3.11にまつわる小説特集
こんにちは。
昨日3月11日は、12年前に東日本大震災が起きた日でした。
このブログでも1月15日更新分で阪神淡路大震災を取り上げ、村上春樹さんの『神の子どもたちはみな踊る』を特集しました。ついで、拙いながら災害を経て生まれる文学や表現のお話もそちらで少しだけしております。
もう12年、まだ12年、感じ方は人それぞれで、今日の表題のような特集はあまり触れたくはないお題だなぁと頁を閉じてしまわれる方がいるかもしれません。いろんなふうに、それぞれのタイミングがあるのが読み物というものですから、それならばそれで構いません。
さて、ポラン堂古書店には、1月から店内正面にコーナーが設けられています。
3月中はそちら変えない予定とのことですので、ぜひお立ち寄りいただけたらです。
では、今回のテーマに則した3冊を紹介致します。
いとうせいこう『想像ラジオ』
いとうせいこう氏と言えば、タレントとしてもテレビで見かける多彩なクリエイターさんですが、文学に新たな景色を見せてくれるような作品が目立つ小説家さんでもあります。
『想像ラジオ』は彼が小説家として16年の長いブランクを経て書き上げ、2013年「文藝」に掲載された途端に各所で話題となった作品です。
こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
と本編は始まり、地の文はラジオ放送のような文体になっています。
語り手はDJアーク。海沿いの町で生まれ育ち、音楽関係の仕事を辞めて奥さんと東京から郷里に帰ってきた38歳で、この作品全編、聴こえる者たちの想像の中だけでオンエアされている「想像ラジオ」のパーソナリティをしています。
そして彼は今、高い杉の木の上に引っかかっています。
リスナーからは次々とメールが寄せられます。みんな自分の身の上話をしたり、どこでどんなふうに聴いているかを伝えてくれます。腰を下ろして膝を抱えていたり、大の字になって星空を見ていたり、ひたすら歩き続けていたり……。
今日の表題からしても、この「想像ラジオ」とは何か、というのが伝わり始めているのではないかと思いますが、そんなネタバレがどうこうという次元の話ではないので、どうか紹介を続けさせてください。
二章ではこのラジオが聞こえない「私」の視点になります。どういう人が想像ラジオが聴こえて、どういう人が聴こえないのか。必然としてリスナーからのメールも核心に迫る内容になっていきます。
想像という言葉の優しさと弱さと頼りなさが、この作品を形作ります。
最初の時間が曖昧な挨拶は、いつ聴いてもいいという理由のものですが、聴こえない者たちがいつか聴こえるときに、という意味も込めているように思えます。
読み継がれてほしい作品です。ぜひ。
天童荒太『ムーンナイト・ダイバー』
2009年『悼む人』で直木賞を受賞、他にも有名な作品にあふれた作家さんです。
『悼む人』の作家が震災について書いた、というとこの作品の密度は自ずと伝わるかもしれません。2016年1月、満を持してみたいなところがあったかもしれませんが、この作品が震災にまつわる小説として本屋の店頭に並ぶことになったのでした。
主人公・周作は41歳のダイビングインストラクターですが、ある依頼者グループから頼まれて、福島の立ち入り禁止地域の海域で被災者たちの遺留品を引き上げる作業をしています。
月の光だけを光源にした月明かりの描写、視覚どころか匂いすら伝わる潜水の書き方がまず圧巻ですが、光の届かない暗闇を舞台に、3.11のその後を書ききる作者の筆力の驚嘆してしまいます。
『悼む人』の静人のように周作もあくまで聖人君子的で、欲をはじめ人間味を感じさせないほど徹底して自分の役目を全うしています。しかし(これも静人と似ていますが)ある女性との出会いから、人間一個人として姿が現れ始めるのです。
圧倒的不公平を生んだ大地震を背景に、彼が美しく気高い役目を全うすることに果たして価値はあり続けるのか。
彼の前に現れた女性・眞部透子は、行方不明者である夫のしていた指輪を探さないでほしいと告げます。しかし周作は指輪を探す。その理由を問われ、周作が返した短い答えがあるのですが、その奥行に私は震えました。
彩瀬まる『やがて海へと届く』
昨年、岸井ゆきのさん主演で映画化もされましたが、それまでにも震災文学として大きく存在感を放っていた作品です。
デビュー6年目の若い作家さんだった彩瀬まるさんによって、これほど勇気の必要なテーマが確かな完成度をもって書かれており、2016年発行当時からたくさんのインタビューで取り上げられたものでした。また『きみの膵臓を食べたい』の住野よるさんが作中の主人公が読むならこの作品とコメントしたことをきっかけに、アニメーション映画『きみの膵臓を食べたい』に主人公が持っている文庫として書影が映るなど珍しいことも起きました。
親友の死をめぐる喪失と再生の物語です。
主人公・湖谷真奈には震災で行方不明になった親友・すみれがいます。震災の日から三年が経ち、すみれの恋人だった遠野くんは引越をする為、彼女の荷物を処分すると言います。既に仏壇を作っているすみれの実家にも、「忘れてもいいことにする」と口にする遠野くんにも、すみれに置き去りにして前に進むのか、と反発を覚える主人公ですが、遠野くんは口論のさなかに言うのです。
置き去りってことは、湖谷にとって死んだ奴はずっと同じ場所に留まってるイメージなんだな。
(省略)
いや、すみれだからかもしれないけどさ、あー……変なこと言うと……俺は、歩いてる気がするんだ。
中盤の、大事な場面ではありますが、この台詞の価値はこの台詞だけでは伝わらないと思います。ただ彩瀬まるさんが伝えたかった内容は、この台詞を骨格にしているように思えてなりません。
あの日、誰かを置いていってしまった、失ってしまったのではなく、あの日、ただお別れをしたのです。もちろん主人公はその考え方にも都合の良さや罪悪感を覚え、前に進むことは簡単ではありません。他にも作中に彼女の職場で起きた出来事にも大きく揺さぶられることになります。その中で、とある人物との絆ができることはこの作品においてすごく幸せな描写です。
タイトルから何から、多くの隠喩が散りばめられており、合間のすみれらしき人物の視点も挟まれ、彼女が「歩く」ことの書き方にはどんどん感情が溢れてきます。
多くの人に届いてほしい作品です。ぜひとも。
以上です。
三作とも、作者が迷いながら導き出したような苦悩の跡も見える作品です。『想像ラジオ』だけでなくどれも「想像」を主題にしていて、その中には、想像することが大切というよりも、想像することしかできないという諦念のほうが目立ってしまうときもあります。
しかし、だから強い、というのは矛盾するでしょうか。伝わりますでしょうか。
フィクションの作家が想像をもってあまりにも悲しい現実に相対する。なんと勇ましくかっこいいことだろうと、私には思えます。
今年の芥川賞には佐藤厚志さんの『荒地の家族』が選ばれました。文学と震災の歴史はこれからもまた続きます。私はこれからも文学よ負けるなと応援し続けたい。
皆様、よろしければぜひ、手に取っていただければと思います。