「宇田川源流」【宇田川教育論】 や知識の丸覚えだけでは、社会で活躍できなくなったと中教審が答申
「宇田川源流」【宇田川教育論】 や知識の丸覚えだけでは、社会で活躍できなくなったと中教審が答申
毎週水曜日は、以前は大河ドラマについて書いていたが、最近では「宇田川教育論」を記載している。大河ドラマに関しては、チョットあまり書きたくないというか、今週は特に大河ドラマよりもWBCを見てしまって、佐々木朗希投手に大河ドラマが、少なくとも私の中では負けてしまった感じがする。まあ、そもそも「側室をどうする」というような話題で、徳川家康の周辺が、子供を産ませるように側室を当てがというようなことを描いたのであるが、まあ、その辺のドタバタぶりは、あまり徳川家康のイメージとは異なるのではないか。なんとなく、トレンディドラマのような形になってしまっていて、重厚感に欠ける部分があるような気がするのである。ちなみに、来週は「田鶴」との戦いであるという。夫の飯尾連龍は、徳川家康への内通を今川氏真に疑われて殺された。連龍の死後、お田鶴の方が曳馬城を守っていたとされる。やがて、永禄11年(1568年)12月に徳川家康が城を攻めた時に、お田鶴の方が防戦の指揮をとり、しばしば突出して、ついには侍女郎従もしたがって奮闘するも討死にしたとされる。来週はそのことになる。要するに、浜松城に徳川家康が引っ越すということになるのであろう。
さて、そのような内容よりも、やはり、現在の教育論に関して書いた方が良いのではないか。
さて、この歴史教育も含めて「記憶」だけでは話にならない。何度も言っているが「記憶」は過去に起きたことを覚える事と、それをその通りに実行することで成立する。しかし、「過去の事を記憶しているだけでは、新しいことは全くできなくなってしまう」ということになる。同時に、覚えるだけならば、コンピューターに勝てるはずがなく、日本の教育では、そのうちAIに勝てない人間ばかりになってしまうのではないか。昨今、日本では「AIが出来たら無くなる仕事」というような特集記事を何度か見かけるのであるが、そのようなことを話題いしなければならないほど、日本の教育はおかしいのである。
中教審、なぜ「学習内容の重点化」を検討!?
中央教育審議会の部会が、「学習内容の重点化」を検討課題に上げることになりました。 児童生徒に何を学ばせるかは現在、学習指導要領に規定されています。なぜ今、学習内容の重点化なのでしょうか。
学習内容の重点化を課題に上げたのは、中教審の初等中等教育分科会「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実に向けた学校教育の在り方に関する特別部会」(学校教育特別部会)です。2023年2月20日、部会の下に設けられた義務教育の在り方ワーキンググループ(WG)・高等学校教育の在り方WGとの合同会議を開催し、義務WGからの論点整理案を了承しました。その中に「学習内容の重点化」が盛り込まれたのです。
授業や教科書のもとになる指導要領は、おおむね10年に1度の頻度で改訂されています。前回の改訂(告示)は2017年3月(小中学校など)から順次、行われました。「次期」改訂は2027年から始まってもおかしくありません。
中教審では文部科学相の諮問を受け、約2年間かけて改訂内容を審議するのが通例です。ただし近年は、諮問前に準備作業を担う会議体を設置するのが通例です。特別部会も、その役割を担っているわけです。
「少なく教え豊かに学ぶ」が世界的な課題
学校教育をめぐって今、世界的な問題になっているのが「カリキュラム・オーバーロード(教育課程の過積載)」です。人工知能(AI)の急速な発達をはじめ、時代の進展に応じて新しく学ぶべき内容がどんどん増える一方で、従来の学習内容がなかなか削減できず、学び切れないほどの学習内容を抱えてしまうことです。
それに対する解決策の一つが、《Less is more》(少なく教え豊かに学ぶ)です。学習内容を「教えるべき内容」「覚えるべき内容」ととらえるのではなく「例」として扱い、学習内容のもとにある「概念」の獲得を重視しようという考えです。そうすれば、どんなに新しい学習内容が出てきても自分で応用して学ぶことができるというわけです。
実は現行の指導要領でも「何を学ぶか」だけでなく「何ができるようになるか」を重視した改訂が行われました。ただし、「ゆとり教育批判」の再燃を恐れるあまり学習内容の削減が行われず、逆に統計やプログラミング教育など新しい学習内容が追加されたため、カリキュラム・オーバーロードに拍車を掛ける格好になりました。
まとめ & 実践 TIPS
現在は何でも検索すれば知識が得られるとともに、誰も答えを持っていない課題の解決に取り組まなければならない時代を迎えています。もはや知識の丸覚えだけでは、社会で活躍できなくなりつつあります。大人になっても学び続ける必要性は、保護者のかたほど実感していることではないでしょうか。
ますます先行き不透明な時代を生き抜かなければならない子どもたちの教育はどうあるべきか、自分たちの子ども時代の常識にとらわれない議論が求められそうです。
(筆者:渡辺 敦司)
3月9日 ベネッセ
https://benesse.jp/kyouiku/202303/20230309-1.html
さて、そもそも幕末の松下村塾などは、何を教えてもらっていたのであろうか。例えば、吉田松陰が、現在の東京大学の試験を受けたら東大に合格すると思うであろうか。その答えは「NO」である。数学や英語ということではなく、そもそも、勉強は覚えるということが基本になっているのではなく間違いなく、それ以外のこと、つまり、学んで議論して新しいものを生み出すということが最も大きな学びになっていたという。つまり松下村塾では、「何かを教えてもらう」のではなく、「四書五経などを元に様々な議論を行い、その議論の中で、自分で学んでゆく」ということになる。
議論を行うということは、当然に、相手の持っている内容も知らなければならないし、またその議論において自分の知識や今まで学んだことを総動員しなければならない。そして、議論を行う相手の知っていることを総動員された内容を元に、自分の考えを構築しそのうえで相手を説得しなければならない。そのようなことができるのかということが最も大きな問題になるのであって、そのようなことができないのであれば、議論は成立しない。
では、現在の子供たちが議論のできるような子供たちなのであろうか。それも、答えは「NO」である。知識ばっかり多くても、そこは「模範解答のある内容を話をしているだけ」であり、そもそも社会に出てみれば、模範解答などは存在しない内容ばかりであって、その中で過去の記憶で対処しようということが不可能なのであろう。同時に、その過去の記憶で不可能であるということなのに「模範解答を探す行為」つまり「先例主義と事なかれ主義」によって、何とか対処しようとするのだが、それでうまくゆかないことばかりが出てきているのである。
実際に少子化問題もそうであるし「想定外」を連発した、東日本大震災や福島原発事故などにおいて、何をすべきかなどと言うことは全く見えていなかったのではないか。そのようなことが先例主義や事なかれ主義の対応で、何とかなるはずがないのである。
何故、官僚である人々が、先例主義や事なかれ主義になるのか。それは、現在の教育が記憶主義であり、そのうえで、その最高学府の東京大学が、官僚の多くを占めているということに問題があるのだ。
。学習内容を「教えるべき内容」「覚えるべき内容」ととらえるのではなく「例」として扱い、学習内容のもとにある「概念」の獲得を重視しようという考えです。<上記より抜粋>
まさに、まずは模範解答を亡くすということが最も重要になってきているということになりますただし、この事を教えられる教員がいるのかということも大きな問題になるでしょう。ゆとり教育も、全て現場で教える教員がその理念についてくることが出来なくて、崩壊するのである。そもそも、その教員であっても「記憶による教育のエリートが教員になっている」ということを知り、現場を中教審は知るべきではないか。
中教審はカリキュラムをいじるよりも、まずは、教員を再教育することが重要といつ気づくのであろうか。