「浮世絵と人物の特定」
神話画の中で、美女が複数描かれているとき、どのようにして人物を特定するのか。それは「アトリビュート」(絵画や彫刻などで、神あるいは人物の役目・資格などを表すシンボル)による。例えばルーベンスの「パリスの審判」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。「パリスの審判」とは、トロイ戦争の原因になった、3人の女神(ヘラ、アテナ、アフロディーテ[ヴィーナス])の中で誰が一番美しいかを羊飼いのパリス(実はトロイの王子)に決めさせようとした審判のこと。3女神の外見上の特徴がはっきりあるわけではないので、アトリビュートで判断することになる。ヘラは孔雀、アテナは槍や盾、鎧などの武具、ヴィーナスは息子のエロス。宗教画でも、複数の聖人が同時に描かれているときもやはりアトリビュートで判断することになる。
では、浮世絵の美女についてはどうか?名前が書かれている場合以外、その人物に関係する家紋が多くの場合人物特定の鍵になる。それもない場合、浮世絵らしい特定手段に絵の中に描かれた「判じ絵」がある。「判じ絵」とは、あるものの絵を使って、その絵が表わす言葉と同じ発音の別の意味の言葉を表現し、それを当てさせるようにしたもの。江戸時代を通じて庶民の知的娯楽のひとつだった絵による「なぞなぞ」だ。
例えば、歌麿「高名美人六家選 難波屋おきた」。桐紋は描かれておらず、茶屋娘であること以外この美人が「難波屋おきた」であると特定するのは絵の中の「判じ絵」。そこに描かれているのは、菜っ葉が二把、矢、沖、田。これを読み解くと菜っ葉(な)が二把(にわ)、矢(や)、沖(おき)、田(た)で、「なにわやおきた」となる。
それでは、歌麿「名所腰掛八景 鏡」はどうだろう?「名所腰掛八景」は、江戸で評判の水茶屋の美人を描いた八枚シリーズ。その中の1枚の「名所腰掛八景 鏡」が」難波屋おきた」だと、名前も、家紋も、判じ絵もない中でどうやって特定するのか?この場合は、絵の中に書き込まれた俳句による。
「風すずしそのの志おりや難波かた」
「難波かた」だけから、「難波屋」が連想されるにしても、もう少し深い関連がある。 「難波かた」は「難波潟(なにはがた)」。もちろん「難波方」つまり「難波屋の方へ」という意味もかけている。「そののしおり」は「園の枝折」。「枝折」とは、山道などを歩く際、道に迷わないように目印に枝を折って道しるべとすること(ここから意味が転じ、書物の間に挟んで目印とするものや、案内書などを「栞(しおり)」と言うようになった)。 芭蕉の句にも、雪間に見える根深(ねぎ)を道に迷わないための枝折(目印)にしようという俳句がある。
「今朝の雪 根深を園の 枝折かな」
要するに、「風すずしそのの志おりや難波かた」は、「涼しい風が、園の枝折を目印にして、迷わないように吹いて「きた」よ、「難波屋」のほうに」という意味になり、「難波屋おきた」をあらわすことになる。ずいぶんと手が込んでいる。それにしても、江戸っ子たちは、言葉遊び、知的ゲームをずいぶん好んだようだ。当時世界トップ水準にあった教育の成果だろう。今の教育は、知性、感性を磨き、個性を伸ばし、文化を豊かに享受できる人間を育てられているのか。
(ルーベンス「パリスの審判」プラド美術館)
(ルーベンス「パリスの審判」ロンドン ナショナルギャラリー)
歌麿「高名美人六家選 難波屋おきた」
(歌麿「名所腰掛八景 鏡」