主の命をいただいく恵み
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。ヘブル9:11,12
日本人の私たちは食事をするとき「いただきます」と言いますね。なぜ「いただきます」と言うのでしょうか。それは、動物や植物たちの「いのち」をいただいて自分が「生きる」からです。東北のキリスト教系の畜産高校では三年間の学びの総仕上げに、自分が育ててきた牛をほふるという実習を行うそうです。実習をする子どもたちは、自分で育てた牛たちがほふられる姿を間近で見ることになり、「泣けて泣けて仕方がない」そうです。みなさん、「いのち」をいただくとはそういうことなんですよね。子どもたちは、実習を通して「動物たちの大切な命をいただいて人は生きる」ということを学びます。同様に、私たちも(イエスさまが自ら差し出してくれた)主の命を「いただいて」生かされているのです。聖餐式では十字架で主がさかれた肉を象徴する「(さいた)パン」を食し、十字架で主が流された血潮を象徴する「ぶどう酒(液)」を飲みますね。主を「食する」「いただく」とは、、、主を「信じる」ことです。主を信じるとは、、、主が(私の罪を赦すために)十字架にかかって下さり、血を流して死んで下さったことを「信じる」ことです。
12節にあるように、主が(わたしの罪を赦すために)十字架で血を流して(身代わりに)死んで下さったことにより、「永遠の贖い」が成し遂げられました。「贖い」とは「罪が赦されること」を意味するのですが、主が十字架で死んで下さり「永遠の贖い」が成し遂げられたとは、すなわち、主の十字架を信じるとき、主の救いは「完璧」だということです。モーセの時代の大祭司は、、、贖いの日(といって、気が付かぬ間に犯している罪の赦しを神に求める)贖いの日に、、いけにえの血を幕屋奥の至聖所に置かれた「契約の箱」の上に注ぎました。しかし、それは、毎年毎年、繰り返し行われるものであったわけです。(身代わりの)動物の血が流されることにより、民の罪は(その時には)赦されましたが、、、しかし、また、次の年も、その次の年も、くり返し、いけにえをささげなければなりませんでした。この罪の救いは「不完全」なものだったのです。しかし、主が十字架で成し遂げられた救いは「永遠の贖い」であり、完璧な救いです。
主は、大祭司として「あなた」の罪の身代わりに、ご自身の命をささげられ、血を流して下さいました。モーセの時代の大祭司は、贖いの日に、、、(人の手によって造られた)幕屋の中に「いけにえ」の血を携え、そして契約の箱に注ぎかけたのですが、、、イエスさまの場合は、ご自身が流された(犠牲の)血が神に受け入れられ、、、復活し、「まことの聖所」である天に昇られ、今も、わたしたちのための「とりなして」いてくださいます。主が(わたしの救いのために)ご自身の血を注いで下さり、命をも差し出して下さったことを感謝します。