信仰に生きる
信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。 ヘブル11:1 (リビングバイブル訳)
皆さんにとって「信仰」とは何でしょうか。リビングバイブル訳を参考にすれば、それは望んでいることが「必ず起こるという確信」であり、また「信じて疑わないこと」となるでしょうか。ただ気をつけないといけないのは、11:1前半のみことばを、誤って受け取らないことです。「望んでいることが必ず叶えられる」という箇所での「望んでいる」の主語は、あなたや私ではなく、神様だということです。すなわち、神がご計画されたことは必ず実現する、という意味です。
旧約時代のイスラエル人、また、ユダヤ人には(私たちが戴いている主イエスという確かなる救いがなかったわけです。彼らはひたすら、律法を守る行いによって救われると信じていました。このような違いはありますが、しかし、共通の部分もありました。それは、やがて救い主が来られ、永遠の命を下さり、天国に招き入れて下さる、、、という点です。私たちにとっては「主の再臨」です。彼らは必ず救い主が来られる、と信じて疑わなかった。そして、神は1948年、自分たちを救うためにイスラエルという国を再び起こされ、今、救い主が来られるのを彼らは待っているわけです。これは信仰ですね。そして、同様に私たちも持ちたい信仰です。
イエスさまが復活され、弟子たちの前に現れましたがトマスだけが復活の主に会っていなかったとき、彼は「この目で主を見、十字架で負われた傷を見るまでは決して(主の復活を)信じることができない、と言いました。そんなトマスに主が現れ、脇腹の傷を見せ、ここにあなたの指を通しなさい、と言われたとき、トマスは自らの不信仰を悔い改めました。そんなトマスに主は、「見ずに信じる者は幸いだ(ヨハネ20:29)」言われました。私たちは、神が天地宇宙を造られたところを見たわけではありません、神が世の救いのために与えて下さったイエスさまを、この目で見たわけではありません。ただ、神によって記された聖書をまるごと疑わずに信じている者です。私たちの信仰にとって、聖書の記述をまるごと信じる、、、これが生命線です。ここが揺らいでしまって不確かになると、信仰は崩れてしまい、信仰ではなくなるのです。
イエスさまが山上で話された説教に「岩の上に建てられた家」の話があります。「岩」とは救い主=イエス・キリストのことです。イエスさまを人生の土台にすえて生きる。御子キリストが、わたしの罪が赦されるために命を差し出して下さった。その動機は「愛」ですね。神に愛されているという「確信」に立ってイエスさまを信じていく、、、ここに揺るがない平安と祝福(主が約束通り天国に招き入れて下さる平安と祝福)があるわけです。
そのような主を、確たる人生の土台として生きようではありませんか。