書く。書く。追いつく。(2023.3.4)
ああ、やっと追いついた。
誰かが期待しているわけでもなく。いや、誰か期待している人がいるかもしれない。
何のために、書くのか?
日記というのは、何か?
若い時に考えたことがあるが、自分なりの解答すら忘れた。
ただ、文学になりえる。そんなことはかすかに覚えている。
記憶的な日記は、歴史資料になる。手紙も同じ。
ただ、私のように自分の今の気持ちをや思考を、詩的に書きつけるのに、
何の意味があろうか。
それを公開することに、なんの意味があろうか。
この人は、自分が好きなのだな・・・・
そんな思いを、読んだ人に抱かせるにしかすぎない。
ただ、自分に向き合うことでしか、芸術は生まれない。
では芸術とは何か?
どのくらいの方が、身近に芸術があるか?
あなたこそ、芸術ではないのか?
私は、それを、個性と言う。
だから、評論家が語る、●●派的な枠にはめられたら、
その時点で何かが終わる。止まる。
止まること、それは死である。
だから、あまりに評論家やマスコミのいうことを鵜呑みにすると
心身は死ぬ。
しかし、民衆の自由ほど、管理する者にとり、怖いものはない。
だから、いつの時代でも、自由やその源泉の個性を抑え込もうとする。
娯楽が与えられ、深く考えさせないようにする。
深く考える者が異端となり、弾圧を受けてきた。
管理や締め付けが強くなればなるほど、また、反発する者も出てくる。
安定などこの世にない。
生命。つまり、生きていることは、実にフラクタルなのだ。
だから、ない安定を求めるのは無意味であり、そんな不安定で不確実だからこそ
何とか、下手なりにも、1日を平穏に送れていることに
満足しなければいけない。
それを、足るを知るという。
そして、いずれ、あの山の向こうに行ければ良い。
私は、ずっと、あの向こうに行くために、ひたすら書くだろう。
電車の中の風景。
みんなイヤホンをつけている。
大好きなアーティストの楽曲の中で、
一時の自由に閉じ篭るためにだ。
自分が降りるべき駅に電車が近づくと
ふっと深呼吸をして、イヤホンを外すだろう。
さあ、今日も、生きるために、演じねばいけないと。