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Okinawa 沖縄 #2 Day 246 (19/03/23) 旧首里西原村 (2) Oona Area 首里大名町

2023.03.20 13:05

旧首里西原村 首里大名町 (おおな、ウフナー)



旧首里西原村 首里大名町 (おおな、ウフナー)

この首里大名町には、王都首里に隣接することから、王族や士族の墳墓が多くあり、琉球王国時代の三偉人の羽地朝秀 (向象賢)、 具志頭親方蔡温、 宜湾朝保 (向有恒) の墓もこの大名にある。琉球王国時代には平良大那 (テラオホナ) とあり、その後、平良ウフナーと呼ばれていた。

大名は元々は西原村平良の小字だった。琉球王国時代には大名の中心は首里城から儀保町、平良町を通り浦添市沢岻に通じる旧道の下り坂の大名原のところにあり、坂が多いことからテーラフナー (平良フナ) と呼ばれていたが、フナのフがウフに転じ、テーラウフナー (平良ウフナー) となり、ウフに大の字が当てられ、大名 (ウフナー) になったと言われている。

1879年 (明治12年) の廃琉置県により禄を失った首里士族の分家が移住し、屋取集落が形成された。1906年 (明治39年)、西原間切平良村の字平良原と字前原が首里区編入されたのに伴い西原間切平良村の残りの8字のうち、1字は石嶺村と末吉村に分割移管、4字は石嶺村へ、後の大名町を構成する字大名原、字真和地原、後原の3字が末吉村へ移管された。1920年 (大正9年) に末吉村が首里地区に編入されたとき、先に移管されていた字大名原、字真和地原、字後原を中心とした4字が字末吉村から分離独立し、さらに1921年 (大正10年) の市制施行に伴い大名原、真和地原、後原は大名町となり、戦後は1956年に首里市と那覇市と合併で那覇市首里大名町と呼称が変わっている。

大名原、真和地原、後原で構成された大名町は現在でもその地域で三つに区分され、1丁目界隈を平良真地 ( テーラマージ) は呼ばれ、大名の中心地にあたる。2丁目付近は平良大名 (テーラフナー) と呼ばれ、平良から浦添経塚へと王府時代の宿道が2丁目を縦貫し、政治、経済、軍事上の重要な道路だった。3丁目の後原は1、2丁目から離れた飛び地だったので島小 (シマグワー) と呼ばれていた。戦前にはほとんど民家は見られなかったが、現在では大名市営団地の建設で最も賑やかなところとなっている。

首里大名の人口については、明治時代の人口データは見つからなかったが、戦前は約110世帯、540人ぐらいの小さな町だった。明治時代もこれに近い人口だったと思われる。戦後は1960年以降少しずつ増加し始めたが、60年代末から大名団地が建設され、人口は急増が始まった。1970年前半には大名市営団地が建設され、第二次人口急増が起こっている。

この事で、閑散としていた三丁目は住宅密集地域と変わっている。2010年から老朽化した大名市営団地の建替・増築事業が始まり、その影響で人口は減少しているが、段階的に完成し、人が戻り人口増加が始まっている。事業は現在でも続いているが、工事中に沖縄戦での不発弾が見つかり、工事は少し遅れている。増築も予定されているので、今後は完成予定の2029年までは人口増加が続くと思われる。

2020年末では首里大名町は首里区の中では三番目に人口が多い地域となっているが、大名市営団地の工事が進むにつれ人口増加が予測され、近々首里鳥堀町を抜いて二番になるだろう。

公民館の前には首里大名町の案内板が立っている。大名小学校区学習館が「大名界隈歴史さんぽガイドブック」 なるものを発行している。史跡の紹介に積極的でない那覇市では、史跡、歴史、習慣などを後世に伝えるには、各地域に活動にかかっている。字誌などを発行している地域もあるが、首里区ではその様なものはなく、この大名地区がこの様なものを発行しているだけ。これは大名だけでなく、末吉、石嶺、平良地区の一部も含まれている。事前に目を通した資料とこのガイドマップを参考に大名を巡っていく。


首里大名訪問ログ


今日は徒歩にて大名集落を巡る。繁多川、首里金城、首里山川を通り松川まで来ると、目の前には末吉の丘陵地が見える。この丘陵の上が首里大名町になる。

末吉宮のある丘陵地を登って行き、末吉宮の裏を更に登ると大名集落からの鳥居のある参道に出る。



真和地原 (マージバル) [首里大名1丁目]

末吉宮から抜けた所は首里大名1丁目 (旧真和地原) になり、その界隈は平良真地 (テーラマージ) と呼ばれていた。まずはこの首里大名1丁目にある史跡を巡る。



国頭毛小 (クンジャンモーグワ)

鳥居を出た西側は国頭毛小 (クンジャンモーグワ) と呼ばれた場所になる。この毛の直下 (南の崖下) にある末吉村の拝泉の辺戸御井戸 (ウカー) と関係があると推測されているが判然とはしないそうだ。国頭毛小 (クンジャンモーグワ) は今では雑草におおわれているが、昔は眺望もよく、畦払 (アプシバレ) 行事では、平良村の長老たちが平良グムイから流した害虫が安謝港に流れていくのを見送る所で盛大な酒宴を催したと伝わっている。


平良真地 (テーラマージ)、平良馬追い (テーランマウィー)

その中に1695年 (尚貞27年) に首里近郊に初めて開設された幅15m長さ300mにも及ぶ直線馬場で、崎山、識名の両馬場と共に王府直営の公事馬場 (クージンマィー) としてかなり広大な馬場だった。他の馬場と区別するために平良馬追い (テーランマウィー) と呼ばれ、識名真地 (馬場) とともに琉球王国 の二大馬場だった。球陽には「首里に戯馬場なく、あちこちに行って乗場を練習する。 この年、平良村の西に適地をもとめ、始めて馬場を開く、俗に名づけて平良真地という」とある。1897年 (明治12年) の沖縄県設置 (琉球処分) 以降は、ほとんど使われなくなったが、 1924年(大正13) に、首里城に沖縄神社が置かれてから戦前には、10月20日の沖縄県神社祭の時には、県内各地から飾り立てられた馬 (写真右下) が集まり、馬の品格や調教の成果などの馬勝負 (ンマスーブ) の奉納競馬が盛大に行われていたと伝わっている。 (馬勝負といっても競馬 [側対歩] だけではなく、いろいろに飾り立てられた馬たちが、その品格や、日頃の調教による馴致の状態などを見て順位を決めていた。) また、綾門大綱や西平等の綱引の

綱打ち場でもあった。馬場の両側は松並木 (写真左下) だったが、1941年 (昭和16年) の日米開戦の影響により、平良真地での競馬は中止となり、周囲の松も日本軍陣地壕構築のため切り倒され、 馬場は掘り起こされて畑となって、昔日の松並木も無くなり、面影は失われてしまった。


御桟敷跡 (ウサンシチ)、西原尋常小学校平良分校跡

平良馬追い (テーランマウィー) の馬場の中央には王族等が馬勝負 (ンマィースーブ) を見物する為にのために貴賓席として設けられた御桟敷 (ウサンシチ) があった。この御桟敷の敷地跡には、1895年 (明治28年) に西原尋常小学校の平良分校が設置されている。教職員3人、児童数106人で開校され、1902年 (明治35年) に、平良尋常小学校として西原尋常小学校から分離独立している。 翌1903年 (明治36年) には、児童数の増加に伴い、平良村後原 に校舎 (現在の若夏学院分校の場所でこの後に訪問) を新設し嶺吉尋常小学校と改称され移転している。


馬浴場跡 (ウンマアミシー)

平良馬追い (テーランマウィー) の東端には馬勝負や調練の後に馬体を洗った石組の大きな四角形の馬洗小堀 (ンマアシグムイ) があったそうだ。馬体を洗うために、地中が大きく深く掘られ、石組みの四角な大きな泉が造られてあって、戦後まで使われていたが、埋められて消滅している。


大名公民館

平良馬追い (テーランマウィー) の東の終点、馬浴場跡 (ウンマアミシー) の隣は大名公民館が置かれている。ここが一丁目と二丁目の境になる。


白氏門中神屋

大名公民館の西側、馬浴場跡 (ウンマアミシー) と道を挟んだ所には白氏門中の神屋が置かれている。


洗濯井戸跡 (シンタクガー)

大名公民館の向いにはかつては洗濯井戸 (シンタクガー) があったという。大名には井戸が多く水の便が比較的よかった事で、飲料水としては使用されず、生活雑用水として使われていた。現在は井戸の跡も無くなり、住宅になっている。


冠リ井戸 (カブイガー)

平良馬追い (テーランマウィー) 沿い南の墓地との間に冠リ井戸 (カブイガー) が残っている。カブイは屋門 (ヤージョー) の屋根や、冠などのことで、冠リ井戸 (カブイガー) の上部に琉球石灰岩が覆い被さり冠 (カブイ) の様になっていることからこうよばれたという。現在でも給水パイプが設置されているので、使用されているようだ。


真和地井戸 (マージガー)

冠リ井戸 (カブイガー) から平良馬追い (テーランマウィー) を西に行くと、もう一つ井戸跡がある。この一帯は1920年 (大正9年) に首里区へ編入されるまでは、西原間切平良村真和地原 (マージバル) と呼ばれたので、真和地井戸 (マージガー) と呼ばれている。平良馬追い (テーランマウィー) が、1695年 (尚貞王27年) に造られたとき、この真和地井戸 (マージガー) も整備されている。水質の良い湧泉だったの正月の若水 (ワカミジ) や近隣の村々で豆腐造りの水にも利用された名水だった。この井戸にも給水パイプが設置されているので使用されているようだ。


毛氏美里殿内の墓

平良馬追い (テーランマウィー) の南側、末吉丘陵北側の緩やかな斜面は昔から墓地となっている。琉球王国時代は首里には王族以外は墓を造ることが禁じられていたので、当時は西原間切だった大名に多くの士族の墓が造られている。御桟敷跡 (ウサンシチ) から路地を墓群に入った所に毛氏美里殿内の亀甲墓があった。毛氏美里殿内の始祖は毛氏の池城殿内元祖である新城親方安基からの五世新城親方安充の三男六世嵩原親方安依。美里殿内からは、始祖の安依、七世安満、そして11世の安執は三司官を務めている。 なお、七世にあたる友寄親方安乗は、平敷屋友寄事件で平敷屋朝敏とともに処刑されている。 当時実権を握っていた蔡温の治政に対する建議の落書 (投書) が原因とされているが真相は今だに不明。


馬氏与那原殿内の墓

毛氏美里殿内の墓の隣には馬氏与那原殿内の墓がある。大里間切の総地頭職を務めた馬氏与那原殿内の始祖は、大浦添親方良憲の三世北渓親方良辰の三子大里親方良安馬加美の子孫で、馬氏小禄殿内の分家筋にあたる。与那原家からは、琉球王国の刑律典琉球科律の編纂などに携わっていた与那原良矩や琉球王国末期に三司官とし て活躍した与那原良恭と与那原良傑親子など9人もの三司官を輩出している。


金武良仁 (キンリョウジン) 楽宗絃声碑、金武良仁・良章父子の胸像

毛氏美里殿内から墓地を少し上がった所に銅像が置かれている。金武良仁良章父子の像になる。金武良仁は、箏、胡弓、笛、舞踊、馬術、武術までこなした多彩な才能の人で、1875年 (尚泰王26年) に金武間切の総地頭職にあった金武御殿 (チンウドゥン) の父良常の嫡男として上儀保村で誕生している。19歳のとき安冨祖流の大家、安室親雲上朝持の 門下に入り研鑽を積み、1900年 (明治33年) には、東京の尚侯爵邸において、西園寺公望や大隈重信らの前で歌三線を披露したといういる。 1936年 (昭和11年) には、東京の日本青年会館において開かれた 琉球古典芸能大会に歌三線の演奏者の一人として参加している。公演終了後には、コロンビアレコード社において琉球古典音楽16曲を録音し、レコード化したことで琉球音楽普及の一助になった。 同年に沖縄に戻った直後に他界している。金武良仁は歌三線の歌聖と呼ばれ、金武良章は戦前戦後を通じて組踊の研究と普及に努めた。この顕彰碑は1960年 (昭和35年) に建立されたもの。


馬氏金武家の墓

金武良仁・良章父子の胸像が置かれている場所の隣には、金武御殿 (チンウドゥン) の墓がある。


豊平良顕顕彰碑

この墓地の中にはもう一つ銅像があるという。事前の情報では以前訪れたスポットに関わっていた人物なので見てみたいのだが、場所ははっきりとは分からず、探すが見つからなかった。諦めて他のスポットを探していると、地元のおじいから声をかけられて世間話をしていると、この銅像の場所を丁寧に教えていただいた。銅像は墓の中の細い道を頂上まで登った所にあった。銅像は豊平良顕の功績を讃え、2000年 (平成12年) に建立されたもの。豊平良顕は1904年 (明治37年) に首里で誕生し、沖縄県立第一中学校を中退後、西原尋常小学校の代用教員、沖繩朝日新聞社記者、大阪朝日新那覇支局長を経て、戦時下では沖縄新報の編集局長として壕内で新聞を発行し続けた。これに従事し犠牲となった新聞記者の慰霊碑「戦没新聞人の碑」が那覇市若狭の旭が丘にあったのを思い出した。戦後は1945年 (昭和20年) ごろ首里汀良町の現汀良町自治ふれあい館近くのトタン葺き家屋に首里郷土博物館を設置し、その館長を務めた。終戦直後の散乱した文化財の収集保存に努め、今日の博物館の基礎を築いた先覚者になる。 また、1948年 (昭和23年) に沖縄タイムス社の創刊に加わり、沖展や芸能祭などを企画し、沖縄の芸術文化の振興に尽力している。 1990年 (平成2年) に他界している。この様な沖縄戦を生き抜いた人達が沖縄の戦後の復興に大きな貢献をしていたのだ。


上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ)

平良町と大名町との境の道絡り (ミチグヤー) から民家の間の路地を西側へ進むと左側に上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ) がある。 御嶽の入口には、一対のシーサーが置かれ、シーサーの頭には角のようなものがある独特の形をしている。琉球国由来記には上ノ嶽 神名コバツカサノ御イベと記載されている。コバはクバ檳榔のことで依代とされ、「依代であるクバの木のもとにまします神様」という意味になる。現在はクバの木はなくホルトの木の根元に霊石が置かれている。地元では旧暦9月9日に火災防難祈願の御願が行われているそうだ。


富川殿内 (トゥミガードゥンチ) の墓

上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ) の近くに、先日儀保を巡った際にそこに屋敷があった富川殿内 (トゥミガードゥンチ) の墓が置かれていた。琉球王国末期の三司官の一人である富川盛奎が葬られている墓という。富川盛奎は、最後の国王尚泰王代、最後の三司官となった与那原良傑が就任する前年1875年 (尚泰28年) に三司官となり、廃琉置県後は県庁の顧問となっている。1882年 (明治15年) に職を辞して 王国再興のため清国に渡り、琉球王国の救国陳情活動を行った。


馬場小 (ンマィーグヮ)

富川殿内の墓の前の西に伸びる路地の直線部分は馬場小 (ンマィーグヮ) と呼ばれ、平良馬追い (テーランマウィー) で行われた馬勝負 (ンマスーブ) に出るまえの練習の場所だったという。道の北側にはまだその遺構の石垣が残されおり、写真を撮ったのだが、かなりピンボケで、末吉を訪問する際にもう一度訪れて撮影することにする。


松山御殿 (マチヤマウドゥン) の墓

富川御殿の墓の東の道を南に進んだ突き当たりに松山御殿 (マチヤマウドゥン) の板葺き型 (玉陵型) の墓が造られ、墓の前には尚家之墓と記した墓碑が置かれている。ここには第二尚氏王統最後の王尚泰の四男、松山御殿の尚順男爵が葬られている。 元々は、尚穆王三男の尚周 義村王子朝宜を元祖とする義村御殿の御拝領墓だった。


下ヌ御嶽 (シムヌウタキ)

大名町公民館の右側の道を行くと、右手にこんもりととした樹々に囲まれ、入口に一対のシーサーが鎮座している場所があり、ここが琉球国由来記に、平良村の拝所として記されている下ノ御嶽 (シムヌウタキ) になる。この辺に在ったマキョ村落の祖霊を神として祀った御嶽で、神名はマネヅカサノ御イベと記されている。マネはマーニ (黒ッグ) のことで依代になる。 マネヅカサノ御イベとは、依代であるマーニの木のも とに在す神様のことになる。


宜湾親方 (ジワンウェカタ) 朝保の墓

下ヌ御嶽 (シムヌウタキ) から細い山道を進むと崖上に出て、崖の斜面には墓群が広がっている。

この中に宜湾親方 (ジワンウェカタ) 朝保の墓があり、墓の前には、1915年 (大正4年) の大正天皇即位の御大典に際し、政府より宜湾朝保へ従四位が追贈されたのを記念して、沖縄史蹟保存会によって、1922 (大正11年) に建立された贈位碑が建立されている。 

宜湾朝保は親日派で1862年 (尚泰15年) に三司官となっている。薩摩28代藩主島津斉彬の急死による斉彬くずれに端を発した琉球側の一大疑獄の牧志恩河事件の糾明奉行の一員として、親派とみられた人士に不利な証言を備え、頑固党と呼ばれた親清派に大弾圧を加えた。この糾弾が原因となり1875年 (尚泰28年、明治8年)、14年間にわたった三司官の要職からの辞任に追いこまれる。宜湾朝保は、当初、宜野湾親方を称していたが、尚泰の次男尚寅が1875年(尚泰28年) 宜野湾間切の総地頭になった事で、宜野湾親方一統への名字遠慮の通達が出て宜湾と改称した。宜湾朝保は歌人としても著名で、薩摩の八田知紀に和歌を師事して勝れた歌を残し、また沖縄古今集も撰している。


撫で井戸 (ナディガー、平良樋川 テーラヒージャー)

宜湾親方 (ジワンウェカタ) 朝保の墓から道を下ると、道沿いに撫で井戸 (ナディガー) がある。掘り下げた井戸はまだ水が湧きでて、井戸内側は石積みで固められ、井戸の前は石が敷き詰められている。名前の由来は不明だが、古い時代の集落のマキヨでのソージガー (宗水井または聖水井) として使用され、平良村発祥とかかわりがあると伝えられ、平良樋川 (テーラヒージャー) とも呼ばれている。 また撫で井戸 (ナディガー) は厄除けと幸福を御願するウビーナディー (御水撫で) に用いる水を汲んだ井戸になる。下ノ嶽と一対のグサイガーでもあり、下ノ嶽を拝む際には必ずこの撫で井戸 (ナディガー) も拝まれていた。


泉井戸 (イジュンガー) 

更に道を降りていくと道沿いにもう一つ井戸があった。湧水量の豊富な井泉で、その事から泉井戸 (イジュンガー) と呼ばれていた。現在では利用されていない。


具志頭親方 (グシチャンウェカタ) 蔡温の墓

丘陵地にある墓群の西の端辺りに琉球史の大政治家である蔡温の墓がある。戦前までの墓 (写真右下) は沖縄戦で破壊され、現在の墓は戦後に建造されたもので、中には銘書き付の厨子は小さい物を含めて全部で14個あり、最も古いのが蔡温と思戸金夫人の厨子になる。

具志頭親方蔡温は1728年 (尚敬16年) ~ 1752年 (尚穆1年) の25年の長きわたり三司官を勤め、数々の政治改革をおこなっている。1713年には第二尚氏13代尚敬王が13才で即位した際に王の教育に為、国師に推挙され、1719年 (尚敬7年) には冊封使随員の携行した貨物の評価 (ハンガー) 代銀2000貫を要求されたのだが、粘り強い交渉によって、その評価を500貫に抑え、その功績により、翌1720年 (尚敬8年) に三司官座敷に叙せられ、1728年 (尚敬16年) に三司官に任ぜられた。1734年(尚敬22年) に起こった平敷屋友寄事件で、親方部を含む上士15人の処刑している。

薩摩藩の支配で、琉球王国は経済的に困窮状態だったが、農業政策と林業政策を中心に政治改革を行なっている。特に林業政策は特筆することができ、蔡温松の名で呼ばれた琉球松とアダン (タコの木) と組み合せた防潮防風林や、宿道沿いの琉球松の植栽などは高い評価を受けている。


大名小学校

首里大名町の西の端には大名小学校がある。この場所は特に史跡ではないのだが、先に訪れた学校所跡 (西原尋常小学校平良分校跡) に関連している。西原尋常小学校平良分校は1902年 (明治35年) に、平良尋常小学校として西原尋常小学校から分離独立。 翌1903年 (明治36年) には、児童数の増加に伴い、平良村後原に校舎 (現在の若夏学院分校の場所でこの後に訪問) を新設し嶺吉尋常小学校と改称され移転している。昭和22年に現在の城北小学校敷地に学校が建設され、昭和29年に那覇教育区立城北小学校となった。那覇市への人口の流入増加によって、1977年 (昭和52年) にはこの場所に大名小学校が建設され、城北小学校より分離している。


石屑 (イサグ)

大名小学校の西側一帯は、隆起珊瑚礁の風化した赤土島尻マージに琉球石灰岩礫 (石屑 イサグ、イシクス) の混った、方音でいうイシクスーマージの畑地帯だった。 現在は特別養護大名老人ホームが設けられている。


大名村サーターヤー跡

大名小学校から平良馬追いへは坂道になっており、この坂道の途中道沿いには、戦前、大名村サーターヤーが置かれていた。


東恩納盛男顕彰碑

更に道を登った所に沖縄空手に関わる場所があった。よく見ると、三日前に訪れた西原町上原の剛柔流空手道本部の東恩納盛男最高師範の功績をたたえた顕彰碑で心身一体を意味する「拳禅一如」と記されている。



大名原 (ウフナーバル) [首里大名二丁目]

次は首里大名二丁目 (大名原) の史跡を見ていく。



南ヌ坂 (フェーヌヒラ)

宿道を更に北に進むと南ヌ坂 (フェーヌヒラ) と呼ばれる急な下坂になる。この宿道は尚寧王が首里から浦添間切への中頭方西海道として整備された石敷き道路で、浦添の経塚橋に向けて下り坂になっている。政治、経済、軍事上の重要な道路だった。坂を下った向こう側には登り坂が見える。浦添間切のと西原間切 の境界から見て北ヌ坂 (ニシヌヒラ) になる。


大名原 (ウフナバル)

南ヌ坂 (フェーヌヒラ) の左右一帯を大名原 (ウフナバル) と呼んでいた。この地は平良馬場一帯が地層の浅い琉球石灰岩の風化したイシクスー (石滓) 混じりの島尻マージにおおわれた地味の弱い土地に対して、この地はクチャ (第三紀層泥灰岩) の風化した灰色のアルカリ性粘土土壌のジャーガル地帯で、肥沃で水利も良く水田が広がっていたそうだ。


運天井戸 (ウンティンガー)

大名公民館の東に南北に走る道がある。平良町のサントーガーから、道絡りを通る琉球王国時代の宿道になる。道絡りからこの宿道を北に進んだ所の空き地にに運天ガーがあった。ここは運天という人の敷地だったことからこのように呼ばれて、村井 (ムラガー) だったそうだ。



後原 (クシバル) [首里大名三丁目]

県道153号線 (石嶺本通り) の東側は大名三丁目 (後原) になる。今度はこの三丁目を見ていく。


後原 (クシバル)

県道153号線 (石嶺本通り) の東側は後原 (クシバル) と呼ばれた地域で現在の首里大名三丁目にあたる。l元々は西原間切平良村字後原だったが、1906年 (明治39年) に西原間切平良村の字平良原と字前原が首里区編入された際に、字後原は、字大名原、字真和地原と共に末吉村へ移管され西原村字末吉小字後原となっている。1920年 (大正9年) に字末吉村へ移管されていた字大名原、字真和地原、字後原などの4字を分離独立させ、1914年 (大正3年) から首里区大名町となっている。


第三小学校跡 (若夏学院)

大名三丁目に県内唯一の児童自立支援施設である若夏学院がある。平成13年に学院内に那覇市立城北中学校若夏分校、平成14年に那覇市立大名小学校若夏分教室が設置されている。窃盗や家出、暴力などの非行傾向があり、家庭環境などの問題に悩む児童が児童相談所、又は家庭裁判所の審判などを経て入所し、この若夏学院 (小学校高学年から高校生まで) で生活し、学び、働きながら過ごし、問題を克服し、家庭等の調整で退所となる。約20名がここで生活をしているが6割~7割が家庭でのネグレクトで身体的虐待や心理的虐待を受けて入所してきたそうだ。

元々、この学校は先に訪れた西原間切平良尋常小学校が、1906年(明治39年) に、この地に移り嶺吉尋常小学校として始まっている。1920年 (大正9年) 石嶺村、末吉村全域が首里区に編入され、1923年 (大正22年) に平良町、石嶺町、久場川町、大名町、末吉町、赤平町を校区とする首里第三尋常小学校と改称された。この地は去る沖縄戦まで、首里第三小学校の校地跡である。この地が学校教育と関わったのは、間切時代で、先述のように西原間切平良尋常小学校が新設されたことに始まる。1906年(明治39年) 平良村の本体字平良が首里に編入されたことで、校区が石嶺村と末吉村ということになり、校名も平良尋常小学校から嶺吉尋常小学校に改称された。1920年 (大正9年) 石嶺村、末吉村全域が首里区に編入されたことで、1923年 (大正22年) 嶺吉尋常小学校は首里第三尋常小学校と改称された。戦後、昭和22年に学校は現在の城北小学校に移転し、跡地が昭和29年に児童自立支援施設の沖縄県立実務学園となった。1998年 (平成14年) にこの教護施設名称を沖縄県立若夏学院と改称された。


イチンニー墓

第三小学校跡 (若夏学院) の北側、現在の那覇市営大名住宅の南縁の棟舎部分も含め、この一帯のニービ (第三紀層砂岩) の小丘には、小さく粗末な掘り込み (フォンチャー) 墓が無数にあったそうだ。その大部分は那覇市営大名住宅建設で無くなっている様だ。


花城親方紹興墓

残っているイチンニー墓の小丘を歩くと、温氏の祖とされる花城親方紹興墓があった。

残っている林に中には小さな掘り込み (フォンチャー) 墓が数基残っていた。


稲干し (ユブシ)

記録に残されている西原間切平良村字ユブシの地は、最近までシマグッと俗称されていた、現若夏学院の東北にある大名町の飛地的小集落の場所であろう。先述した又吉翁も字ユブシについては「聞いたこと がない」としたが、県道五号線の開通する一九三〇年代以前は、現在石嶺町三丁目に入っているゥンニフ シ(稲干毛とは、道路で断たれてない状態であったであろうし、また石嶺町三、四丁目も平良村の範囲であったこと、さらにゥンニフシ毛の古称がユブシ毛であったことなど考え合せると、シマグッと呼ばれ ているこの地が、字ユブシの集落本体であったことが類推できる。ユブシとは、石嶺町の稲干毛の項で述べた如く、稲の古語”ユ"を干した所を指して付与されたものであろう。


今朝は朝寝坊で出発がお昼だった。結構見るところが多かったことや、途中世間話もあり、集落巡りが終わったのは午後6時を過ぎていた。この時間まで見て回れるのはありがたいのだが、自宅に戻ったのは8時近くで真っ暗となってしまった。




参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 大名界隈歴史さんぽガイドブック (H30 大名小学校区生涯学習館)