八桁の思い出
真新しい机に腰を下ろし、床に届かない足を椅子の支えに固定する。
そうして愛用のペンを手に取り、先端を少しの時間だけインク瓶に浸してから、近くのメモ紙に軸を走らせ試し書きをした。
初めのうちはペン先が紙に引っ掛かるような感覚に慣れなかったけれど、コツを掴んでしまえばそう難しいことではない。
値段の分だけ滑らかな書き心地なのだろうと、ルイスは想像に思考を膨らませながら用意していた上質紙に文字を綴り出した。
ウィリアム・ジェームズ・モリアーティと、アルバート・ジェームズ・モリアーティ。
そして己の名前である、ルイス・ジェームズ・モリアーティ。
紙に乗ったインクが乾くまでじっと待ち、我ながら上手に書けたとルイスは口元を上げながら満足気に頷いた。
アルバートに貰ったウィリアムと揃いのペンは、モリアーティ家が贔屓にしている百貨店で購入したものだという。
大事な兄から贈られた、大事な兄とお揃いのペンは、ルイスが持つ数少ない宝物の一つである。
「僕の名前は字数が少ないから、書くのが楽で良かった」
乾いてインクの色が少しだけ変化した紙を持ち、目の前にかざすようにしてもう一度見る。
ルイスはウィリアムに文字の読み書きを教わり、アルバートに文字の美しい書き方を教わった。
初めの頃は文法こそ間違っていないけれど歪で今にも踊り出しそうな愉快な文字を書いていたのに、今では完璧主義のアルバートにも褒められるほど上手になったのだ。
自分の字が下手な自覚がなかっただけに、初めて書いた文字を彼に笑われたときはショックだったけれど、ルイスとて昔書いた己の字を見ればきっと笑ってしまうだろう。
ウィリアムとともに懸命に字の練習をして上達した今となっては、文字を書くことが楽しくて仕方がない。
孤児だった頃は読むだけでも大変で、書く方にまで気が回らなかった。
それどころか紙もインクも用意がなかったから、こうして自由に文字を書ける環境というのは素晴らしいことだと今でさえ思う。
昔の自分に言ってもきっと信じないはずだ。
そんな夢のような環境を生きているルイスは、ウィリアムに教わりアルバートに鍛えられた己の文字を気に入っている。
何もない自分だけれど、二人の兄が文字という形で教養と自信を与えてくれたような心地がするのだ。
そしてそんな温かい心地を得るために、ルイスは兄達の名前とついでに自分の名前を綴るのが習慣になっていた。
本当はもっともっと字を書きたいのだけれど、何を書いていいのか分からない。
だからひたすらウィリアムとアルバートの名前を綴るだけの毎日を過ごしていた。
「兄さん、この本は物語の話ではないんですね」
「ん?…あぁ、これは手記だね。作家の体験を書いたもの…そうだね、日記みたいなものかな」
「日記?」
「今日はこんなことがあった、という記録かな。記録というほど難しく考えなくても良いんだ。例えば、今日はルイスが美味しい紅茶を淹れてくれて嬉しかった、とかそういう日々の出来事を書いていくものが日記だよ」
「日々の出来事…」
ルイスは手に持った本の表紙を見下ろした。
今までに読んだ本は童話やファンタジーが多く、ウィリアムが読む本は研究論文がほとんどだ。
実体験を元にしたフィクションには馴染みがなくて不思議に思っていれば、日記という存在を教えられる。
過去に日記を認めるような生活を送ってこなかったから馴染みがないのも無理はない。
だがもしかすると、日記という存在は今の自分が求めているものなのかもしれないと考える。
ルイスは少しだけ思案してから、おずおずとウィリアムに日記について質問をした。
「…その、日記というのは作家でなければ書けないのでしょうか?」
「まさか。日記帳を用意すれば誰でも書いて良いんだよ。過去を振り返る良いアイテムにもなるからね」
「……」
「ルイス?どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
ありがとうございました、とルイスはぺこりと頭を下げてウィリアムの部屋を出た。
そうして自分の部屋に戻り、孤児時代に貯めていたお金とアルバートから「何かあったときのために」と渡されていたお金を集めていく。
日記帳はどこに売っていてどのくらいの値段がするものなのか分からないけれど、百貨店に行けば大抵のものは揃うとアルバートは言っていた。
値段だって、ウィリアムと一緒に行った本屋の中で見つけた一番高い本ほどは高くないだろう。
それならばルイスが持っているこのお金で十分事足りるはずだ。
だが、欲しいからと言って安易に買って良いものなのだろうか。
アルバートが言っていた、「何かあったときのために」がどんなときなのかがルイスには分からない。
日々生きるのに必要とは言えないものを買うのは贅沢なことだから、当てはまらないような気がしてくる。
それでもルイスは日記帳が欲しいと思う。
もっとたくさん字を書きたいのだ。
空っぽな自分がウィリアムとアルバートに貰った文字で二人と過ごした日々を綴っていくのは、さぞかし幸せなことだろう。
ルイスはその幸せが欲しい。
これは欲張りで贅沢なのだろうかと眉を寄せながら、かき集めた硬貨と紙幣を抱きしめる。
「日記…」
結局ルイスは日記を諦めきれず、けれど大事なお金を勝手に使って良いのかの判断もつかず、兄達に判断を仰ぐことにする。
日記帳が欲しいです、自分のお金で日記帳を買っても良いですか、と素直に尋ねれば、何を確認する必要があるのだと言わんばかりに了承されて拍子抜けしてしまった。
「い、良いんですか?」
「勿論だよ、ルイス。それは君が欲しいと思ったものを買うためのお金なんだから」
「僕も日記を書きたいから、今度の週末に一緒に選びに行こうか」
「はい!」
優しい兄達はルイスの希望を快く肯定してくれて、密かに緊張していた気持ちが凪いでいく。
安心したように笑おうとすれば頬の火傷が引き連れて上手く笑えなかったけれど、頬を撫でられることでそれすらも気遣ってくれる様子が伝わってきた。
「ルイスは日記が書きたいんだね」
「はい。その日あったことを書いておけば、いつか僕達の計画の役に立つかもしれないと思ったんです」
「そうだね、良い心がけだ」
「頑張って書きます」
嘘ではない。
本音はただたくさん字を書きたいだけなのだが、咄嗟に出た意見も決して嘘ではないから大丈夫のはずだ。
ルイスから見た日常がウィリアムの計画に役に立つかどうかは分からないが、記録として残しておくのは悪いことではないだろう。
アルバートにも褒められたことだし、ウィリアムのためにもきちんと日記を書くのだと、ルイスはそう決意しながら礼を言いつつ部屋を出る。
「ルイスが日記か…」
「何を書くのか楽しみだね」
「えぇ、本当に」
ルイスの決意を知らないまま、兄達は末っ子のいなくなった部屋の中で密かに感動していた。
何も欲しがらない末っ子が初めて「欲しい」と声に出したのだ。
特にウィリアムは今までともに生きてきて初めての経験であり、しかもそれを叶えられる環境にいることに感謝すらしている。
内向的で消極的な弟が、ようやくこの生活に馴染んできていることが嬉しい。
日記という存在すら知らなかった弟が、たくさんのことに触れて成長していくことが何より嬉しい。
二人の兄がじんわり感動を巡らせていることなど知らないまま、ルイスは週末に手に入るだろう日記帳に思いを馳せていた。
そうしてやってきた週末。
三兄弟が足を運んだ百貨店の文具売り場で、ルイスが気に入ったのはダイヤル式の鍵が掛けられる頑強な日記帳だった。
いくつかの数字を組み合わせることで鍵を持ち歩かずともロックを掛けられるという、秘密を主体にしたそれ。
ルイスが選んだのはその中でも特に解錠の難易度が上がる、八つのダイヤルを組み合わせた日記帳である。
「ルイス、本当にこれが良いのかい?」
「書くたびに鍵を開けるというのは手間になるんじゃないか?」
たかが日記なのに面倒だろう、と暗に言ってくるウィリアムとアルバートを見上げ、ルイスはふるふると首を振って否定する。
僕が書くのはただの日記ではなくいつか兄さんの役に立つ日々の出来事なのだから、そう簡単に誰かに見られてしまっては大変なのだ。
拙いながらもそう伝えれば、なるほど道理は通っている、とひとまず兄達は納得する。
「"あの日"…兄さんの誕生日の前日のことも、書き記しておきたいんです。だから、万一にでも誰かに見られてはいけません」
ルイスはまるでもう自分の物であるかのように日記帳を抱きしめ、真っ赤な瞳でウィリアムとアルバートをじっと見つめる。
この日記にはルイスが見てきた日々を赤裸々に綴るのだ。
今世話になっているロックウェル家の人間には絶対に知られてはいけない秘密を書くのだから、八つの数字を組み合わせて鍵を開けなければ読むことが出来ない頑強な日記帳でなければならない。
書くたびの手間など惜しむまでもないと、ルイスはぎゅうと日記帳を抱きしめる。
「…それとも、そういったことは書かない方が良いですか?僕、ちゃんと大切に管理します。誰の目にも届かないところに隠すし、万一見つかっても鍵があればそう簡単には読めません。八桁の鍵ならきっとすぐには分からないですし、えっと、時間で言うなら」
「0から9までの数字が八桁なら10の八乗、ダイヤル式で全て試すなら一週間以上はかかるだろうね」
「それだけの時間を費やすのは手間だろうから、ほとんどの人間が諦めるだろうな」
「だったら僕、やっぱりこの日記帳が良いです!」
大事にするから、誰にも見つからないようにするからこれが良い、と珍しく熱心なルイスの様子を見て、元よりさほど拒否するつもりもなかった二人は大きく頷くことで同意する。
その様子を見たルイスは嬉しそうに顔を上げ、抱いていたそれを前に掲げてキラキラした瞳を向けた。
二人に貰った文字であれば当たり障りのない日常を書くのもさぞ楽しいだろうが、それでもルイスにとってあの日の出来事は特別だ。
唯一大事な人のために覚悟を決められたこと、二人きりだった世界が思いがけず三人に広がったこと、文字通り人生が変わった第一歩目の日。
大切な日だからこそ、あの日の出来事を自分の文字で書き綴りたかった。
「"あの日"のことを書いたら、毎日日記を書きます。大事に書くので、いつかこの日記が必要になったらお二人にも見せますね」
それまでは僕だけの秘密にするのだと、ルイスは財布を片手に日記帳を会計へと持っていった。
アルバートがお金を出そうとすれば「自分で買います」と拒否されてしまったのだから、二人の兄は少し離れた場所で小さな背中を静かに見つめていた。
「ルイスが書く"あの日"はどんな一日になるんでしょうね」
「あの子の覚悟を、僕達は今尚知らないからな…知れる日が来るのはいつになるだろうか」
「早く知りたい気持ちもありますけど、なんとなく怖い気持ちもありますね」
ルイスの考えを知ったら決意が鈍ってしまいそうだ。
ウィリアムがそう呟いたのを聞きながら、アルバートは戻ってきた小さな弟を出迎えた。
綺麗にラッピングされたそれを変わらず抱きしめながら、ルイスは早速今夜書くのだと張り切っている。
そんな弟を横目に、ルイスが大切なことを書いてくれるなら僕は気ままに日常を書いていこうかな、と鍵の一つもついていないごくごく一般的な日記帳をウィリアムは手に取った。
同じメーカーが出している、鍵がついていない以外はルイスと同じものだ。
お揃いですね、そうだね、と話している弟達を見て、アルバートも書くのを止めていた日記を再開するのも良いかもしれないとのんびり考えていた。
余談ではあるが、当然ルイスに関わることにプライバシーという概念が存在しないウィリアムは、その日記帳をこっそり覗き見ようとした。
八桁のパスワードなど、ルイスの性格を考えればいくつかの検討がつくからウィリアムにとっては無いも同然だ。
ゆえにルイスが料理長の手伝いをしている最中に部屋へ忍び込み、日記帳を覗き見ようとしたのだが、驚くほどに見つからなかった。
死角の少ないこの部屋の一体どこに隠しているのか不思議なほど見つからない。
一週間もの期間を探し続けたけれど見つからず、かと言ってルイス本人に尋ねるわけにもいかないのだから困ってしまう。
そんな日々をヤキモキ過ごしているとついにウィリアムはイートン校へと入寮することになり、ますますルイスの日記を見つける機会がなくなってしまった。
ウィリアムが、いつか必ず、と決意を固めていることを知らないまま、ルイスは今日も嬉しそうに鍵を開けて楽しく日記を書くのだった。
(それで、八桁のパスワードは何にするんだい?)
(内緒です。いつか必要なときに見せるので、それまでは僕が大事にしまっておきます)
(兄さんだけじゃなく僕にも秘密なのかい?)
(いつか見せますよ)
(今は?)
(今は…内緒です。兄さんにも内緒です。でも僕の毎日は兄さんと一緒だから、別に珍しいものはないと思いますよ)
(それは…そうだけど)
(ウィリアム、ルイスを困らせてはいけないよ)