「私」から自由になるⅡ
子供は、生まれて数年の間に、膨大な量の情報をスポンジのように吸収します。
例えば数年で複数の言語を身に付けることでも明らかでしょう。
マインドが空っぽで無垢な状態では、自然に情報を吸収しますが、情報でいっぱいになればなるほど、新しいことを吸収するのは難しくなります。
人間の子供は、動物の子供よりも長い間無力です。生き残るためには周囲の人の世話に頼らざるを得ません。
幼少期のプログラミングは基本的に、私たちが自分を守るため、安全でいるために学習した行動パターンから作られています。
このパターンがこれほどまでに理不尽な力を持っているのは、生存本能と結びついてるためです。
生き残るためには周りに合わせ、人を怒らせてはならないと感じる人や、忙しく何かをしていなければならないと感じる人もいるでしょう。
それらには無数のパターンがありますが、どれも合理的なマインドにとっては意味をなさないことばかりです。
さらに感情が伴えば伴うほど、生き残りのパターンは私たちの振る舞いを左右することになります。
こうしたパターンから行動するとき、私たちの行為は自動的で、無意識的で、それは行為というより、反応と言えます。
反応ですからこうした行動には選択の余地がありません。それが悲劇的なところです。
なぜならその反応は、自分自身の古い傷からやってくるからです。
そのため多くの場合、そうした行為はその場に全くそぐわないか、少なくとも過剰反応です。
どうしてそういう反応をしたのかというマインドの言い訳に自己同化している限り、自分のなかに存在している問題の根を見ることができません。
自分が似たような状況に繰り返し、はまり込んでいるのを見ることができるかどうかは、成長や成熟の度合いによります。
これによって私たちは、状況に対し、自分の内側を見ることで、自分の行動に責任を取り、ヒーリングのプロセスを始めることができるのです。
人間としての成長や進化は、こうした古い傷に光と意識をもたらし、そこから学ぶところからやってきます。
傷ついた自分の一部をこうした光の下で見ることができればできるほど、人に対しても同じことができるようになるでしょう。