感情を,理性で制御しようとする。例えば,怒っていることを知られたくない時は穏やかな顔をし,本当は心の底から笑っているのに冷静に見せたい時は冷めた顔をし,本気だが冗談に見せたい時は明るく笑った顔をつくる。この,相手に伝わる情動を制御することで相手にとっての自分のイメージと二人の関係を思い通りにしようとする配慮には,本当に大きなエネルギーが要るのだ。だから我々はSNSでの文字だけの会話に溺れるのではないだろうか。情動が文字からしか伝わらないならば,文字を制御するだけで良いのだ。しかもその文字を考える時間が用意されている。情動の交換と関係の構築を理想的に制御できるのだ。

 しかし,本当に文字だけに相手との関係を任せて良いのか。ワロンは,間身体性が赤ちゃんのうちから養育者と子どもの関係に大きな影響を与えるとした。間身体性がその二人の関係を,身体をこえて繋ぐのだ。それならば,間身体性なしには相手との関係はそれ以上深まらないのではないだろうか。二人がそれぞれ時間をかけて計画し概ねその通りに進む会話など,相手との関係の深まりという観点からすると,無意味ではないか。チャットの文字列に,本当の我々はいないのだ。私が相手にそうイメージしてほしい自分と,相手が私にそうイメージしてほしい相手しかそこにはいない。しかし,我々の繋合希求性が最も求めるところは,本当の,ありのままの自分を許容してくれる安心ではないだろうか。目は口ほどに物を言う,ということわざがある。相手の言葉と身体その全てを見て,聞いて,嗅いで,触れて,感じて,受け入れ合うということが,先に述べた他人と関わることの価値を生んでいるのではないか。逆に,だからこそ我々は怖いのだとも言える。本当の私が拒絶されてしまうかもしれないという悲しみ,苦しみに怯えている。だから先に相手を傷つける。「ヤマアラシのジレンマ」である。そして,その恐れと傷つけ合いから逃れられるのがSNSなのだ。

 傷がつかないように計画できるSNSと,傷つく悲しみと受け入れられる喜びに満ち満ちた対面での会話。私なら,後者を選びたい。何が起こるかわからない関係と,未だ感じたことのない感情があるからこそ,我々は生き続けていけるのではないか。関係発達論の学習では,根源的両義性は克服できないから,それを引き受けることが大切だとされた。人と繋がりたいという気持ちと,傷つきたくないという気持ち,それらを両方とも大切にする。そのことで,繋がる喜びと傷つく悲しみの両方を引き受け,それらに価値と新たなよろこびを感じることが出来る様になる。そうすれば,会いたいけど会いたくないといった葛藤を超え,人と対面し変動する関係と向き合うことの豊かさに感動することが出来るはずだ。


(了)