「子ろばに乗っての入城」
マルコの福音書 11章1―11節
1. さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。2. 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3. もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
4. 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。5. すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
6. 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
7. それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8. すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
9. そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
10. 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
11. こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
礼拝メッセージ
2023年3月19日
マルコの福音書 11章1―11節
「子ろばに乗っての入城」
今日から2週間後の4月2日から、今年の教会の暦では受難週に入って行きます。主イエス様が都エルサレムのゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)で、十字架にかけられ、苦しみ抜いて死なれたことを、心にしっかりと覚える期間です。その受難週最初の日曜日、イエス様はろばの子に乗って、エルサレムの町に入られたことをご存知でしょう。
そのみことばを覚えながら、先週、暖かい日に足羽山動物園に行って来ました。入ってすぐの場所、ポニーの隣にろばが飼育されていました。本当に小さくて、短い足の上にずんぐりむっくりな身体つきでした。正直、格好良いとは思えませんでした(じっと見ているうちにかわいいなと思えて来ましたが)。「こんな背の低いろばの子にイエス様が乗られたんだ!なんということか」と思いました。
受難週、イエス様が十字架にお架かりになった時は、ユダヤ人にとって一年で一番大事な時期でした。過越の祭りが行われていました。紀元前1500年頃、エジプトで奴隷となって苦しんでいたイスラエル人たちが、神様に導かれてエジプトを脱出することができた。その出来事に由来する祭りです。
この時期には、国中・世界中からユダヤ人がやって来ます。当時の記録では、神殿でささげられた過越の子羊の数が、なんと26万5千頭もあったそうです。一家族で一頭ずつささげられた子羊ですから、人間の数は100万人はいたでしょう!大群衆です。エルサレムはごった返していました。
特にこの年は、今までの何十倍も熱気で満ちあふれていたと思います。北部ガリラヤ・ナザレ出身のイエスという男が、イスラエル各地で驚くべき奇跡を起こしているらしいぞ。「もしかしたら、この男こそ、我々が待ち焦がれてきたメシヤ=救い主」なのではないか!そんな期待が沸き上がっていました。
今や興奮は最高レベルに達していました。つい先日、イエス様はベタニアの村で、死んでいたラザロという男を墓の中からよみがえらせていました(ヨハネ11章)。また直前に寄られたエリコの町では、目の見えないバルティマイという人の目を開き、見えるようにしていました(マルコ10:46―52)。驚愕の奇跡を起こしておられました。
そのイエス様がエルサレムに向かっているという噂が人々の元に届きました。大群衆は我先にと町の入り口=門の周辺に駆けつけます。手にはなつめ椰子(ヨハネ12:13:これまでの翻訳では「棕櫚」)の枝を持って、少しでも良い場所、イエス様を間近で見られる場所を確保しようと、どっと押し寄せて来ました。
まるで世界的なスポーツ大会で優勝した選手の登場を、空港で待ち焦がれるにわかファンのように、または「芸能人が今あそこのお店にいる」といういSNSの情報を見て、どっと押し寄せる若者たちのように、興奮する「群集(集団)心理」です。普段はおとなしい人も、非常事態とか、周りの人たちみんながそうしているのを見て、他人の行動に引きずられて、過激なことをしてしまう・・・。私たちにも、そんな性質があるのではないでしょうか?
イエス様を迎え入れた群集もそうでした。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に」と大声で叫び続けました。「ホサナ」とは、「どうぞ救ってください!」という意味です。エルサレムの人たちは、革命が起こること・国家体制が変わることを求めていました。今、自分たちはローマ帝国に支配されている、屈辱的なこの苦しい状況から救い出してくれる、この世のメシヤ・この世の救い主を待望したのです。軍事的なメシヤ、政治的なメシヤを、「ホサナ!」、「万歳!」と、なつめ椰子の枝を振りながら、出迎えたのです。
実際、イエス様がエルサレムに入城される150年ほど前、同じような光景があったそうです。イスラエルの国をペルシャ帝国から独立させたシモン・マカベヤという独立運動のリーダーがいました。彼が敵を撃退し、エルサレムに凱旋帰国した際、人々はなつめ椰子の枝を振って大歓迎したそうです。エルサレムの人たちは、同じように勇ましく指導力のある軍事・政治リーダーの姿を、イエス様にも思い描いたのでしょう。
しかし、それも群集心理でした。騒いでいる群衆の中には、よく分からないでただ騒いでいる人たちもいました。マタイ21章10節には、こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。とあります。わけも分からずに、誰なのかも知らずに、周りに流されて騒いでいた人たちも結構いたようです。
イエス様の弟子たちは、そんな町の様子を肌で感じ取り、得意げになっていたと思います。「ついに我々の先生が、表舞台に立つ日が来たぞ!ついにイエス様がこの国の王様となられる!そうしたら、我々も官房長官、外務大臣級のポストに付けるぞ!」と目を輝かせ興奮しながら、イエス様の後をついていったのではないかと思います。
その時、イエス様はおっしゃいます。「子ろばを探していらっしゃい」と。弟子たちは、「えっ!先生、ろばじゃなくて、馬がよろしゅうございます。大きて見栄えの良いサラブレットなんかいかがでしょう?」そう思ったでしょう。けれども、イエス様は、「いや、子ろばを連れて来なさい」と命じられるのです。
連れてこられた子ろばの背中に、弟子の誰かが上着を脱いで掛けますと、イエス様は堂々とではなく、ちょこんと座ってエルサレムの町にしずしず入城されたのです。これは先ほど交読した旧約聖書の預言者ゼカリヤが語った通りでした。
「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」(9:9)
軍隊の長として来たのではない。平和の君として来られたことをはっきりと示すために、イエス様はあえて軍馬ではなく、子ろばに乗られたのです。みんなが見上げて、ほれぼれするような背の高い馬の上にではなく、みんなから見下ろされる小さな子ろばの背に乗られました。
現代の私たちの感覚で言いますと、どんな感じでしょうか? 戦車か街宣車の屋根の上に乗って勇ましく登場すると思っていた指導者が・・・、なんと子ども用の三輪車をこいで登場して来た。そんな光景でしょうか? またはろばは当時、荷物を運搬するために使われていた家畜でしたから、麦藁帽子をかぶって軽トラに乗ったおじさんがやって来た。そんな光景でしょうか?
町中が拍子抜け、「あれっ・・・」、「えっ、何それっ・・・」、って感じではないでしょうか?
期待して待っていたお方が、自分たちの想像とはかけ離れていたのです。ユダヤ民族解放の英雄になる気はなさそうだ・・・。そう悟った瞬間、群集は手の平を返すように、このお方に接するのです。この日曜日からわずか5日後、同じ週の金曜日、群集は同じ口で、「十字架につけろ」、「この男を十字架につけて殺してしまえ・・・」と大声で叫ぶのです。群集心理です。その場面です。同じマルコの福音書15章から10から15節。
10. ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。11. しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。12. そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」13. すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」14. ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」15. それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。
5日前には「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、このお方をほめたたえ、大歓声を上げていた群衆でした。しかし、自分たちの思った通りの救い主ではなかった・・・自分たちの期待が裏切られたと感じた時、群集はこのお方を「十字架につけろ」と激しく訴えるのです。このお方を十字架の死、世界で一番むごたらしい死刑へと追いやってしまうのです。
イエス様は、興奮する群集とは正反対におられます。柔和なお姿で子ろばに乗ってエルサレムに入って来てくださいます。その目的は、群集が期待しているような「この世の王、この世の英雄」になるのではなく、ひたすら十字架の死へと突き進むために来られたことを知らせようとなさったのです。
武力で誰かを制圧するためにではなく、反対に人々に徹底的に仕えてくださるためでした。敵を殺すためにではなく、反対にまずご自身の命を犠牲にささげ、多くの人々を生かすためにイエス様はエルサレムに来てくださいました。
この世のいと小さき者のために、つまり私たち一人ひとりのために。- 自分の罪に苦しみ、死の恐怖におびえ、何のために生まれて来たのか。何のために生きていけば良いのか分からないでいる。そして、まことの神様に従い切れないでいる― そんな私たちのために、イエス様は子ろばに乗って、エルサレムに入って来てくださいました。
イエス様は、この世の目に見える支配者・この世の暴君たちと、武力で戦うことはしませんでした。しかし、目には見えないこの世の支配者、悪魔・サタン、罪の力、悪の力、死の力とイエス様はこの時、戦ってくださっていました。そして、十字架で死んで、そこからよみがえってくださったことによって、完全にそれらに勝利してくださったのです。
私たちは、イエス様の十字架と復活を通して、罪の問題、死の恐れそして滅びから完全に救い出されるのです! 群集心理の背後にあって、イエス様の十字架への歩み=神様の救いのご計画は着々と進められていたのです。
イエス様はエルサレム入場の際、小さな子ろばの背中に座られます。その時、実は温かなご配慮をこの子ろばに示してくださっていました。
マタイの福音書を見ますと、21章2節でイエス様は弟子たちに言われます。
「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。」
そう言われた弟子たちは6,7節で、
そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
この時、子ろばだけでなく、その子のお母さんも一緒に伴われて来たのです。子ろばは一匹だけでは不安になってしまうでしょう・・・。大群衆が待ち構えているエルサレムへ一匹だけで行くのは恐いでしょう。しかも「まだだれも乗ったことのない子ろば」と言われているように、人を乗せて歩くのは初めてです。初仕事が大仕事です。だからイエス様は、子ろばだけでなくお母さんも付き添って行けるように、親子でお連れになったのではないかと思います。
いと小さき者、小さな小さなろばの心にまで気を配ってくださり、優しく思いやってくださるイエス様の愛を感じます。そして、そのいと小さき者を用いてくださり、大切なイエス様のお働きにたずさわらせて頂けるのです。
この世の冨や力、この世の名誉だけを追い求めている時には、十字架に進んで行ってくださったイエス様の愛が分からないのでしょうね。この世の華やかさや勇ましさだけに頼っているなら、イエス様が子ろばの背中に乗ってくださった意味が分からないでしょうね。
へりくだって自分自身の罪と弱さ、また小ささを認めていきましょう。私たちも、この子ろばのようです。あなたに赦され、あなたに愛され、あなたに守られていなければ、そして、いつもあなたに乗っていただかなければ、私たちは生きていけません。でも、あなたが共にいてくださいますから、あなたが用いてくださいますから、私たちも子ろばとして、あなたのために生きて行きます。そのように告白できる私たちでありたいと思います。
最後に教会学校でよく歌われる賛美「私たちはろばの子です」の歌詞をともに味わいましょう。
♪ わたしたちはろばの子です 馬のように速く走れない
ライオンのような力なんかない ただのちっぽけなろばの子です
だけどあなた知っていますか ろばが主のお役に立ったこと
イェス様を背中にお乗せして エルサレムにお連れしたことを
走れなくても 強くなくても いつもイェス様がいてくれます
わたしたちはろばの子です 神様のために神様のために働きます
お祈りしましょう。