日記を書きたくなった日
日記本の製本作業が思いのほかカツカツで日記を書けていなかった。小説を休んだ後もなにかしら書いていたけれども、それもストップしていた。そうして見えてきたのは書くことに執着していた自分。恥ずかしくなる。書くことそのものをやめたほうが良かった。
今日は保育園の親子散歩。子どもとその父母、先生方全員で普段子どもたちが散歩している線路沿いの公園や桜の小径を歩き、広場でかくれんぼをした後、公民館で遊戯をして最後は卒園式をしてもらった。子どもたちの気の衒いのない言葉と表情。先生方のあたたかな視線。ひかりのような時間だった。何度も泣きそうになった。今この日記を書きながらも泣いている。
親たちが一人ひとことずつ挨拶をする場面があったのだけれども、泣きそうになり「長い間お世話になりました」としか言えなかった。他の親御さんたちはみな、感じたことをきちんと自分の回路で言葉に変えていたのに。大切な人に大切なことを伝えられなくてなにが表現なんだろう。
最後、先生が『ちびゴリラのちびちび』を読み聞かせしてくださった。お父さんもお母さんも、ほかの動物たちも生まれたてのちびゴリラのちびちびが大好き。けれどもちびちびは大きくなってしまう。それでもみんなみんなちびちびのことを変わらず大好きでいる、というお話だった。痒い目をこするふりをして何度も涙をおさえた。公民館を出た後、子どもが「もう終わり?」と尋ねてきた。
帰ってからは荷物をまとめて新居へピストン輸送。約十五年分の日記やノートを段ボールに詰める。途中、パラパラめくってみる。偉そうなのになにも分かっていない、なにも考えられていない、今とそう変わらない私がそこにいた。けれどもそのままでいいよと思った。
これだけ日記を書いていながら、私はほとんどそれらを読み返さない。拙くて恥ずかしくなるから見返したくなかった。だからきれいな文章で綴れば、かわいくデコレーションすれば見返したくなるようになるのではと思いつつ面倒で手をつけず、ということを繰り返してきた。けれどもそれは違うと今は思う。技術ではない。今の私に過去の私を受け入れる度量があるかどうかの問題なのだ。だから私はこれからも率直に書くだけ。新居ではもっと取り出しやすいところに日記を置こうと思う。
夜、お風呂のなかでちびちびの話を思い出してだらだら泣く。あなたは祝福されている。書いても書かなくても。歌っても歌わなくても。過去も今も未来もまるごと祝福されている。そのことを私は死ぬまで大切な人に伝えていく。なにかを作るとしたら、その延長線上でしたい。この生活も、自分のことも大切にできるようなことをしたい。ただ今は眠っていたい。日記を書きながら。