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ZIPANG-7 TOKIO 2020日本遺産~忍びの里 伊賀・甲賀~甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子

2023.03.12 17:55


          甲賀流忍術


前号では伊賀流忍術を中心にご紹介いたしましたが、本号におきましては忍術の二大流派と言われている甲賀流忍術について、アーカイブリンク記事を含めご紹介したいと存じます。

                

奥の細道 山形 立石寺(山寺) 松尾芭蕉と曾良 像 松尾芭蕉は伊賀忍者なのか?

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声      元禄2年5月27日    芭蕉

曾良は奥の細道のあと、芭蕉と別れ幕府の巡検使として長崎県壱岐に渡り、旅の途中で病に侵され、日本に帰りたいという本人の遺言により本州が眺められる地に葬られたました・・・高台の木立の中に消えそうな文字で曾良とだけ書いた木の白い墓標…淋しそうに立っていたのが今も、瞼を閉じると見えてくるようです。


八戸三社大祭 内丸親睦会 『石川五右衛門』


大阪城真田丸 図                          徳川美術館 蔵


真田十勇士とは戦国末期、信州・上田城武将「真田幸村」の家臣で、大坂冬の陣、夏の陣に、大坂方のために大活躍した十人の勇士。その武勇伝は明治末から大正初期にかけて講談本「立川文庫」によって創作された。

甲賀忍者でずば抜けた忍術の持ち主「猿飛佐助」、伊賀忍者で百地三太夫の弟子「霧隠才蔵」怪力の「三好清海入道」弟の「三好伊三(いさ)入道」鎖鎌の達人「由利鎌之助」や、筧(かけい)十造、海野六郎、望月六郎、穴山小助、根津甚八、十勇士はそれぞれ得意の武芸で徳川方と戦ったのであった。

昭和20年代、悪ガキたちは、カバヤ文庫から発刊される十勇士の物語を胸躍らせながら読んだものでした。


忍者ってかっこいい?

忍者って、本当にいたんだろうか。 漫画や、映画、そして小説などによく出てくるし、スーパーマンの様に人間ばなれした活躍をするが、本当にそんな事ができたんだろうかと疑問がうかぶけど、実際はどうなんだろう。


我々のもっているイメージと、現実はずいぶん違う様である。忍者の行動は、遊びやスポーツではない。生活がかかっているだけではない。その一つ一つの動きには命がかかっている。失敗は一度たりとも許されない、真剣勝負の連続で、張り詰めた緊張の中での動きが要求される。


そのため、つね日頃から厳しい訓練と、その訓練に耐えるだけの頑健な身体である事がまず第一で、その技も、術も、人に見せるものでもなく、唯ひたすらに常に自分自身を切磋琢磨して来たるべきときに備えるという、まったく割りの合わない仕事である。


「忍術は国家を安平にして大敵悪党を滅ぼす術なり」又、「音もなく、臭いもなく、知名もなく、勇名もなし、その功天地造化の如し」ともいわれる。


様々な忍者の流派

忍術の流派、甲賀流、伊賀流はよく知られているが、それだけではない。日本全土には、四十九流派もあったと言われている。


その内訳は、北から

青森県「中川流」、山形県「羽黒流」、新潟県「上杉流」「加治流」、栃木県「福智流」「松本流」、長野県「芥川流」「青木流」「戸隠流」「伊藤流」、山梨県「甲陽流」「武田流」「松田流」「忍甲流」「忍光流」、神奈川県「北条流」、愛知県「秋葉流」「一全流」、福井県「義経流」、三重県「理極流」「辻一務流」「服部流」「滝流」「義盛流」「内川流」「滝野流」「沢流」「伊賀流」、滋賀県「甲賀流」、奈良県「飛鳥流」「秀郷流」「九州流」「蒲生流」「楠流」、和歌山県「名取流」「新楠流」「雑賀流」「根来流」「紀州流」、岡山県「備前流」、広島県「福島流」

などなど、まだ他にもあった。


それぞれの流派は、主君の為に又それぞれの地域の発展の為に活躍をしていたのだが、甲賀、伊賀ほどに存在した事すら知られていない。


忍者の活躍自体は、表街道で派手に立ち回るものではない裏稼業の様なもので、歴史上に記録として残ったり、名前が残ったりしないのが本来の姿なのである。たまたま甲賀と伊賀は、都が京都であったのと戦国の時代、天下を争った武将「信長、秀吉、家康」が全部、愛知県の出身でちょうどその中間に位置し、交通の要衝であったので、歴史上の物語に登場する場面が多く、甲賀、伊賀が脚光を浴びる事になったのである。


忍者にスターはいない?

甲賀流といえば伊賀流と並ぶ忍術の流派だが、忍者個人の名前は殆ど知られていない。本来、忍者はその存在自体知られたらまずいのである。

名前が有名で、顔が売れていては忍者としては失格なのだが、甲賀は独自の自治体集団を形成していた。甲賀武士53家と呼ばれ、その他、その地で指導的な役割を果たしていた。

そのうち主だった人たちを甲賀武士21家、また16家とも呼ばれた。甲賀地区内で起きた物事は、すべて合議制で決するという厳しい掟が作られ、その掟を破ったものは親子、兄弟と言えども厳しく制裁すると決められ、絶対服従することになっている。

事が起きたらまず「野寄り合い」と称してそれぞれの代表が定められた場所に集まり協議して決める。こういった組織を「郡、中、総」と呼び、ずっと長い期間守られてきた。その組織が忍者集団である。

誰がトップになる事もなく、又抜け駆けを絶対に許さない。決められた事はすべて団体責任で行動する。すべて、その配下にいる甲賀の民、百姓の幸せと甲賀はもとより、近江の国の発展に大いに寄与した。

甲賀は一つを合言葉に滋賀県で唯一琵琶湖に面していない郡として独自の動きに徹したので、忍者個人の名前は殆ど浮かんで来ないのである。


消えていく忍者

かつて、忍者は戦いの武器だった。

およそ500年前、日本がまだ国家統一をはたしていなかった戦国時代(16世紀)群雄割拠の世の中から最初の忍者が生まれた。忍者は特殊な知識、特に医学知識において優れており、スパイのように身を隠して敵地に侵入し、敵に接近。場合に応じて敵をたおす様、特殊訓練を積んでいた。


彼らの医学知識は、時に毒を調合し、痕跡なく敵をたおすことに役立ち、また多くの時代劇に出てくるように、多くの忍者が薬屋を隠れ家にしたり、薬売りの行商をしてカムフラージュしていた事は今日ではよく知られている。


忍者がこのような特殊な使命を担っていたがため、内乱が終息し、日本全土に変化の兆しが見られるようになると、活躍の場を失う事になり、実際的な存在ではなくなってしまう。その後、以前とは異なった分野で特技を生かしながら生き残った忍者もいたが、それでも徐々に減少し、消滅するにいたる。


今日では忍者は単なる過去の話でしかなく、映画製作のネタになったり謎めいた人物として人々の関心を誘うばかりである。


忍者は週休二日制?

単純に言うと、「忍者」という言葉は「忍びの者」という意味で「忍術」は忍者の用いるテクニックの事である。従って、忍者が用いていた様々な技法や細工は、基本的には隠密活動中、人目につかないようにする目的をもっていた。同様に、忍者の武器や道具も攻撃用ではなく護身用だった。


忍術は基本的に火、水、木、金、土、を用いる五つの忍法から成り立っている。このリポートでは、この五つの忍法の詳細については割愛させていただく。しかし、ちょっと頭を働かせば、忍者が敵の目をそらせるために火を使い、いといろな道具を用いて水上または水中を歩き、木立に隠れ、金属の道具を使い、土の中に隠れたりしていたことは察しがつくだろう。以上、火遁の術、水遁の術、木遁の術、金遁の術、土遁の術の五遁の術はよく知られている。


ここに一つのジョークを紹介しよう。

カレンダーには日、月、火、水、木、金、土、と漢字がならんでいる。この漢字は、ひ、つき、ひ、みず、き、かね、つち、とも読む事ができる。とすると忍者の五つの術は火曜日から土曜日までの一週間の内の五日に相当し、月曜日と日曜日は忍者の休日だったという事になるか。

忍者、やはり人間、所詮鉄人ではなかったのだ。


忍者が育てたくすりの里

甲賀忍者集団53家の筆頭格望月出雲守家(当屋敷)の周辺は日本の東西の往来を支配する戦略的な要衝であった。争いはしょっちゅう起きる。生き延びるには、どこの勢力とどのようにかかわり、また今、自分たちがどのような立場におかれているのか、今後どうすればこの地域の民の安全と発展が得られるのかなどについて53家の親分衆が協議する。情報が要る。そこで諜報活動する集団、それが忍者である。



山伏姿で加持祈祷してお守り札や薬を売り歩き、諜報活動をする。当然道中、病にもなるし、また道にも迷う。そこでいろんな知識が必要になる。天文学、科学、医学、薬の製法等々...。そのように、甲賀忍者が各地から持ち帰った薬の処方、製法が現代の甲賀の里を薬の町に育てていったのである。


甲賀の自然は薬草の宝庫

「薬売り」と聞いて連想するのはどうやら越中富山のほうがポピュラーになってしまった。でも、元祖は滋賀県。有名な万金丹は、はるか慶長年間に甲賀の薬僧が処方したものだ。


「茜さす紫野行き標野行く」といえばあまりにも有名な万葉の恋の歌。額田の王と大海人皇子が詠みかわしたのは天智天皇に連れられて狩りにきたときのこと。でも、実は狩りばかりでなく、蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)の豊富な薬草を求めてのことでもあった。また伊吹山は平安時代の初めには、国内でも有数の薬草の自生地として知られていた。

滋賀県 伊吹山


織田信長が薬草園を開いたのは有名な話。信長は、ポルトガルの宣教師に3000種もの薬草を栽培させたと伝えられ、今も250種近くが自生している。甲賀で製薬業が発達したのは、忍者が持ち帰った知識に加え、伊吹山から甲賀まで昔から薬草の宝庫で、土壌や気候が適し、成分も富山や信州の薬草より高いし、それに都に近いので早くから薬の知識も文化も進んだためと考えられる。


伊勢 浅熊岳

当甲賀流忍術屋敷の当主「望月家」も明治の初めまで伊勢の浅熊岳の明王院の神札と万金丹などの薬を売り歩くことを生業としていた。それが忍びの者の隠れ蓑になっていたのである。現在も甲賀地方には薬関連の工場が数多く見られる。


忍びの旅と言葉の壁

甲賀と言えば滋賀県の最南端で、三重県の伊賀と隣り合わせの位置にある。しかし例え隣でも、戦国時代は国が違う。国ざかいには関所が設けられ検問されていた。しかも世の中は荒れていて、法があって無いような時代。文字どおり切り捨て御免、何がおきても泣き寝入り、そんな時代。


浪速(大阪)、都(京都)、信長、秀吉、家康、の本拠地、尾張、三河にも甲賀忍者に通じる仲間をおき、その仲間との連絡を密にして常に情報を得る。その間の行き来の道中は殆ど口をきかずに往来する。と言うのは当時はまだ全国共通の言葉が確立していなかったからだ。たとえ隣でも国が違えばお国なまりが極端で、ウッカリ気を許して口をきいたら、すぐによそ者ということがバレてしまう。


仲間からの連絡を受けたらまっすぐに帰ってくる、帰ってこなければ仕事にならない。身分を知られずに旅するのは当時一番困難だったようである。


伊賀忍者の歴史

忍者の流派は全国に49流派あったと言われる中で、甲賀と並ぶ伊賀は国は違うが地理的にはお互いに隣接していた。


甲賀忍者集団53家と言われる親分がいて、その下にたくさんの配下を従える「郡中総」と呼ばれる団体行動をしていた甲賀流に対して、伊賀流は一口に伊賀流と言っても、服部、内川、滝、沢、その他主だった流派だけでも9流はあるということで、つまり一匹狼のような流派がひしめきあっていた。

そのなかで半蔵で知られる服部一族が又ひとつの流派を形成していた。


伊賀も甲賀も共に尾張、三河と都・京都との中間地点に位置し、戦略的に重要な拠点であった。映画や小説では伊賀、甲賀のどちらかが善玉で、どちらかが悪者として登場することが多いが、本当は大違いで両者の仲は良かった。現に、信長が本能寺の変であのような最期を遂げた時、家康がわずかな手勢とともに慌てて大阪・堺から三河まで、命からがら逃げ延びることができたのは、伊賀と甲賀の協力があってこそだった。勝手の分からない山道を夜通し歩くのだから。


伊賀と甲賀の忍者が協力して助けたあの時、どちらかがその気にならなければ家康を討つことは可能であっただろう。とすれば徳川の時代は無かったということになる。

歴史とはちょっとした行き違いで大きく変わってしまうものである。


忍術と忍者の発生

忍術はお金儲けのためでも、名声を高めるためでもなく、また、忍器は人に自慢するために作ったものでもない。ただ戦禍を最小限にとどめ、外敵からの自衛のために編み出された戦術である。


記録の一部を見てみると、「忍術とは国家を安平にして、大悪党をなくす術なり」といい、また、「音もなく嗅もなく智性もなく勇名もなし、其の巧天地造化の如し」「この道私利私欲を用いるときは、大なるは国を亡し、小なるは家を亡す」と戒めている。


顔も売れ、名も知れ渡った者は忍者としての価値はないのである。このように忍者は、常に「正心」第一に心がけ、それを堅持するため生涯不断の猛訓練を重ね、忍耐強く努力したのである。

忍術書 万川集海(ばんせんしゅうかい) 


伊賀甲賀四十九流といわれる忍術の諸流を集大成した忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」

全22巻11冊におよぶ。著者は甲賀隠士藤林保武。


武器と道具

忍器のいろいろ

忍器と一言でいってもいろいろな用途・目的のものがある。

その代表的なものを紹介しよう。


水蜘蛛(みずぐも)


忍者の水上歩行器として知られている。ドーナツ状に板を組み合わせたもので、真ん中の敷き皮に股を挟んで足には水かき状のゲタを履き、櫂を使って漕いだ。


手裏剣


短刀形、風車形、釘形、針形、槍の穂形などあるが、忍者が主に使ったのは、八方手裏剣、十字手裏剣、せんばん(糸巻き剣)といった風車形のものと、針形のものである。


なわ梯子


梯子の種類はとても多く、主なものを上げると、飛び梯子、蜘蛛(くも)梯子、雲梯子、縄梯子、かぎ梯子、高梯子などで、まだその他にもいろいろとあった。


ゲタ


水蜘蛛用のゲタ。裏側に一枚の板が付いており、開いたり閉じたりし、水中でより速く動けるように工夫されている。


忍びくま手(忍び熊手)


竹の管に麻縄を通し、一方の端にかぎ爪を付けたもので、竹の管は普通5,6個であるが、8,9個のものもあった。麻縄を強く引くと1本の長い竹が出来る。どこにでも自由に引っかける事が出来た。


忍者の知恵

忍びいろは

忍者が使ったといわれる暗号の一つに「忍びいろは」がある。いろは文字は、「い」に始まって「ん」まで四十八文字ある(「ゐ」「ゑ」も含む)。それを、七つのへんと、七つのつくりによってできる文字で表す。


当然、漢字の様に見えるわけだが、漢字でないものも含まれている。これを手紙をやり取りする双方で事前に申し合わせておき、暗号で連絡を取った。しかし、申し合わせのできていない時は、密書を持ち運ぶ者に奪い取られないように十分に注意させ、普通の文字で書いた。


時には三つに分割して、三人の忍者に運ばせたりもした。誰の筆跡かがばれて困る時には、筆を糸で天井からつるして、癖が出ないようにして書いた。


密書を運ぶ時も、編み笠の内側の頭が当たる台座に挟んだり、「元結い通信」といって、頭の髪の毛を束ねるために使う元結いを密書にしたり、着物の襟に縫い込んだりして、体から離さないようにしていた。

また、卵の殻とか、くるみの殻の中に入れるなど、敵にわからないようにして運んだ。


猫の目時計



忍者は時間を知るために砂時計を持ち歩いていたが、それ以外にも時間を知る方法を知っていた。「猫の目時計」といって、猫の目の開きぐあいによって時刻を知る方法である。

猫の目玉は、夜明けの頃と日暮れの頃、昔の時刻でいうと明け六つ、暮れ六つにはいっぱいに開いていて丸く見える。


五つ、七つといわれる午前8時頃と午後4時頃には、卵形ぐらいに細くなる。四つ。八つといわれる午前10時頃と午後2時頃には、卵形がだんだん細くなって、柿の種ぐらいになる。


九つといわれる正午頃にはいっそう細くなり、針のように一直線に見える。猫の目の習性をよく知っていたので利用できたのであろう。


さまざま武術を身につけ、火薬、天文、気象、動植物の生態など、あらゆる知識を駆使していたのが忍者である。


逸話の忍者

●忍者といわれた逸話の人物

はたして、どのような人物が忍者として活躍していたのだろうか?

まさに「影」となり、決して表舞台には出ることのなかった忍者たち。「黒装束を身にまとい、呪文を唱えながら九字を切り、煙と共に消えていく…」そんなイメージを思い浮かべる人も多いだろう。


しかし、実態はどうだったのか。長い歴史の中で「忍者だったのではないか」といわれてきた人物を探ることで、「真の忍者像」に迫る。


松尾芭蕉(まつおばしょう)



江戸時代の俳人で伊賀国上野の生まれ。忍者だったかもしれないという説が多い人物の一人である

その根拠となる話に「奥の細道」がある。弟子の記述と食い違う点が多いことは有名である。松島を目的としながら、そこでの活動はほとんど無く、旅の目的は伊達藩の探索だったのではないかとされている。


当時、幕府を脅かすほどに力を持っていた伊達藩に、幕府は日光東照宮の改修工事を命じたが、藩の経済状態を探索してから命ぜられたという。その探索役が芭蕉であったのではというのである。


事実、伊達藩に入るまでは途中の宿場に長く滞在して句を詠んでいるが、伊達領内に入るとほとんどかけ足で通り過ぎている。そして伊達領内を過ぎると元のペースに戻っている。芭蕉が伊達領内を出て約一ヶ月後、工事の詳細が伊達藩に明らかにされた。


石川五右衛門(いしかわごえもん)



桃山時代の大盗賊で、釜ゆでにされたという話は大変有名だが、本当に忍者だったかは、残念ながら史料には残っていない。


明治末期に編さんされた「大日本人名辞典」より~石川五右衛門は、三好氏の家臣石川明石の子、身体長大にして力は三十人力であったと伝えられ、十六歳の時主人の宝蔵に盗みに入り、三人に斬り付け逃げた。


その後も各地を転々としながら盗みを続けていたが、文禄の末に秀吉の命で捕らえられ、釜ゆでにされた。その際に詠んだのが、「石川や浜の真砂子はつくるとも世に盗人の種はつくまじ」~他の文献を見ても、実在した人物であり事実を元にしているようである。

歌舞伎、浄瑠璃、読本などに取り上げられ、義賊として江戸時代の庶民の間で親しまれた。


猿飛佐助(さるとびさすけ)


甲賀忍者として、最も有名で最大の人気者は猿飛佐助である。明治末期に刊行された「大日本人名辞典」に紹介されている内容を一部紹介する。忍術家、名は幸吉。森備前守の浪士、鷲尾佐太夫の子とあり、真田幸村に従って功績をあげて行く。忍術は、戸沢白雲斎に教えられたとある。


また二世として、近江斉藤氏の家臣で元井辺武助が登場する。「万川集海」に出てくる下拓植(現伊賀町)の木猿、子猿という説や、真田家と同族といわれる信州諏訪出身の忍者が、真田幸村のもとで「猿飛」の異名で活躍したと書くものもある。


これらは定かではないが、否定する根拠もない。明治四十四年頃から、大阪の講談創作グループが刊行した本が引き金となって、猿飛佐助は庶民の人気者となり、漫画にテレビに大活躍するようになった。

(甲賀流忍術屋敷 甲賀望月氏本家旧邸 より)詳細は本文にて・・・



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(順不同・敬称略)

油日神社
〒520-3413 滋賀県甲賀市甲賀町油日1042

甲賀市観光協会
〒520-3308 滋賀県甲賀市甲南町野田810番地 TEL 0748-60-2690

甲賀流 忍術屋敷
〒520-3308 滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331番TEL0748-86-2179

一般社団法人 岡崎市観光協会
〒444-0045 愛知県岡崎市康生通東2丁目47番地 電話:0564-64-1637

文化庁
〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。

油日神社全景 楼門 永禄9年 棟梁 甲良五左衛門尉 回廊は楼門と同時代の建立
〔国指定重要文化財 〕


油日神社 回廊

国の史跡ともなる境内には、南北に本殿・拝殿・楼門 が一直線に並び、楼門の左右から廻廊(かいろう)が延びています。廻廊が取り付く中世の神社建築は、滋賀県内でも当社以外にありません。いずれも規模が大きく意匠に優れ質も高いもので、中世の神社景観を今に伝える貴重な文化財です。


「甲賀の総社」油日神社

由来

油日神社は、南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座し、明治時代までは「油日大明神」と称しました。

『 日本三代実録( にほんさんだいじつろく) 』によれば、平安時代の 元慶( がんぎょう)元年(877)に「油日神」が従五位下を授かっており、これ以前から存在することがわかる古社です。古くは油日岳を神体山としたとされ、山頂には今も岳神社がまつられます。


甲賀武士の崇敬

中世になると、一帯に成長した武士の崇敬を集めました。現在の本殿造営のための奉加を記した、 明応( めいおう) 4年(1495)の「油日御造営御奉加之人数」には、杣谷を中心に190にのぼる武士や寺庵から多くの寄進がみえています。 戦国時代、上甲賀を中心とした武士は、地域の支配・運営のため同名中や郡中惣を構成しますが、油日神社はその拠り所となり、「甲賀の総社」と呼ばれ、信仰圏は広く郡域に及んだとされます。油日祭りのうち5年に一度行われる 頭殿 (とうどう) 行事(奴振)はその歴史を伝えるもので、境内は「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして国の史跡に指定されています。


豊かな文化財と伝承

長い歴史をもつ油日神社は、社殿をはじめとした多くの文化財と、豊かな伝承に彩られます。なかでも室町時代の「油日大明神縁起」に語られる 聖徳太子( しょうとくたいし)の活躍は特色あるもので、社宝の「聖徳太子絵伝」や、太子の 本地( ほんじ)とされた 如意輪 (にょいりん)観音を表した懸仏の存在は、当時は軍神として崇められた太子への甲賀武士の信仰を伝えるものです。


油日神社の祭神

ご祭神 油日大神

東相殿 罔象女神 摂社岳神社祭神

西相殿 猿田彦神 摂社白鬚神社祭神

ご 神 徳

油日大神のみ名は記紀にも見えず、又油日の名も国内に見当らない。たゞこの地に於いてのみ千数百年の昔から、油日大神とのみ申しあげて篤い信仰がさゝげられて来たのである。油日大神はアブラのヒの大神さまであって、万有始動の根元神として諸事繁栄発展の大本を司られる大神さまである。従って古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられている。  猿田彦命は道案内(サキダチヒコ)の神として方除授福のご神徳高く、又罔象女命は水神として衆庶の生業に大御恵を光被まします。

ご 創 立

南鈴鹿の層巒が南に尽きるあたり、神の御山の姿もおごそかに油日岳が聳えている。春朝翠霞の中に映ずる油日岳、旭光輝き亘る秋空にうき出る油日岳、四六時中仰ぎ見るこの御山のみ姿が人の心の糧となったことは今も昔も変りはない。油日大神は太古この油日岳を神体山として鎮まり給うたが、世を経て今のこの本社の地に移り鎮りましたのである。今も毎年九月十三日夜本社にて秋のまつりが行われるが、その前々日十一日の夜には信心の人たちによって岳の頂上にて一夜を参籠し夜を徹してご神火を焚き上げる千年来の古い姿が残されている。  その後今を去る千百参拾有余年の昔、陽成天皇の御宇元慶元年(八七七)十二月三日油日神に神階を授けられたことが国史三代実録に見え、所謂国史見在の古社である。


油日神社 本殿 明応2年( 1493 年)上棟 棟梁 藤原宗弘(甲良氏)〔国指定重要 文化 財〕

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子への甲賀武士の信仰を伝える日本遺産『甲賀の総社』油日神社」

https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2325031



甲賀流忍術屋敷

[甲賀望月氏]

長野県の武家の名族滋野氏(分流は、真田氏等)を源流とし、平安時代に滋賀県甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族。 戦国時代には、伊賀の「服部」、甲賀の「望月」と称され、鈎の陣に活躍した望月出雲守、甲賀三郎伝説の起源とされる望月三郎に代表される甲賀流忍者の家系。


由緒ある望月家の家紋の九曜紋の入った提灯入れ。屋根瓦をはじめ至る所に見られる。


九曜星に込められた意味

中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。

この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。そのあと、平安時代の平将門の乱の武功のあった望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こし、家紋として九曜紋(九曜星)を用いることになります。


徳川家康公 銅像

現在再開発中の名鉄東岡崎駅北東街区の駅と商業施設を繋ぐペデストリアンデッキ上に徳川家康公の像を設置。2019年11月に公開された日本最大級の騎馬像で、家康公が松平から徳川に改姓した25歳当時の姿をしています。

岡崎の玄関口にできた新しい岡崎の象徴です。


もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。

信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。

「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

(詳細は本文にて・・・)


甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)


三階から一階まで逃げるための縄梯子。


ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産甲賀流忍者 甲賀五十三家筆頭は、平安時代に甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2333938



※現在、2000件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


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ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
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ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
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ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
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