感動するとはクリエイトしていること
https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/127/127-2.html 【M課長の図書館俳句散歩道 (俳句の魅力 その3)】より
俳句の魅力について,最初に「発見する喜び」その2として「感動を表現する喜び」,「感動を共有しあう喜び」について掲載してきましたが,今回は,俳句の魅力の最終版として,「創造する喜び」について紹介します。
創造性教育のご専門である比嘉佑典氏は,創造を次のように定義しています。
「創造とは,個人の中に,事物の中にある古い結びつきを解体し,新しい結びつきにつくりかえることである」
創造という概念には,俳句の世界においてどのような側面があるのでしょうか?
1 俳句は制約という不自由さの中で創造する
俳句のルールとして次の3つの制約があります。まず,定型(五七五)という17文字です。それから,「や」「かな」「けり」などの「切れ字」を用いて,感動や詠嘆などの強調や省略,終止として時間と空間を転換して調子を整えます。さらに「季語」という,春夏秋冬,新年の時候,天文,地理,生活,行事,動物,植物を表す語を入れます。
これだけの制約の中で,創造力を発揮して俳句を詠むことは,季語をいれることによる創りやすさの反面,17文字という文字数のために,意図する表現が創りづらい面もあると思います。
ただ,高浜虚子の著書「俳句の作りよう」では,何でもいいから十七字を並べてごらんなさいと書かれています。まずここから始める気持ちが大切だと思います。
菊の香や 奈良には古き 仏達 松尾芭蕉
九月九日の重陽の節句,古都奈良では,寺々の古いみ仏たちが菊の香りに包まれています。菊の香り,古都奈良,古仏の取り合わせによって,清らかで格調の高い雰囲気が醸し出されています。芭蕉が亡くなる一ヶ月前にあたる51歳の時の作で,芭蕉の弟子の各務支考が編集した芭蕉の遺吟・遺文を集めた「笈日記」に収められています。
けいこ笛 田はことごとく 青みけり 小林一茶
けいこ笛とは,祭りのお囃子の稽古です。どこからか聞こえてくる笛と,一茶の目の前にひろがる青田原,耳と目の二つの印象の相乗効果による豊年満作の予感,にぎやかな祭りの期待で心も浮き立ちます。
放浪の暮らしで故郷を偲ぶ一茶43歳の句です。
「菊の香りと仏像」,「けいこ笛と青田」のように,二つの要素を組み合わせることで衝撃を起こし,新しい詩的世界を生み出すこういう創造的手法を「とり合わせ」「二句一章」「二物衝撃」といいます。
脳科学では物事の組み合わせをする行為こそが「創造する」ことだそうです。そういう意味では,俳句はわずか17音の空間ですが,衝撃や飛躍や省略で深くて大きい世界を表現しているのではないでしょうか。
また,俳句には他の事物と取り合わせずに,対象となる季語だけに意識を集中させ,その状態や動作を詠んだものもあります。そのような俳句は,「一物仕立て」「一句一章」といわれる表現方法です。
これらの句では,季語と別の事物を取り合わせていません。
春の海 終日(ひねもす)のたりのたりかな 与謝蕪村
別のものを持ちこまずに,春の海だけをずばりと詠んだ与謝蕪村の名句です。
大蛍 ゆらりゆらりと 通りけり 小林一茶
大きな源氏蛍が,暗やみの中を大きな弧を描きながらゆらりゆらりと飛んでゆきます。
一物仕立ての俳句は,季語の状態や動作を解説するだけの「理屈っぽい句」「ありきたりな句」になりやすいといわれています。しかし,蕪村や一茶の句では,心に強く響いてきます。季語と正面から向き合う五感での観察力が大切です。
2 俳句は言葉で創造した宇宙を表現する
次の3句は「奥の細道」で詠まれた芭蕉の宇宙観をあらわす象徴の俳句です
雲の峯 いくつ崩れて 月の山
暑き日を 海にいれたり 最上川
荒海や 佐渡によこたふ 天の河
月山は,月の神・月読命を祭神として「月の山」とも呼ばれています。また,羽黒山,湯殿山と並び,出羽三山として,修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者,参拝者を集めています。
三山である羽黒山は現世,月山が前世,湯殿山が来世の三世の浄土を表すとされ,出羽三山詣では,羽黒山から入り,月山で死とよみがえりの修行を行い,湯殿山で再生する巡礼が多く行われ,生まれ変わりである「死と再生」の意味をもつ「三関三渡」の旅とされています。
夏の陽射しの中で見えていた猛々しい雲の峰はいつしか崩れ,月の薄明かりに照らされた月山がたおやかに横たわっています。
出羽最大の大河が滔々と海に流れこみます。遠く沖合では,真っ赤な夕日が波間に沈もうとしています。今まさに最上川が暑かった今日一日の太陽を海に入れようとする瞬間で,涼感あふれる句です。
越後出雲崎から,荒く波立つ海の向こうに佐渡島が見えます。その上には天の川が,かかっている雄大な景色が広がっています。
月山の月,酒田の太陽,日本海の天の川,芭蕉は宇宙を見上げて,銀河を詠みます。人の世の栄枯盛衰や諸行無常もこの宇宙の前では,ささやかなものです。不変の真理と変わっていく現象は,「不易流行」である「変わるものと変わらないもの」をしっかり見極めて生きる芭蕉の哲学的宇宙観として,十七文字の中に輝いています。
3 俳句は創造の世界の中で挨拶を意味する
たとふれば 独楽のはじける 如なり 高浜虚子
河東碧梧桐への追悼句で,慶弔句ともいわれています。前書きに「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」とあり,かつて正岡子規の門下生として双璧といわれた虚子と碧梧桐は,子規の没後,作風の違いから対立しそれぞれの道を歩んで行きます。その二人の境遇を詠んだもので,比喩が見事です。碧梧桐は中学の同級生でもあり,彼の死は虚子にとって非常に大きな喪失で,盟友を失った悲しみを感傷的な言葉ではなく,季題「独楽」がはじける姿に投影しつつ客観的に描いています。
「たとふれば」は,とても直接には言葉にはできないという深い悲しみの気持ちを,余韻として暗示しています。
文芸評論家の山本健吉氏は,俳句は表現の特質から,「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」の三要素に集約できると述べています。
また,俳人の鷹羽狩行氏は,「俳句は広い意味ですべて挨拶といえる。それは二つに分けられる。まずは,自然に対する挨拶。私たちが作る俳句はほとんどがこちらで,自然を詠むものだ。もう一つは,人間に対しての挨拶」であると語っています。
さらに,高浜虚子も同じことを言っており,日常そのものが俳句であり,「寒くなりました」「暖かくなりました」というような,挨拶そのものが俳句であると紹介しています。
鳴くならば 満月になけ ほととぎす 夏目漱石
明治25年7月に,岡山で逗留中に帝国大学の学生だった夏目漱石が,落第した親友の正岡子規に対して,同じ泣くなら落第して泣かずに,無事,卒業に臨んで泣けと励ました挨拶句であり,激励句でもあります。
4 俳句はユーモアの世界を創造する
俳句のルーツは江戸時代の俳諧といわれています。芭蕉の門人森川許六は,「滑稽のおかしみを宗とせざれば,はいかいにあらず」と「歴代滑稽伝」で述べています。
そのことは きのうのように 夏みかん 坪内稔典
そのこととは何でしょうか? きのうのように感じることって何でしょうか?
そして夏みかんと,どうつながるのでしょうか
まさに,作者にしかわらかないユーモアの世界感に引き込まれ,気が付けば想像しながら,愉しんでいる自分がいます
甘酸っぱい夏みかんの味と心にひっかかる「そのこと」は,まさに昨日のことのようにいつまでも覚えていますね。
坪内先生(俳号はねんてん)は,佛教大学教授,京都教育大学名誉教授です。日本近代文学がご専門で,特に正岡子規や夏目漱石に関連する著作が多くあります。
次の俳句も,坪内先生の代表句です。
詠んでるだけで,ほっこり,にっこりしますね。
三月の 甘納豆の うふふふふ
たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ
次のような俳句もいかかでしょうか?
かきくけこ くはではいかで たちつてと 松永貞徳
寛永6年(1629)豊臣秀吉の祐筆を務めた松永貞徳が京の妙満寺で俳諧の会を催したのが俳諧発祥とされ,句会の基本となりました。
松永貞徳(1571~1653)は細川幽斎や九条植通などに学び,「俳諧式目歌十首」「新増犬筑波集」「御傘」「天水抄」などの著書があります。
ある時,句会が終わり早々に帰ろうとする貞徳の前に家人が柿を盛った盆を差し出した時に即興で詠みました。
かきくけこ くはではいかで たちつてと
柿喰けこ 喰わでは如何で 発ちつてと
俳風は遊びの精神に満ちており,貞門派俳諧の祖として一大流派をなし,そして芭蕉や西鶴へと受け継がれていきます。
三日月の ころから待ちし 今宵かな
中秋の満月を見ながら,詠んだ句です。満月を見ながら,「満月」の言葉を用いず「三日月の・・」と詠んだところに,おかしみがあります。
作者は,芭蕉や一茶,その他一般の翁であるという逸話があります。
次の一茶の句は,あまりにも有名ですね。
名月を とってくれろと 泣く子かな
浄土宗の開祖,法然上人に次の和歌があります。月の光は,その光に気づき仰ぐ人のこころに澄み輝く夢や希望の光です。
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ
図書館の海で,「思想」「思索」「思惑」の遊泳を楽しんでください。
そして,あなたのオリジナルな世界を創りだしてください。
クリエイティブ 泳ぐ図書館 夏の海
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前略 龍村仁監督 誠に有り難う御座いました。
早朝から記していた 昨日の龍村監督を偲ぶ会のことひとつひとつ振り返りながら、ようやく完成ほっとし、ボタンを押し間違えて すべて消去
えぇっっっ、、、
これはほんの小さなことだけれども、龍村監督が地球交響曲を撮られている時、思いがけず起きてしまったことが本当に多々おありになられたかと思います。
それを龍村監督はひとつひとつ必然だと結びながら龍村仁という方の心のありかたの 実践かもしれません。
そうそう 記していなかったけれども、心に浮かんでいたこと。
地球交響曲第十番があるのならば 出演者は きっとすべてのひとりひとり多様なままのそれぞれのひとりひとり 自分交響曲
監督くださるのは天の龍村仁監督かもしれません。
深く 深呼吸してまた ここから もう一度その前に監督のお声お聴きしたくなりました。
これがきっと 今に必要なこと
https://youtu.be/6Vba616PotY
ありがとうございます。
https://www.youtube.com/watch?v=6Vba616PotY
ドキュメンタリー映画『地球交響曲』龍村仁 出演者を語る「秘められた宝探しの旅」DIGEST
https://www.chichi.co.jp/info/chichi/pickup_article/2020/06_kobayashi_tatsumura/ 【我が情熱の火は消えることなし】より
小林研一郎(指揮者) 龍村 仁(映画監督)
「炎のマエストロ」と呼ばれる世界的指揮者の小林研一郎氏と『地球交響曲 第九番』に挑む映画監督の龍村仁氏は、共に1940年4月生まれの80歳。分野こそ異なるものの、いまなお新しい何かを創造しようと情熱を燃やし続けている。お二人はいま何を求め、どのような思いで目の前の仕事に取り組んでいるのか。映画制作を通して再び出会ったお二人が語り合う人生と仕事の要訣。
指揮者は透明人間でなくてはいけません。そこにいて何の抵抗感もないけれども、しかし、凄まじい情熱を持ってその思いを時空を超えて皆に伝えられなくてはいけません
小林研一郎 指揮者
太平洋に小さな小舟を漕ぎ出して、どこまで行っても水平線しかない。近づこうとすればするほど、さらに水平線が遠のいてしまうという、いまもそんな感覚で生きているんです。 この地球はベートーヴェンという素晴らしい人物を250年前に、この地球に誕生させてくれた。そのために僕たちはその後を追うことができるという喜びが、常に心の中にありますね。
感動するというのは言葉を変えれば自分自身が何かをクリエイトしているということと同じなんです。いわば自分が主人公になって映画を観ていただきたい
龍村 仁
映画監督
僕はこの映画を通して「このように感じ取ってください」「ここで感動してください」というメッセージを発しようとは思いません。観てくださった方が、それぞれの立場でクリエーターになっていただけたら、それが一番の喜びですね。そのことが正しいのか、正しくないのか、それは僕が考えるのではなく、いわば観る側に委ねるということですね。
プロフィール
小林研一郎
こばやし・けんいちろう――昭和15年福島県生まれ。東京藝術大学作曲科、指揮科の両科を卒業。49年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。その後、多くの音楽祭に出演するほか、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。平成14年の「プラハの春音楽祭」では、東洋人として初めてチェコ・フィルを指揮。ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、東京藝術大学教授、東京音楽大学客員教授などを歴任。
龍村 仁
たつむら・じん――昭和15年兵庫県生まれ。38年京都大学文学部美学科卒業。同年NHK入局。49年映画『キャロル』を制作、監督したのをきっかけにNHKを退職、独立。以後、ドキュメンタリー、ドラマ、コマーシャル等の制作に邁進。平成4年より『地球交響曲』の公開を始め、現在『地球交響曲 第九番』を制作中。著書に『地球(ガイア)のささやき』(角川ソフィア文庫)などがある。
編集後記
世界的指揮者の小林研一郎さんと映画監督の龍村仁さんは共に1940年4月生まれの80歳。これまでの人生を振り返りながら、仕事に対する溢れんばかりの思いをお互いに語っていただきました。いまなお新たな何かを創造しようとする意気盛んなお二人の姿は、いまの私たちに勇気と力を与えてくれます。
https://www.chichi.co.jp/web/20230110_tatsumura_jin/ 【「感動するとは何かをクリエイトすること」——龍村仁氏が『地球交響曲』に込めた願い】より
ドキュメンタリー映画「地球交響曲」(全9作)を制作した龍村仁さんが2023年1月2日老衰のためにお亡くなりになりました。82歳でした。龍村さんには、筑波大学名誉教授の故・村上和雄先生や指揮者の小林研一郎さんとの対談など、弊誌にもたびたびご登場いただきました。
「地球交響曲」を通じて、地球と大自然の尊さ、人間がこの限られた資源の中でよりよく生きるための知恵を発信し続けた龍村さんのメッセージは、これからの私たちを導く羅針盤となって輝き続けることでしょう。龍村さんのご冥福を心から祈り、弊誌掲載記事の一部を配信させていただきます。※対談のお相手は小林研一郎さんです。
見る側が主人公となり何かをクリエイトする
〈小林〉
『地球交響曲』は有志の自主上映によって広まってきた映画ですから、軌道に乗せる上では、何かとご苦労も多かったのではありませんか。
〈龍村〉
それはあまり感じたことがなかったですね。第一番を上映した時に、京セラを創業された稲盛和夫さんに「京都の小さな劇場で上映会を開きますが、よかったらお越しください」とお手紙を書いたんです。
稲盛さんはお忙しい中、劇場に足を運んでくださり「素晴らしい映画だった。これからも応援します。本当にいい作品であれば必ず世の中に循環していくことでしょう。その仕組みを一緒に考えていきましょう」と約束してくださいました。
実際、稲盛さんや京セラさんにはその後も何かとご支援いただきましたが、そういう多くの皆様のお力添えにより、ここまで30年間『地球交響曲』一筋に歩いてくることができました。
もちろん映画制作には資金づくりなど苦労はつきものなのですが、ご支援いただいた方のことを思うと、「ここで打ち切りにしよう」という発想は僕の中にはありませんでしたね。
〈小林〉
多くの支えによっていまがあるという監督のお話、僕も大いに共感します。一本一本の映画には、どのような思いを込めてこられたのですか。
〈龍村〉
僕は監督として「一人でも多くの人に映画を観てほしい」という気持ちは当然あるわけですが、それと同時に観てくださった方に映像や音楽を通して何かをクリエイトしてほしいという思いがとても強いんです。
〈小林〉
何かをクリエイトしていく?
〈龍村〉
はい。僕の映画を観て感動したという声をたくさんいただくわけですけど、感動するというのは言葉を変えれば自分自身が何かをクリエイトしているということと同じなんですね。いわば自分が主人公になって映画を観ていただきたい、自分の中にあるクリエーションの感覚を活性化していただきたい、という言い方もできると思います。
だから、僕はこの映画を通して「このように感じ取ってください」「ここで感動してください」というメッセージを発しようとは思いません。
観てくださった方が、それぞれの立場でクリエーターになっていただけたら、それが一番の喜びですね。そのことが正しいのか、正しくないのか、それは僕が考えるのではなく、いわば観る側に委ねるということですね。
(本記事は月刊『致知』2020年6月号「鞠躬尽力」」より一部抜粋・編集したものです)
◇龍村仁(たつむら・じん)
昭和15年兵庫県生まれ。38年京都大学文学部美学科卒業。同年NHK入局。49年映画『キャロル』を制作、監督したのをきっかけにNHKを退職、独立。以後、ドキュメンタリー、ドラマ、コマーシャル等の制作に邁進。平成4年より『地球交響曲』の公開を始め、現在『地球交響曲 第九番』を制作中。著書に『地球(ガイア)のささやき』(角川ソフィア文庫)などがある。
◇小林研一郎(こばやし・けんいちろう)
昭和15年福島県生まれ。東京藝術大学作曲科、指揮科の両科を卒業。49年第1回ブダペスト国際指揮者コンクール第1位、特別賞を受賞。その後、多くの音楽祭に出演するほか、ヨーロッパの一流オーケストラを多数指揮。平成14年の「プラハの春音楽祭」では、東洋人として初めてチェコ・フィルを指揮。ハンガリー国立フィル桂冠指揮者、名古屋フィル桂冠指揮者、日本フィル音楽監督、東京藝術大学教授、東京音楽大学客員教授などを歴任。