Okinawa 沖縄 #2 Day 245 (16/03/23) 西原町 (21) Uebaru Hamlet 上原集落
西原町 上原集落 (うえはら、イーバル)
- 平安名組サーターヤー跡
- 屋良組サーターヤー跡
- ユビターガー
- 中組サーターヤー跡
- 喜納サーターヤー跡
- 上原自治会館、亀屋良組サーターヤー跡
- 上原高台公園 (Hill178 157高地)
- 大屋良屋敷跡
- 山組サーターヤー跡
- 空手博物館
- 埋蔵文化財センター
先日は琉球大学のある千原を訪れたが、その際に隣地区の上原も通っている。幹線道路沿いには商業施設もできて、大いに賑わっていた。その町並みは西原町の他の地域とは異なり、新しく開発されたことが判る。今日はこの上原を訪れることにした。
西原町 上原集落 (うえはら、イーバル)
上原は、森川や千原と同様首里の士族らが帰農してできた小村落の屋取集落で、県道29号線を境に東側は内間部落に、西側は棚原部落にそれぞれ属し、その外れに寄留する従属屋取集落だった。伝承によると、上原で最も古い家柄である屋良家が第13代尚敬王 (1713~1751年) の前後100年に、首里の嘉味田殿内からの分家して上原に住み着いたのが、上原屋取の始まりとされている。当時、この一帯は棚原杣山と呼ばれ、王府所有山林地だった。昭和の初期まで屋号大屋良、呉屋小、大喜納小など、三人の上原山番がいた。その後、廃藩置県前後、急激に首里から士族らが寄留するようになった。そのころから、上原にも居住人らが移り住むようになった。当時、屋取の居住人は 田舎に住んでも士族意識を失わず、プライドも高く、地元人 (ジーンチュ) との交渉もなく、ジーンチュとの婚姻関係はほとんどなかった。大正時代には、棚原部落の屋取として、屋良屋取と運堂屋取、内間部落の屋取としてが記載され、上原にはもともと三つの小村落屋取があった。世帯数や人口の増加により1933年 (昭和8年) に字棚原の小字宮里原、大田原、運堂原と字内間の小字上原を統合し字上原として独立している。
戦前の上原集落の人口は458人 (76戸) だったが、沖縄戦では住民の半数が犠牲になり人口は激減している。戦後、人口が戦前レベルに戻ったのは1987年と30年要している。人口が増加に転じるのはこれ以降で、琉球大学が移転してきたこと、それに伴い上原棚原土地区画整理事業が実施され、ベッドタウンへの発展している。人口は年ごとに増えていき、2020年には4,056人にまで増加している。戦前の人口の9倍近くにまでなっている。この増加傾向は鈍化してはいるがまだ増加傾向は続いていくと思われる。
西原町の中で上原の人口は現在では翁長に次いで二番目に多い地区となっている。
屋取集落なので、御嶽や殿などの拝所はなく、他の平民百姓村のような伝統的な年中行事はあまりなかった。 村全体の行事は山の御願とクスッキー (腰憩い) があった。その他の御願行事は門中や家単位で行っていた。旧1月2日の山の御願には、千原上原の山番人らが、総出で泉川家の前のターチマターマーチューに集まり、棚原山の安全と住民の安寧を祈願し、山御願の後、泉川家で八人の山番人を中心に盛大宴会が催された。旧2月2日のクッキー (腰憩い) には、各サー ターヤー組ごとに、民家に集まり、盛大な慰労の宴が催された。
上原集落訪問ログ
平安名組サーターヤー跡
県道29号線 (那覇北中城線) を幸地集落入り口から上原交差点に向かい登って行くと上原二丁目の東側、かつては運堂原と呼ばれた地域に平安名組サーターヤー跡がある。平安名家一門が使用していた。運堂原には、この他に崎原組サーターヤーもあった。上原には戦前まではサーターヤーが6か所 (8か所との資料もあった) 存在していた。戦前の上原の主要作物は、サトウキビとイモで、イモは食糧として自家消費した。サトウキビの約7割はサーターヤーで黒糖にして出荷し、残りは工場に売却した。
屋良組サーターヤー跡
県道29号線の上原交差点に近づくと、西側住宅街の中に屋良組のサーターヤーがあった場所になる。現在はマンション駐車場になっている。上原屋取集落は300年程前、第13代尚敬王 (1713~1751年) の時代に、首里の嘉味田殿内から分家した屋良家が、棚原杣山の山番 (ヤマバーン、杣山管理人) として上原に住み着いた事から始まった伝わっている。上原の中では最も古い家になる。
ユビターガー
この上原ターブックの中にユビターガーという井泉があり、上原で最も古いウブガーだったという。どんな旱魃にも枯れたことがなかったそうだ。案内板に示された場所を探すと井戸が一つあった。この井戸かも知れない。現在では水田はないのだが、ターンム (田芋) 畑があった。
中組サーターヤー跡
上原交差点の北側は中組のサーターヤーがあった場所で、現在は畑になっている。
喜納サーターヤー跡
上原交差点から県道29号線を更に進んでいくと道沿い左側には喜納サーターヤーがあった場所になる。現在は中古車販売店になっている。喜納家も琉球王国時代に棚原杣山の山番 (ヤマバーン、杣山管理人) として上原に住み着いた門中になる。
上原自治会館、亀屋良組サーターヤー跡
県道29号線の西側、丘陵の上が上原の中心部になる。その中に上原自治会館がある。戦前は亀屋良組のサーターヤーが置かれていた場所で、この付近に10戸の農家があり、このサーターヤーを使っていた。
上原高台公園 (Hill178 157高地)
上原自治会館の前は丘になっている。沖縄戦では日本陸軍の陣地が築かれていた場所になる。日本軍は157高地、米軍はHill178と呼んでいた。
1945年4月1日に米軍が北谷の海岸に上陸し日本軍司令部のある首里を目指し南下を始め、4月20日には上原に迫っていた。この157高地は日本軍が防衛ラインを構築したスカイラインリッジの一拠点で、米軍攻撃の目標となった。
- 4/20 - 157高地東に戦車の米軍が侵攻し、終日死闘が繰り返され、遂に同高地北側斜面は米軍に占領された。日本軍は157高地奪回の逆襲をするも失敗。
- 4/21 - 157高地を占領。米軍は、同高地を東に下る稜線の日本軍陣地を攻撃し、夕刻には全稜線を占領。
- 4/22 - 米軍の攻撃行動はあまり活発でなく、157高地-内間-掛久保のラインで両軍が対峙したままだった。スカイラインリッジの南側斜面には日本兵の遺体500体が散乱していた。多数の兵器が遺棄されたままになっていた。
沖縄戦での上原集落住民の45.6%にあたる458人が犠牲となっている。終戦後の1946年 (昭和21年)、各地区の収容所にいた住民らは、いったん西原の我謝区に移り、その後、我謝区か各字へ帰還していったが、当時、上原への居住許可が下りず、棚原区での仮ずまいを余儀なくされた。昭和21年11月ごろ、棚原から上原へ集団移転した。
現在、この丘は上原高台公園になっており、頂上には急水槽、展望台があり、そこからは上原、千原、中城村の町並、中城湾を一望できる。
広場には「上原棚原土地区画整理事業 竣工記念碑」が置かれていた。1972年の本土復帰後、国立琉球大学、沖縄キリスト教短期大学の移転で急に人口が増え始めた。無秩序に住宅建設が始まり、スプロール化が進みつつあった。 このため、早急に道路、公園等の公共施設を整備改善して市街地環境の向上に寄与することを目的に昭和63年に上原棚原土地区画整理事業が認可され、三十年余の歳月を経て本事業が竣工した。その記念碑が平成29年に建立されている。
大屋良屋敷跡
琉球大学医学部の北東に棚原杣山の上原山番 (ヤマバーン、杣山管理人) 三家の一つの大屋良家の屋敷跡がある。
山組サーターヤー跡
大屋良屋敷跡の東向いは山組サーターヤーが置かれていた場所になる。
空手博物館
上原集落から琉球大学上原キャンパス南口 (西原口) への道の途中にビルを黄色に塗った空手博物館なるものがあった。1987年に館長の外間哲弘さんが私財を投じて建設した博物館で、縄の伝統空手と古武道に関する写真や武具などを展示している。
外間哲弘さんは祖⽗から⾸⾥⼿を学び、その後、1961年より剛柔流、古武道、古流神道天⼼流を学び、空⼿道、古武道、擒拿術、急所術等を織り交ぜた武道を確⽴している。
埋蔵文化財センター
琉球大学医学部付属病院の北側には埋蔵文化財センターがあった。今日訪問している上原集落は屋取なので、史跡などはほとんどなく、時間に余裕があるのでこの埋蔵文化財センターを見学することにした。埋蔵文化財センターは平成12年に開館し、沖縄にある埋蔵文化財の発掘調査、研究、保存活用をしている。多くの発掘調査報告書を発行しており、集落訪問の前にはそこに関連する報告書を参考にしている。
常設展示場は比較的小さな展示室で、遺跡発掘を紹介しながら沖縄の歴史をたどる構成になっている。メインの対象は児童、学生の様に思えるが、消化するには適度なもので、大人でも大雑把に沖縄の時代の流れがわかるような展示となっている。初心者にはいいかもしれない。
上原は屋取集落なので史跡はほとんどなく、見終わった時点ではまだまだ時間が残っているので、先日訪れた琉球大学上原キャンパス内で見落としていたスポットと幸地集落の幾つかの文化財をめぐる。
参考資料
- 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
- 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
- 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
- 西原町 歴史文化基本構想