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M40 1963

2018.05.16 03:36

M40

(リード)

1963年に晴海で開催された恒例のモーターショーに於いて、スズキは数台のGPレーサーとともに、1台の小さなスーパースポーツ・モデルを発表した。M40と名付けられたそのモーターサイクルは、ショーの前年に世界GPの50ccクラスを制覇した同社のワークスレーサー、RM62を彷彿させる成り立ちで、会場に詰めかけたマニアの熱い視線を浴びることになった。

(本文)

 ホンダに遅れること1年、1960年にスズキの海外レースへのチャレンジは開始された。1953年に発売されたパワーフリー号以来、スズキは長年にわたって2サイクル技術を蓄積していた。こうしたノウハウを駆使して、ピストンバルブの2気筒エンジン(125 át) を搭載した、RT60型GPレーサーが開発されたのである。そして、スズキは大胆にも、世界最大のクラシック・レースとして知られるマン島TTレースを、完成間もないRT60のデビューの舞台に選んだのだった。しかし、世界のトップメーカーが凌ぎを削るTTレースに初参加したスズキの自信は、脆くも崩れ去ることになった。世界の強豪を相手に、RT60は、15、16位で完走を果たしてブロンズ・レプリカを受賞したが、スズキにとってこの順位は、けっして満足できるものではなかった。

 翌1961年も、スズキにとっては不本意なシーズンとなった。この年からマン島TTレース以外のGPレースにも参戦を開始したスズキだったが、ピークパワーを追求するあまり肝心のエンジンにトラブルが続出して、小所帯のスズキのGPチームはシーズン半ばで撤退を余儀なくされたのである。だが、トラブルシューティングに追われる傍ら、スズキの技術陣は必死で勝てるマシンの開発を急いでいた。

 こうしたスズキの努力は、1962年に突如として開花することになった。そのきっかけとなったのが、軽量クラスの名手として知られていたGPライダー、エルンスト・デグナーの加入であった。旧東ドイツの名門メーカー、MZのエースライダーとして活躍していたデグナーは、1961年のシーズンオフに亡命という非常手段をとって、スズキ陣営に加わったのである。この亡命を手助けしたといわれるスズキの冒険は、それだけの価値が充分にあったといえるだろう。デグナーの加入によって、ロータリーディスクバルブやエクスパンションチャンバーといった、2サイクルの最新技術をもたらされたスズキの技術陣は、驚くほど短期間のうちに、翌シーズン用の強力なGPレーサーを開発することができた、といわれている。

 1962年、スズキは、125ccクラスと250ccクラスに加えて、新たに設けられた50ccクラスにもフルエントリーすることになった。そしてシーズンが開幕すると、新設された50ccクラスに於いて、RM62を駆るデグナーが、破竹の快進撃を開始したのである。スズキのRM62はこのシーズン、TTレース優勝、シリーズタイトル獲得という二重の栄誉に輝くことになったのである。このRM62の成功によって、自らの2サイクル・テクノロジーを確立したスズキは、その後、世界GPの軽量クラスの王者として君臨することになったのである。

 1963年のモーターショーで発表されたM40は、こうしたGPレーサーの最先端技術をフィードバックしたスーパースポーツだった。外観こそ、保安部品を装備したロードゴーイング仕様だったが、同時に発表されたレーシングキットを組み込めば、M40はRM62型GPレーサーに匹敵するパフォーマンスを発揮する超高性能モデルでもあった。また、M40のフレームには、GPレーサーと共通のダブルクレードル・タイプが奢られていた。そうした意味では、発表されたM40はスーパースポーツというよりも、市販レーサーといっても過言ではないほどのポテンシャルを秘めていたわけである。

 1962年に鈴鹿サーキットがオープンして以来、我が国にも急速にモータースポーツが普及することになった。それに呼応してこの時期、ホンダからはカブレーシングCR110 、トーハツからはランペットCRといった市販レーサーが相次いで登場していた。こうした本格的な市販レーサーを前にして、スズキはセルペットMDを改造して対抗していたが、誰の目にも非力感は明白となっていた。M40の発表には、こうした苦しい状況の打開、という期待も込められていた。

公表されたスペックを見る限り、M40の最高出力は6.5 馬力と、CR110 の7.0 馬力やランペットCRの6.8 馬力より僅かに低かった。しかし、実際には、レーシングキットとして用意されていたGPレーサーと同じ形状のエキスパンションチャンバーを装着すれば、M40のピークパワーは10馬力に届くといわれるほど強力だった。市販されたM40の多くは、こうしたレーシングキットを組み込んで、レーサーやモトクロッサーとして各地のクラブマンレースで大活躍することになった。また、M40の派生モデルとしては、レーシングキットを初めから装備したカウリング付きのM41がごく小数生産されて、海外に輸出された。そして、国内向けにはその後、市販レーサーとしてTR50が登場したのである。

 50ccクラスが平均して5万円前後で買えた時代、M40の15万円という価格は、けっしてリーズナブルとはいい難かったはずである。しかし、用途の限定された市販レーサーとしてではなく、あえてロードスポーツとして発売されたM40からは、世界選手権を制覇したスズキの、2サイクルメーカーの旗手としての自負が見て取れた。