新しい未来を拓く和の文化
http://haikustock.com/edit/rekisi.html 【意外と知らない俳句の歴史!?】より
俳句の「俳」って、なに?
突然ですが、「俳」の付く二字熟語、あなたはいくつ思いつきますか。俳句、俳画、俳写、俳号‥‥などなど、いろいろあります。ざっと調べたところでは、全部で25ありました。「俳〇」と頭に付くものだけで25。「〇俳」と後ろに付く熟語はないようです、たぶんない。
そこでクイズです。
俳句に関連する言葉を除外すると、「俳」の付く二字熟語は一体いくつ残るでしょうか?
正解は、「俳優」の1つだけです。
ちょっと驚きでしょう? そうでもありませんか?
「俳」という言葉には、①おどけ・こっけい、②人前で芸をする人、③あちこち歩きまわる、という3つの意味があります(「岩波国語辞典」より)。つまり、俳句の「俳」は上記①の『おどけ・こっけい』という意味。
ちなみに、うろうろと動き回る「徘徊(はいかい)」(←ぎょうにんべん)は「俳徊」(←にんべん)とも書くそうですが、今はまず使わないので除外。「俳倡(はいしょう)」という言葉もありますが、意味は俳優と同じです。これも日常的にまず使わない言葉ですし、一般的な国語辞典にも掲載されていないので、勘定には入れませんでした。
辞書も見ずにこの2つのことに気付くとしたら、すごい、まさに漢字博士です。
ちょっと脱線してしまいましたが、では「俳句」とは以上を踏まえて、どういう意味の言葉なのでしょうか。
「俳句」は江戸時代に盛り上がった「俳諧(はいかい)の発句(ほっく)」の前後を取って略した言葉だと、考えられています。明治時代になり正岡子規(まさおか・しき)の起こした「俳句革新運動」によって広く知られるようになりました。
「俳諧の発句」は、たんに「発句」とも呼ばれます。乱暴に言ってしまえば、江戸時代に活躍した松尾芭蕉(まつお・ばしょう)や与謝蕪村(よさ・ぶそん)、小林一茶(こばやし・いっさ)の作品がそれです。
その関係性をざっくりとまとめてみました。
●「現代俳句」が生まれるまで
現代俳句誕生までの図
「連歌」は、「俳句」のもとのもと
「れんか」ではなく、「れんが」と読みます。「俳諧の発句」の説明の前に、まずは俳句のもとのもと、となった連歌の説明からさせてください。その方が混乱しないかと思います。
「連歌」とは、和歌を五七五(上の句)と七七(下の句)の2つに分けて、2人以上で完成させる言葉遊びです。通常は10人くらいで、五七五・七七、五七五・七七と繰り返しながら全体で百句になるまでつくり続けます。連歌は五七五と七七をそれぞれ一句と数えるため、和歌として換算した場合は五十首となります(俳句の数え方は、一句、二句‥‥。和歌や短歌の数え方は、一首、二首‥‥です)。
一句目となる発句は、あいさつ句とも呼ばれ、連歌会が行われる場所や季節感を上手に歌の中に盛り込む必要があります。それを受けて別の人が七七の二句目を続けます。さらに次の人が三句目以降を五七五、七七、五七五、七七とどんどんつなげて行きます。だから、連歌、連なる歌といいます。
●連歌のイメージ
連歌のイメージ図
言葉遊びといってもルールが複雑で、さらに雅言葉が基本のため、かなり高尚なものです。戦国時代には武将が戦勝祈願のために数日間こもって連歌会を開き、完成した百句(「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」)をわざわざ神社に奉納したほどです。かの大逆賊(?)、明智光秀も「本能寺の変」に出陣する際に連歌会を開催したとか。そういえば、2020年のNHK大河ドラマでは明智光秀が主人公なんですってね。どんな物語になるのか、いまから楽しみです。
「俳諧連歌」が、俳句の祖・芭蕉を生んだ!
高尚な連歌から派生したのが、こっけい味を旨とした「俳諧連歌」です。基本のルールは連歌と同じです。ただし、連歌とは異なり、もっとラフな言葉遊び(ダジャレなど)や品のない言葉も盛んに取り込みました。結果、武士や庶民を問わず、江戸時代になって大いに盛り上がります。この「俳諧連歌」から発句(一句目)のみを取り出し、自立した作品として磨きをかけたのが「俳諧の発句」です。
●「俳諧の発句」のイメージ
俳諧の発句のイメージ図
※俳諧連歌がはじまった当初は連歌と同じ百句が主流でしたが、芭蕉のころからは三六歌仙にちなんだ三六句の歌仙形式が多くなります。この歌仙形式を現在では連句と呼んでいます。
※発句を単独作品として創作・鑑賞する傾向は、室町時代からありました。
で、ここがちょっとややこしいのですが、一度は雅な世界から離れた「俳諧連歌」に、芭蕉は再び雅な世界観を取り込みました。でもそれは日常からかけ離れたものではなく、古典の美と自分の日常とを重ね合わせる、いわば詩的表現の追求といえるもの。芭蕉が「俳句の祖」と呼ばれる所以です。その影響を強く受け、蕪村、一茶がのちに続きます。といっても、江戸時代はずいぶんと長いので、一茶からみれば芭蕉は、現代人からみる明治時代の正岡子規のような存在だったのかもしれませんね。もうずっと遥か昔の偉人的存在。蕪村は蕪村であり、一茶はあくまでも一茶です。
松尾芭蕉(1644~1694)の名句
古池や蛙飛こむ水のおと ふるいけや かわずとびこむ みずのおと
閑さや岩にしみ入蝉の声 しずかさや いわにしみいる せみのこえ
旅に病で夢は枯野をかけ廻る たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる
与謝蕪村(1716~1784)の名句
春の海終日のたりのたりかな はるのうみ ひねもすのたり のたりかな
菜の花や月は東に日は西に なのはなや つきはひがしに ひはにしに
さみだれや大河を前に家二軒 さみだれや たいがをまえに いえにけん
※終日(ひねもす)=一日中のこと。雅語的な表現です。
小林一茶(1763~1828)の名句
我と来て遊べや親のない雀 われときて あそべやおやの ないすずめ
やれ打な蠅が手をすり足をする やれうつな はえがてをすり あしをする
痩蛙まけるな一茶是に有 やせがえる まけるないっさ これにあり
どれも名句中の名句です。小・中学校のときの教科書にも載っていたのでは?
正岡子規、登場!
江戸時代の3人の俳諧スターのあとに、彗星のごとく登場したのが、明治時代の正岡子規です。ここから「俳諧の発句」は「俳句」と呼び名を変えることになります。
子規は「俳諧連歌」など明治のうちに廃れてしまうだろうと考えていました。事実、「俳諧連歌」は明治の人々には人気がなく、すでに下火でした。文明開化の時代です。若い子規の目には風前の灯火のようにも見えたのかもしれませんね。ゆえに新聞記者だった子規は、めちゃくちゃに当時の「俳諧連歌」をコケ落し、思い切った『俳句革新運動』を新聞紙上で展開します。これにより「俳諧の発句」は「俳諧連歌」から完全に切り離され、「俳句」という独立したひとつの文芸として生まれ変わることとなりました。そして、芭蕉や蕪村などの過去の「俳諧の発句」が「俳句」として再び注目されるようになったのです。
ネーミングは大切です。現代でも名前を変えたことで、大ヒット・大ブレークした例はたくさんありますよね。ちょっと古いけれど、レナウンの「通勤快足」とか、伊藤園の「お~いお茶」とか。お笑いコンビの「くりぃむしちゅー」や「さまぁ~ず」、くまモンに代表される「ゆるキャラ」もそうだし、最近では日清食品の「カレーメシ」なんかが話題になりましたよね。あとなんだろう? いろいろあります。
正岡子規(1867~1902)の名句
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ
いくたびも雪の深さを尋ねけり いくたびも ゆきのふかさを たずねけり
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな へちまさいて たんのつまりし ほとけかな
芭蕉、蕪村、一茶、子規という希代の天才たちを経て、現代の「俳句」があります。
子規研究の第一人者として知られる俳人・坪内稔典(つぼうち・ねんてん)先生によると
古池や蛙飛こむ水のおと芭蕉 菜の花や月は東に日は西に蕪村 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺子規の三句は、俳句の代表選手のような作品なのだとか。いずれの句にも、古き良き日本の「静けさ」と「懐かしさ」があります。理想的な日本の原風景でしょうか。
いろいろな観賞、感想、考え方はあるかとは思います。しかし名句の最大の条件は、たったひとつ(最大だからひとつなんだけど‥‥)。それは時代の風化に耐え、時代を超えること。ただ、それだけ、だと思う。
俳句は日本語さえ理解できれば、誰にでもつくれるものです。季語を入れて、五七五と整えるだけなら、さほどむずかしいことはありません。ある意味それでいいのでしょう。
でも、つくり手によっては、それは「詩」となり、趣味の範ちゅうを超えて「文芸」の域にまで達します。俳句って、じつに奥深いものなんです。
つい大風呂敷を広げてしまいましたが、もしも今、俳句をはじめてみたいと思っているならば「俳句入門」的な書籍がおすすめ。ちょっと検索すればいろいろ出てきますよ。お好みのものを。
ちなみに、私の座右の入門書は、「金子兜太の俳句入門」金子兜太著(角川ソフィア文庫/2012)です。人間の大きさ、懐の深さが、読んでいてとても心地よいです。
それでは!あなたの俳句ライフに幸あらんことを!
Facebook小名木善行さん投稿記事·
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに。
今日のねずブロは《新しい未来を拓く日本》です。
世界が、支配と隷属、相手を屈服させることによってのみ成り立つ権力による支配から、何が正しいのかという価値観をもたらす歴史伝統文化に裏付けられた権威へと移行する。
権力による隷属も屈服も求めずに、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる世界を築くお手本となる。
それがこれからの日本に与えられた、最大の使命ではないかと思います。
その使命こそ、神々の御意思であり希望であると思います。
日本は、国をあげて世界のお手本になる。�その自覚と誇りを、国民も持たなければならないし、国もまたしっかりと自覚し保持していかなければならない。
これは、1300年ごとに行われる、日本の大建て替えであり、世界の大建て替えです。�
続きはブログで
https://nezu3344.com/blog-entry-4814.html?fbclid=IwAR1IPqJ-WtIPAinuGNbUNF3LB2Rn6kEhz_qOtNj3bXeYcnbTkg1RTxP4Dec 【歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに】より
小名木善行です。
日本は、7世紀と19世紀に、大きな節目を持った国です。
7世紀は、隋や唐という軍事超大国の出現による危機、19世紀はペリー来航にはじまる欧米列強の侵略による危機です。
日本の建国は初代天皇である神武天皇によるもの、そして日本の肇国(国の肇(はじ)め)は、第10代崇神天皇によるもの・・・というのが記紀の記述です。
建国というのは、人の力によって国が建てられたことをあらわし、肇国というのは、その建国された日本が、神々と相通じる、神々に認められた国になったことを意味します。
もうすこし噛み砕いて言うならば、神武建国というのは、みんなで米作りをし、その米を備蓄することで、あらゆる自然災害による危機に備え、お米によって四方八方が、ひとつ屋根の下の家族となって互いに助けあっていくことをもって国家(国を家に見立てた)ということを意味します。
また崇神肇国は、そうした助け合いだけではどうにもならない疫病に対し、神社のネットワークを通じて、神々とともに生きる国を肇(はじ)めた、ということ。
この2681年前の神武建国と、2500年前の崇神肇国によって、我が国が起こされたということが、記紀に書かれた我が国のはじまりです。
ではなぜ、神武天皇が初代の天皇なのか。
そして、なぜ崇神天皇が肇国された天皇なのか。
それをいったい誰がいつ決めたのかというと、これが1300年前の記紀編纂の時代に生きた持統天皇と、その意思を受け継ぐ人々によるものといえます。
持統天皇の時代は、1400年前の、隋や唐による外圧に対し、聖徳太子らが日本をひとつの国家にしようと尽力されたこと、さらに1350年前には白村江の戦いの大きな敗戦を経由して、あらためて我が国をひとつの統一国家としてまとめていこうとした時代にあたります。
それまでの日本は、日本各地の豪族たちのゆるやかな結合体です。
それはいわば、それぞれの州が独立した合衆国や、連邦のようなものです。
これをひとつの国家として、あらためて統一する。
そうしなければ、日本は中華に誕生した強大な軍事大国にすべて飲み込まれてしまう。
そういう危機意識のもとに、では、どうやって、何を基軸に国をまとめていくべきなのか。
これは重大な決断を伴うものです。
なぜなら、ここに二つの選択があるからです。
その二つとは、ひとつは中央権力による統一国家反対派の粛清です。
この方法を採った代表的な国に、旧ソ連や、中華人民共和国があります。
これら両国は、対立するものをことごとく排除し、粛清することで、強大な権力機構を築きました。しかし、それは同時に大量殺戮への道でもあります。
持統天皇は、これを嫌われました。
そして、粛清や排除の論理ではなく、むしろ建設的な思考による国家の統一を目指そうとされたわけです。
そのための具体的な方法が、中央の権力の強大化ではなく、中央の権威の確立です。
権力と権威は異なります。
権力は、情報力、資金力、武力の3つによって成り立ち、対立するものを、ひたすら排除します。これは、いわば「排除の論理」といって良いかと思います。
これに対し権威は、歴史伝統文化によって成り立ちます。
そして強大な力を発揮する権力に、待ったをかけれる力こそ、まさに権威です。
なぜなら権威は、価値観の根源を形成し、それによって何が正しく、何が間違っているのかを明確にするものであるからです。
権力は、人を屈服させ、支配し、蹂躙する力ですが、
権威は、人が理解し、納得し、共に力を合わせる力です。
持統天皇が目指された日本の新しい形、それこそが、まさに権威による国造りです。
そのために持統天皇は、史書の編纂を開始されました。
なぜなら、史書は、全国の豪族ごとにまちまちな歴史を、日本というひとつの国の歴史として共通化し、標準化するものであるからです。
そして、新たな文化として、漢字を用いて大和言葉を記すという、当時としてはまったく新しい文化の創造を図られました。
このふたつの政策による成果が、史書としての記紀であり、文化としての万葉集の編纂です。
そしてこのふたつがそろったとき、日本は、それまでとはまったく違った、稲作を中心としてまとまる国として、神武創建、崇神肇国、そして歴代天皇による知らす国を求め、また互いの思いやりを基準とする和歌の文化を形成することとなりました。
世界の歴史には、力によって築かれた様々な王国が登場し、それらが新たに興った力によって消えていきましたが、日本だけは、歴史伝統文化という権威の持つ力によって、新たに興る力によって倒されることなく、以後1300年にわたる歴史を紡ぐことができました。
ですからこれは本当に、人類社会の規範となる偉大なことということができます。
その持統天皇の時代から見た神武創業が、ちょうど1300年前です。
そして持統天皇の時代から現代までが、やはり1300年です。
持統天皇の時代に、築かれた国というのは、稲作を中心とした国家の建設です。
冷蔵庫がなかった時代に、10年単位の備蓄ができる食料は、唯一、お米だけでした。
ですからこのお米を用いて、互いに助け合って生きることができる国が目指されたわけです。
しかしその分、稲作ができないクニ、もしくは稲作以外の食料を主食とするクニや人々は、たいへん苦しい思いをすることになったことも事実です。
たとえば九州の熊襲や、東北から関東にかけての蝦夷は、中央朝廷に度々反乱を起こしていますが、熊襲の住む地域はシラス台地で火山灰土のため、稲作ができません。
また稲が熱帯性植物であるがために、寒冷地帯に住む蝦夷民たちは、やはりお米をつくることができない。
そのため、稲の代わりに労働力を提供し、それは度々若者たちの死をもたらしましたから、それによって若い男性の地元での労働力に不足が出れば、これはもう反乱するしかない。
熊襲がお米ではなく、外国との交易によって、蝦夷が算出する黄金によって、お米に変わる別な生産物を、人の代わりに税として収めることができるようになるのは、ずっと後の時代になってからのことです。
そうした様々な葛藤を抱えながらも、日本は、最終的には権力よりも権威がものをいう社会として、世界に類例のない、平和で豊かな国を、この1300年の間、築いてくることができたということができます。
ここまでが、7世紀における偉大な改革です。
ふたつめの改革が、19世紀にはじまる改革です。
嘉永6年のペリー来航以降、日本は欧米列強に追いつき追い越せと努力を重ね、ついに1941年には全面衝突の戦争となり、日本は本土を灰塵に帰する敗北を喫しました。
それでも日本は、努力を重ねて、ふたたび経済力を盛り返しましたが、今度はその経済力を直撃されて、平成以降、経済成長も停まったままになっています。
日本の歴史を振り返ると、いつも思うのですが、時代の混乱の中で多くの日本人が悩み苦しんだことが、大きな歴史の物差しで見ると、それらが結果として良い結果を生んでいることに気付かされます。
たとえば、源平合戦は、それまでの500年続いた平和と繁栄の世を、まさに戦乱におとしめた戦いでありましたが、その経験があればこそ、日本は、その100年後の元寇を、見事に跳ね返すことに成功しています。
また戦国時代は、たいへんな混乱期ではありましたが、その戦国時代があればこそ、日本は世界最強の軍事超大国となり、欧米列強の有色人種国の植民地化の圧力を跳ね返し、鎖国を続けることに成功し、また鎖国を解いてからは、世界から植民地を駆逐するという大偉業を成し遂げています。
もちろん、その途上においては、多くの人々の悩みや苦しみ、経済的な破綻などの混乱の連続があるものの、歴史を結果から見ると、最終的に、すべてが最もよい形に収まってきた、というのが日本の歴史です。
このことは、まさに「神々の御意思」としか言いようがないとさえ、いうことができると思います。
そういう意味では、幕末のペリー来航以来の日本の混乱は、いまなお継続中であり、外国かぶれになってしまう者、みずから率先して日本人の国益を外国に売り渡すことで個人的な利益を得ようとする者など、さまざまな混沌があふれていますけれど、それらを総合してみたとき、日本はいま「第三の建国のときを迎えている」と、そんな気がします。
第一の建国が2600年前の「神武創建と崇神肇国」です。
これらは(ひとつの見方として)、1300年前の持統天皇の時代に、あらためて着目されたものといえます。
第二の建国は、まさにその持統天皇の時代の、「教育と文化による国造り」です。
この第二の建国こそ、この1300年間を支配してきた日本の根幹にあるものです。
そしていま、これからの1300年を決定する、三度目の大きな建国の時期が来ているということができます。
そうであれば、いま我々が選択することが、これからの1300年の日本を築き、また世界に大きな影響を及ぼすことになります。
では、その選択の根幹にあるものは何でしょうか。
答えは、世界を支配してきた権力を、日本の歴史伝統文化に裏付けられた権威が乗り越えること。
世界が、支配と隷属、相手を屈服させることによってのみ成り立つ権力による支配から、何が正しいのかという価値観をもたらす歴史伝統文化に裏付けられた権威へと移行する。
権力による隷属も屈服も求めずに、誰もが豊かに安全に安心して暮らせる世界を築くお手本となる。それがこれからの日本に与えられた、最大の使命ではないかと思います。
日本に与えられた使命なら、それは神々の御意思であることを意味します。
日本は、国をあげて世界のお手本になっていかなければならない。
それは軍事によって優位を得、教育によって現地を植民地から解放するという戦前戦中の日本の形とも異なる方向です。
世界を変えるのですから、江戸時代のような鎖国でもありません。
1300年前の日本は、教育と文化によって農業中心、生産者中心の日本を築きました。
そのとき日本がお手本にしたのは、その時点からさらに1300年前の神武創業でした。
今度の日本の戦いは、武器を持たない戦いです。
それは心の戦いであり、対立や闘争ではなく、やさしさと愛と勇気の戦いであり、教育と文化の戦いです。
あたりまえのことですが、世界から争いを無くしたいのなら、いまの左の人たちのように、いたずらに争いを仕掛けるようではだめです。
それではどこまで行っても、対立と闘争の社会しか生まないからです。
対立よりも、秩序と議論と和が大切という文化の創造がなければ、むしろ既存の社会との間に軋轢を生むのが当然です。
これからはじまる令和の世、そして21世紀は、世界が圧倒的な規模で大きく変わる時です。
その変化を、より良い方向のものにしていくのか、一部の人達の利権だけに引きずられて行くのか。
それは、いまを生きる私達の選択によって決まります。
これは、1300年ごとに行われる、日本の大建て替えであり、世界の大建て替えです。