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Okinawa 沖縄 #2 Day 247 (22/03/23) 旧首里南風平等 (3) Tonokura Area 首里当蔵町

2023.03.23 07:14

旧首里南風平等 首里当蔵町 (とうのくら、トウヌクラ)


今日は自転車で中城村に行く予定を立てていた。朝起きてWBCを見始め、途中で切り上げ出発しようと思っていたのが、緊迫した試合で最後まで見てしまい、お昼になってしまった。そこで、予定を変更して、首里区で未訪問の内の首里当蔵町を巡る事にした。当蔵町内には首里城があるのだが、そこにはこれまで焼失前と後に何度か訪れている。それをまとめた首里城の訪問記は別途作成する。



旧首里南風平等 首里当蔵町 (とうのくら、トウヌクラ)

当蔵は、王府時代には首里三平等の一つ南風之平等 (フェーヌヒラ) に属していた。北端には儀保川 (ジーブガーラ) が北西に向かって流れている。 首里古地図では当蔵には田や畑がなく、首里城を中心として東西の通りにはユカッチュと呼ばれた多くの王府の高級士族の家屋敷が立ち並んでいた。

当蔵には安谷川御嶽、アーケージュー御嶽、国中城御嶽があった。 アーケージュー御嶽は、上の毛の東端の肩ヌ端 (カタノハナ) にあって、首里大あむしられが毎年稲穂祭を執り行って、国中の豊作を祈願していたと言われる。当蔵には寺院も多く建てられていた。王家の菩提寺の円覚寺や天王寺のほか、蓮華院、建善寺、伍徳院などがあった。 また、高所、貝摺奉行所、国学などの諸役座がおかれ王都の中心地だった。

廃琉置県後も、首里区役所、沖縄師範学校、県立工業学校が設置され、郵便局、医院、写真館、商店が軒を連らね、首里の中心街としての役割を果たしていた。戦後は首里城跡に琉球大学が開学、上の毛には沖縄キリスト教短期大学が置かれたが、首里城復元工事で西原町へ移転している。民家は琉球王国時代から首里当蔵町の北側にあり、南側は首里城とその周辺の公共施設となっていた。これは現在も同じで、北側の居住地区の密集度が増しているだけ。

首里城公園が皆に半分を占めていることから、住宅街が拡張する余地が少ないことによるのだろう、明治時代の人口から現在の人口は30%程減少している。戦後人口が増加した時期もあったが、これは琉球大学が首里城跡に開校したことで、学生がこの当蔵に多く住んでいたことにより。琉球大学が西原町上原に移転した際には、学生人口がそのまま転出し、人口が激減しているのが判る。現在は人口の減少傾向が続いている。

首里区の中での当蔵町の人口の位置づけでは、明治時代には6番目に人口が多い地域だったのが現在では、人口の少ない方から7番目となっている。


首里当蔵訪問ログ



現在の首里当蔵町は三つの地域に分かれている。琉球王国時代には南半分は首里城や諸役座がおかれており、廃藩置県後も公的機関の用地として使われていた。現在の三丁目はほとんどが首里城公園となっている。現在の龍潭通りの北側が当蔵村の人々が住んでいたところで、その西側が一丁目、東側が二丁目になる。まずは大中町と隣接している当蔵一丁目の龍潭通りの北側から見ていく。



安谷川坂 (アダニガービラ)

中城御殿跡の東側石垣沿いに北に伸びるかつての宿道 (しゅくみち) の中頭方西海道 (なかがみほうせいかいどう) は安谷川坂 (アダニガービラ) に通じている中城御殿跡の東北隅から下ヌ橋口まで下り坂になっている。この坂道沿いにある湧泉の安谷川 (アダニガー) に因んでこの坂の名が付けられている。戦後しばらくは石道もあったが、現在は舗装路になっている。坂の通りには安谷川御嶽もあるのだが、地番は当蔵町なので、当蔵町の訪問記で触れることにする。


安谷川御嶽 (アダニガーウタキ)

安谷川坂 (アダニガービラ) 沿いには安谷川御嶽 (アダニガーウタキ) が鎮座している。首里大阿武志良礼の管掌する首里城外八御嶽の一つだった。 かつては木々が御嶽をおおっていたそうだが、現在ではなくなっている。この御嶽は当蔵村の御願所で、石垣と石道で整備され、宝珠を載せた石造アーチ門があり、内側には石囲いをした拝所がある。宝珠には「不幸災難を除き、濁水を澄ませ、水の色をも変える徳がある」とされることから、安谷ガーの水神をも合せて祀っていたとも考えられる。拝殿門の右脇にある石碑には、1814年 (尚瀬2年) に美里王子以下当蔵村の有志で大修理を行ったこと、若者どもが御嶽内をうろつき遊び戯れているとも聞くので、石垣で囲い隙間は木を植えると記されている。

御嶽から更に奥に道がある。何かがあるだろうと、道を進んでいくと洞窟があった。


洞穴内には拝所があった。この洞穴が安谷川御嶽の神座と考えられている。沖縄戦で避難壕として使われ、住民を戦火から守っている。


板井戸 (イチャガー)

安谷川御嶽の前の坂道を下って、下之橋 (シムヌハシ) の東側儀保川 (ジーブガーラ) 沿いの崖下に板井戸 (イチャガー) がある。井戸口を板で囲っていたことからとか、イタは崖の事から、この名がついたと諸説ある。井戸は当蔵村内にあるが、垂直に近い崖下にありアクセスが難しく当蔵村の人たちは利用できず、隣の儀保村の人達が川の中に飛び石を置いて、川を越えてこの井戸を利用していた。当蔵の村人に嫌がらせも受けたと伝わる。


下之橋 (シムヌハシ)

安谷川坂 (アダニガービラ) を更に下ると、儀保川 (ジーブガーラ) には下之橋 (シムヌハシ) が架かっている。ここが当蔵、儀保、大中村の3つの村の境界線になる。上流にある上之橋 (ウィーヌハシ) に対して下之橋と呼ばれている。


当蔵村学校所 (ムラガッコウジュ) 跡

安谷川坂 (アダニガービラ) の坂上に戻り、その東側には琉球王国時代、1835年 (尚育1年) 以降に、旧小禄殿内屋敷内に開学された当蔵村の村学校所跡があり、立基館とも呼 ばれていた。当時、村学校では教育だけでなく、村の風俗衛生その他の事務を取り扱う役場でもあり、経費は各村独自でまかなっていた。村学校所は7~8歳で入学し15~16歳で終えていた。首里地域内の村の数は19カ村で村学校所は14校で、設置されていない村の子弟は最寄りの村学校所へ通っていた。


次は一丁目の東にある二丁目を巡る。この地域が当蔵村の中心だった。



村屋 (ムラヤー) 跡

当蔵村学校所から東に道を進んだところに広場があり、その中に空手道場がある。当蔵の公民館も兼ねている。かつての村屋 (ムラヤー) だった。王府時代は首里には士族が住んでおり、この士族には貢租を収める義務はなかった。それで、主に税の徴収が主の業務だった村屋の性格は首里と他の間切の村屋とは少し異なっていたようだ。 首里三平等や町方の那覇泊では。前庭の向端に丸形石盤が約10個置かれているんだが、これは何に使われていたのだろうか?石臼の一部だろうか?


津嘉山山 (チカジャンマー)

村屋 (ムラヤー) の東北、首里川 (儀保川) 南岸の斜面の畠一帯を津嘉山山 (チカジャンマー) と呼んでいた。古代にあったという塚か、また、この場所に津嘉山姓の人がこの地を所有していたことからこう呼ばれたとも伝わっている。


泰山石敢當

村屋跡から津嘉山山 (チカジャンマー) への坂道を載った所に、石敢當がある。この石敢當は少し珍しい少し泰山石敢當で時々見かけるぐらいだ。表面に泰山石敢當と文字が彫られているが、「泰」の字が削られたようになっている。 言い伝えによ ると、琉球王国最後の王、尚泰の字をはばかって削られたと伝わっている。


後の道 (クシヌミチー)

村屋跡の道に並行して南に通る小径が当蔵村の後の道 (クシヌミチー) だったそうだ。当蔵大通り (現龍潭通り) が前道 (メーミチ) だったので、かつての当蔵村はこの二つの道の間にあった事が判る。


伊江殿内 (イエドゥンチ) 庭園 (巣雲園 ソウウンエン)

後の道を東に進んだ突き当たりは伊江殿内屋敷跡になる。 殿内の屋敷内には、広くはないのだが、琉球王国時代の代表的な庭園が残っており、巣雲園と呼ばれていた。残念ながら、敷地は金網で囲まれて中には入れなかったが、庭園跡と判るものを見ることはできる。この庭園の築造年代は不明だが、薩摩の花遊軒 (相良市郎兵衛) から造園法を学んだ伊江家の分枝宜寿次殿内の二世朝得 (雲淵堂・伊江親方朝睦の実弟) とされ、冊封使を招待し宴を催すことが王子や摂政、 三司官の重要な役目であったため、その歓迎のための造園がなされたと推測されている。当時の庭園は中国庭園の影響と考えられ、自然の岩山に大小の奇岩を巧みに漆喰で塗り固めて、漆喰で陽刻された趙文 (尚温の冊封正使) が明代の人王越の詩「小金山」の「一水尽頭僧釣月 万松深処鶴巣雲 (一水尽くるあたり僧は月に釣り 万松深き処 鶴雲に巣くう)」 の一句から題されたた「巣雲」、 李鼎元 (同副使) が当時三司官であった伊江親方朝睦の書斎に名付けられた「瀬石山房」。謝道承の筆とされ、この家の幸福を願って題された「喜」の篆刻 のほか、伊江家とこの名勝の常しえを祈念した「常」の文字が随所に配置されていたそうだ。

伊江殿内 (イエドゥンチ) の前の家には古い井戸跡が残されていた。釣部も残っており、当時はこのような井戸が各屋敷跡にあったのだろう。 


天王寺跡、首里教会

伊江殿内から龍潭通に出て、東に進んだ所に首里教会が建っていた。首里教会の開拓伝道は、1907年 (明治41年) に識名殿内屋敷で始められ、翌年1908年 (明治42年) に日本メソジスト教会首里教会として認可され正式に発足している。1912年 (大正元年) に先に訪れた伊江殿内屋敷に移転している。1933年 (昭和8年) にこの地を購入し教会を建設した。首里では最も古いキリスト教の教会になる。1944年 (昭和19年) 教会堂は軍部に接収され、教会は当蔵町へ移転した。沖縄戦では首里は激戦区で首里教会には日本軍の通信部隊が置かれていたため攻撃を受け建物は破壊された。戦後、1946年にこの地に教会が再建された。沖縄戦で破壊を免れた十字架が礼拝堂に保存されていたが、2008年に創立100周年記念事業として旧会堂塔屋と十字架 (写真右下) を復元されている。

首里教会は第二尚氏王統の初代尚円王が王位につく前に住んでいたところで、第三代尚真王はこの地で生誕している。尚真によって成化年間 (1477 ~ 1487年) に、風水の良い地としてこの地に寺が創建され、「福と徳の極 りなき」を祈って福徳山とし、「護世天王を本尊」とすることで、天王寺と号したことを伝えられている。開基は円覚寺同様佛智圓融国師と諡号された芥隠和尚。 その後、国王は円覚寺、王妃はこの天王寺、未婚の王子と王女は天界寺に祀られ、尚家の菩提寺でもあった。 国王の元服・即位の時には、この三箇所の寺を行幸する慣わしとなっていた。



次は龍潭通りの南側を見ていく。



首里公民館

天王寺跡 (現首里教会) の前、龍潭通りを渡った所には那覇市首里公民館が置かれている。1983年 (昭和58年) に設置されたもので。かつては蓮小堀 (リングムイ) だったところを埋め立てられ、首里バスターミナルとなり、その後首里公民館となっている。


蓮小堀 (リングムイ) 跡

首里公民館のある場所は、琉球王国時代には蓮小堀 (リングムイ) と呼ばれた池だった。リンとは蓮のことで池には蓮の花が咲いていたといい、クムイは池や沼の意味になる。 第一尚氏の尚巴志が首里城整備のために、1427年 (尚巴志6年) に掘られた龍潭と時を同じくして掘られたと推測される。首里古地図にも描かれているように、この池に出島があり、蓮華院が建立されていた。龍潭やこの蓮池は、単に景観や眺望のみに掘削されたものでなく、高台にある首里の中央部から西辺の山川あたりまでの水源池の役割も果たしていた。このクムイには、六か所ほどの湧水源があったという。 戦後、県道の整備や琉球大学の運動場の整備のため埋められてしまった。その跡地は、首里バスのターミナルとなり、その後、那覇市役所首里支所 (後に久場川町へ移転) や首里公民館が建てられた。

この蓮小堀には沖縄芝居で有名な義賊の運玉義留 (ウンタマギルー) の一つの舞台となったの場所でもあった。色々なバージョンがあるが、一般的に伝わっている物語は

運玉義留は御殿に奉公していたとき、主人から「お前がいくら頑張ってもせいぜい掟理 (ウッチサバクイ、村役人)  程度」といわれ発奮。 な らば盗賊になって名を残そうと考え、油喰坊主 (アンダクウェーボージャー) と一緒になって、西原町と与那原町の境にまたがる運玉森を拠点とする義賊となった盗んだ金は貧しい者に配っていた。ある日、首里城の王の寝所に忍び込んで金の枕を奪うことに成功たが、床下の物音に気がついた王は槍を一突きし、穂先は運玉義留の足を深く貫いた。その手ごたえに、王と警備の兵は急ぎ床下に向かうが、運玉義留は逃走に成功したあとだった。深手を負ったまま、かろうじて本拠地の運玉森に逃げ込む運玉義留。王は盗賊を捕えるべく追っ手を運玉森に放つが、運玉義留を慕う農民が多く、誰も運玉義留の居場所を口にしなかった。また、農民たちは食料を運玉義留に運び、誰しもが匿おうとする。だが、その動きは王の放った追っ手の知るところとなり、運玉義留は完全に包囲されてしまう。濁った沼に身を潜めるが探索の手はゆるまず、死を免れない程の怪我を負っても、運玉義留は追っ手が去るまで水中に隠れきった。そのまま見つかることなく息を引き取った運玉義留は、とうとう最期にいたるまで官憲に捕まらなかった。遺体は農民らにより発見されるが、役人に引き渡したりはせず手厚く葬った。

この蓮小堀は運玉義留が盗みの後、逃走中に蓮小堀に飛び込み、池に生えていた蓮の茎で息をして逃げおおせたと伝わっている。この運玉義留はフィクションで実在人物ではなかったのだが、この時代18世紀初頭の1709年は、記録的な大飢饉の発生した年で、飢餓はその後も度々発生し、琉球の封建制度は激しく動揺した時期だった。揺らいだ支配体制の只中で、民衆を救う反権力的な存在として作り出されたのが運玉義留だったという。

18世紀中盤には唄や語りとして民衆に定着し、明治20年には沖縄演劇の演題になり、現在でも小説や映画の題材として人々の間に浸透している。沖縄版鼠小僧ともいえる。


天王寺井戸 (テンノウジガー)

首里公民館の横に天王寺井戸 (テンノウジガー) がある。 天王寺創建時には寺域に井戸がなく、この当蔵の村井 (ムラガー) を利用していたと伝わっている。


万松院

蓮小堀 (リングムイ) 跡の東側一帯は寺町と称して、数カ寺院が隣り合っていた。その旧寺町の中には万松院がある。円覚寺の住職だった、□ (国がまえにカ) 翁禅師の隠居寺として、現在地の向かいの地に岩頂山万松院として創建された。 その後、天授山万松院と号し、天授山の扁額が尚敬王の冊封副使徐葆光の手で揮毫されている。王府時代に崎山村や名護へと移転を繰り返し、 明治年間に伍徳院があった現在地に移ってきている。 沖縄戦で、万松院は全焼したが、 戦後間もなく寺は再建され、周辺に散らばる遺骨を集め、 慰霊の塔を建立した。2009年に現在の寺の建物や禅寺特有の枯山水の庭などが新築されている。


広徳寺跡

琉球王国時代、蓮小堀 (リングムイ) の西隣には天王寺の末寺にあたる天龍山広徳寺があった。1674年 (康熙13年) に尚弘毅 (大里王子朝亮) は資財をなげうって広徳寺に堂を建立し、1694 (康熙33年) には世子の尚純より普護群生を揮毫した額を賜っている。1751年 (乾隆16年) 外間通事親雲上は江戸に赴く楽人らに楽を広徳寺にて教授していた。この近くにはやはり天王寺末寺の建善寺や蓮華院などがあった。


国中城御嶽 (クニナカグシクウタキ)

万松院の側から首里城公園の上の毛 (ウィーヌモー) へ登る小路がある。そこを登り、首里城城壁の下側に国中城御嶽 (クニナカグシクウタキ) がある。城内の御嶽と同等に扱われた重要な御嶽で察度王が最初の首里城の築造に先立ち、ここに土地の守護神として御嶽を造り工事の無事を祈る儀式を執り行ったと伝わる。弥勒御迎え (みるくうんけー) の祭主である大石川 (うふいしちゃー) 家との関連も伝えられている。琉球国由来記には「国中城ノアマフレダケノ御イベ」と記載されており、地元では「クンユリ 御嶽」とも呼ばれていた。「クンユリ御嶽」は、察度の重臣として首里築城と首里都邑構築の責任者と推測される寿礼致の後裔とされる大石川 (ミルク石川) との関係が深いとの口碑があり、国中城御嶽脇の野道は、赤田の寒水川ガーの後方から大石川の屋敷近くに通っていたそうだ。国中城御嶽の東の崖下には、大石川に関係した人物の洞穴墓があったが、沖縄戦で、白磁の骨壺は行方知れずとなり、洞穴墓もコンクリート大擁壁に閉ざされてしまった。


拝所

国中城御嶽の手前にも拝所がある。この拝所の名は記されていないのだが、祠の中には首里上之毛御先御頭介、御先ミルク神、雨霊神、神、その他判読不能の二つの石碑の合計6つの拝所を合祀している様だ。どうも、首里城公園の造成の際にここに移し祀っている様だ。御先ミルク神が祀られているので先の国中城御嶽で記載した弥勒御迎え (みるくうんけー) の祭主である大石川 (うふいしちゃー) 家の拝所とも思われる。


上之毛 (ウィーヌモー)

国中城御嶽と拝所は首里城と連続する丘陵地にあり、この場所は上の毛 (ウィーヌモー) と呼ばれている。首里城が王城として整備される以前は、この場所がグスクとして存在していた。 首里城築城の際に、この地は首里城から切り離された。 後に、東からの攻撃に備えて、上之毛の東端に肩ヌ端 (カタノハナ) に出城を築いたといわれている。 城内の東のアザナから中城湾や西原方面を監視できるようにと、台地上の樹木を伐採し松の木に植え替えたと伝わっている。戦後、この地に沖縄キリスト教短期大学が開学したが、首里城再建の際に西原町へ移転している。


肩ヌ端 (カタヌハナ)、アーケージュー御嶽

上之毛の東端の崖上には、首里城築城後、東からの敵の侵入を防ぐために出城が造られた。肩ヌ端 (カタヌハナ) と呼ばれていたが、古くは、嘉多農波那と記載されたものもあった。近世は、片の端また片の花とも書かれている。上の毛の稜線の肩の端からそう呼ばれた。また、1609年 (尚寧21年) の薩摩の琉球侵略の際の激戦地であったことで、「刀の華」と呼ばれるようになり、それが肩ヌ端に変化したとする説もある。沖縄戦で、稜線の肩の部分がもろくなり、危険だったの肩が撤去され、肩の端は消滅している。今では新しい方の部分には東屋が置かれ観光客の休息所となっている。かつては、この上の毛の東端の肩ヌ端にはアーケージュー御嶽 (アカス森ノ御イベ) があったのだが、これも消滅してしまった。


龍神 (天水龍大御神)

肩ヌ端の東屋の外側に変哲もない石が置かれている。これは今まで訪問した琉球龍神伝説の拝所の一つだそうだ。今までの龍神の拝所には銘碑が建てられ、霊石や祠、香炉などが置かれていたが、ここにはこの石のみだ。少し気の毒な気がする。

ここで祀られているのは神世一代の天龍大御神 (てんりゅうおおおんかみ) [天久 先樋川 べーべー嶽] と天久臣乙女王神 (あめくしんおとめおおおんかみ) [天久 ガマ樋川嶽] の間に三男として生まれた神世二代 天水龍大御神 (あますいりゅうおおかみ) になる。 これで龍神伝説の主要な20の龍神も18を巡り終えたことになり、あと二つとなった。


瀬戸井戸 (シドゥガー)

上之毛 (ウィーヌモー) の東側は龍潭通りが走っており、琉球王国時代にはその場所に瀬戸井戸があったという。1721年 (尚敬9年) の大旱魃の時、普請奉行の任姓屋我家六世忠真により掘られたが、戦後の道路の拡幅で消滅してしまった。、道路下に小さな井戸があった。 この辺りは、上の毛の稜線がせり出し、弁之岳を源とする鳥堀町や汀良町一帯の表流水の流出口となっていて、瀬戸 (シドゥ) になっていた。それで「瀬戸にある井戸」という意味で瀬戸井戸 (シドゥガー) と呼ばれるようになったと思われる。


風車 (カジマヤー)

龍潭通りの中城御殿跡まで戻る。中城御殿跡の東を通る道と龍潭通りが交わる場所を風車と首魁されていた。カジマヤーと読むとなっていた。四差路の事をカジマヤーというのは知っていたが、このカジマヤーが風車の事とは初めて知った。道路が風車のように十字に交叉していたことでこう呼ばれていたという。首里でカジマヤーといえばここの事だった。 王府時代、中頭方、国頭方への西海道の宿道は、首里城歓会門をでて右折し、 園比屋武御嶽の東側ハンタン山を下り、龍潭と弁財天池に架る龍淵橋を経て松崎馬場を抜けると、このカジマヤーに出ていた。


松崎馬場 (マチジャチゥンマウィー)

中城御殿跡の東南隅の風車 (カジマヤー) から、龍淵橋への道を松崎馬場 (マチジャチゥンマウィー) と呼んだ。西海道の宿道の一部だった。この馬場沿いに琉球松が植えられたことからそう呼ばれていた。

1801年 (尚温7年) に国学が創建された際、首里三平等と泊村の士族や庶民によって、嘉木が植えられ、白沙が敷かれたと伝わる。

1886年 (明治19年) に、沖縄県師範学校がこの地に移転したきた際に校地拡張で松崎馬場は消滅してしまった。松崎馬場が始まっていた部分は芸大の駐車場になっている。

その先は龍潭に沿って伸びていた。

県立芸大の施設建築の際に、上半分漆喰ぬりの石積の孔子廟の基壇が発見され、往年の松崎馬場も一部も見つかっている。県と那覇市では、この松崎馬場を復原させる計画があるそうだ。


万金丹橋 (マンチンタンバシ)

龍潭通りから沖縄県立芸術大学に入る道路の始まり部分には、蓮小堀 (リングムイ) からの疏水である大溝に、一枚石の蓋が七、八枚を架けた万金丹橋 (マンチンタンバシ) があった。大石の蓋の様子が、清涼剤の万金丹の形にみえたことで、このように呼ばれていたそうだが、今はその橋もなく、当時の風雅な風情は失われている。


真壁御殿跡 (マカビーウドゥン)

万金丹橋を渡った右側には琉球王国時代には真壁御殿の屋敷が置かれていた。


工業学校跡

万金丹橋から道を進んだ左側には、中城御殿用地接収のため、屋敷替えになった大村御殿などが1870年 (明治3年) に移されていた。1902年 (明治35年) に琉球漆器復興を目的に首里城内に設立された首里区立工業徒弟学校が、1914年 (大正3年) には当初の漆器科に加え、建築科、家具科、漆工科の三科を追加している。その後、1918年 (大正7年) にこの場所に新校舎を建設して移転してきて県立工業学校として戦前の工業学徒の教育の場となった。沖縄戦で校舎は灰燼に帰し、この地における工業教育は幕を閉じている。


貝摺奉行所 (ケージーブジョージュ) 跡、沖縄県師範学校附属小学校跡

道の右側は沖縄県立芸術大学になっているが、かつて琉球王国時代には王家御用・献上・贈答用の漆器製作に係る事務及び指導・監督する首里王府の役所である貝摺奉行所が置かれていた。1612年 (尚寧24年) 毛氏保栄茂親雲上盛良が貝摺奉行に任じられ、貝摺師、 絵師等の職人を監督し、漆器の形状、図案が決められたほか、数量及び材料等に係る金銭の出納などの生産管理も行なわれていた。 特にここで制作された夜光貝を原材料とした螺鈿細工の漆器は、 中国皇帝や江戸の将軍への献上品、高価な芸術品として高い評価得ていた。 その後、那覇の西村にあった沖縄県師範学校 (1880年明治13年に会話伝習所として発足) が1886年 (明治19年) に附属小学校と共に首里当蔵に移転し、この場所には附属小学校が置かれていた。現在は沖縄県立芸術大学の管理棟となっている。


高所 (タカジュ) 跡、国学跡、沖縄師範学校跡

貝摺奉行所跡、沖縄県師範学校附属小学校跡のとなりには琉球王国時代には高所 (タカジュ)、国学、その後は沖縄師範学校が置かれていた。

高所は1669年 (尚真1年) に創設され、琉球国内の田畑から上がる収穫量等石高に係る事務や、地方を回って農民の労働状況等を調査し租税を決めていた。中国、日本への出入国の際の検査や、貨物の点検等も行なっていた。 その後、田地方という役所を新設して農業に関する事務を移管し1879年の廃琉置県で廃止なるまで機能していた。

国学は1798年 (尚温4年) に創建を発布し、世子殿 (現首里高校々庭) の一部を使用し、公学校所として設建された。その際の経緯については桃原町を訪問したレポートに記している。現在の沖縄県立芸術大学の敷地の大半が国学跡になる。県立芸大の施設建築の際に、上半分漆喰ぬりの石積の孔子廟の基壇が発見されている。

廃琉置県で国学は廃校となり、1880年首里中学校と改称された。その後、1886年 (明治19年) に沖縄師範学校が移動してきたことにより、 首里中学校は真和志町の中城御殿跡に移つり、 現在は首里高校となっている。 沖縄師範学校は、戦争で破壊・焼失し、自然廃校となり、現在は県立芸術大学の敷地となっている。


首里市役所跡 (ヤクス)

高所跡の道を挟んだ所には首里市役所が置かれていた。王府時代は円覚寺の寺域で、慎終堂がおかれ、先王の回忌の際、位牌を遷座し祭祀した場所だった。 1896年 (明治29年)、特別区制で首里区となり、1921年 (大正10年) に首里市に移行しここに首里市役所が置かれたが、沖縄戦で市庁舎は焼失している。現在では、県立芸大の附属図書館や芸術資料館が設置されている。


円覚寺 (ウフウティラ)

円覚寺は琉球の臨済宗の総本山で、1492年 (尚真16年) に三代尚真王が父尚円王の霊を祀るために創建し、以後、第二尚氏王統歴代の国王廟所になっていた。寺の構造は鎌倉円覚寺に似せ てつくられたと伝えられている。


総門

総門は第一門で正門にあたり、正面中央に西面して円鑑池に相対している。総門は1697年 (尚貞29年) に他の堂宇と共に修復されている。 

左右に仁王仏像が安置されていたが戦争で焼失したが、1968年に復元されている。


放生池 放生橋

惣門を入ると山門の間には長方形の放生池 (ほうじょういけ) が設けられている。地元ではワジリガーラと呼ばれていたそうで、ワジリとは「沸きたっている」の首里方言で「殺生すると池の底にある沸きたっている地獄池へ落される」という意味で名付けられたという。今は放生池と呼ばれているのだが、放生とは「捕えた生物を放ちやること」の仏教語だそうだ。池の周囲は琉球石灰岩の切石積みで、歩道が設けられ、大雨などの満水時には、その歩道壁に彫られた牡丹などの花心から水を伏流させ、円鑑池へ落とすように仕掛けられていたそうだ。放生池には放生橋がかけられている。 放生橋は中国で輝緑岩を使い作られ琉球に運ばれた勾欄の親柱に1498年 (尚真22年) に建られたと刻まれている。沖縄戦で損傷し、1967年に復元されたものが現在の橋になる。


右脇門

総門の両端には脇門がある。門に向かって左側、総門の地盤より高くなっているところに右脇門がある。右脇門は石造千鳥破風の屋根を乗せた拱門。この右脇門を通ると、山門の背面の仏殿の前面に至っていた。


左脇門

右脇門の反対側には左脇門があり、右脇門と同形の石造拱門があったのだが、石造千鳥破風の屋根は無くなっている。日常的には右脇門よりこの門が多く使用されていたようだ。 左脇門は総門と同一地盤に立って居たが、 戦禍を蒙ったままに放置されている。この門をくぐりったところには鐘楼があり、仏殿の前面、山門の背面に通うじていた。


三門 (山門)

放生池の放生橋を渡ると途中に踊り場が設けられた石階段があり、その上には円覚寺の第二門の三門がある。三門とは、空・無相・無願の三つの解脱門とされているが、山門とも書く。重層の楼門があり、下層部は三間二面一戸で、上層部は勾欄付きの回廊が備え付けられていたそうだ。

創建は1492年 (尚真16年) で、1588年(尚永16年)、1652年 (尚質5年)、1697年 (尚貞29年) にそれぞれ修復工事が施された。 1697年の修復工事の後、上層の須彌壇上に、観音像を中心に、左右に十六羅漢を安置した。この円覚寺は再建が計画されており、この三門が現在工事中で基壇が完成している。工事完了は2023年令和5年3月31日と表示板があった。後10日で完成?よく見ると復元 "整備" 工事とあった。この後の三門復元がいつになるのかが知りたいのだが、那覇市ホームページにあった資料では2023年とあるが、これは三年前のもので、現在ではやっと基礎工事が終わった段階だ。最新の情報では「計画的に進めていく」という巧妙な表現を使っている。役所ならではの言い回しで、苦笑。那覇市としては明確にスケジュールを公表したくないようだ。多分、まだまだかかるのだろう。


山門の奥が円覚寺の中心部で幾つかの建物があったのだが、現在は荒れ放題の空き地になっている。かつては、ここには仏殿、龍淵殿 (大殿)、庫裡、獅子窟、僧房 (御照堂)、鐘楼が建っていた。これらの建物の幾つかも再建されるのかの情報は無かった。


仏殿

三門から円覚寺の中心となる仏殿までは、磚を敷き詰めた参道になっていて、両側面は切石で縁どられていた。仏殿は住職の説法をする講堂で五間五面の重層入母屋造りになっていた。この仏殿は、鎌倉円覚寺の舎利殿に倣ったといわれていたが、その建築様式は、和様式と唐様式を巧みに折衷させながら、しかも単なる引き写しではなく、独自の趣きを持つ琉球建築の構造となっていた。1596年(尚寧8年) に大修理を施し、その後も幾度か手入れがされていた。


龍淵殿 (大殿、方丈)、庫裡

仏殿の背後、寺域内最奥部には円覚寺最大の建物だった龍淵殿があった。大殿や方丈とも記されている資料もある。大殿中央五間四面の一室を龍淵殿とし、その奥三間一面に仏壇を設け、尚円以歴代の王などの位牌を安置した。龍淵とは「王者のすむ所」の意で、転じてここでは、「王者の神位を安置した場所」を表わしている。龍淵の間の北側には二間あり、奥の天井を鳳輦式にし、輪垂木を露出させた一間が国王の休息所で、それに続く広い一室が、随行の人たちの控えの間とされていたと思われる。この二室に面して庭園が設けられていた。龍淵殿の南端の一室は方丈に充てられ、方丈に南接し別棟の庫裡が設けられていた。大殿は、1588年 (尚永16年) と1697年(尚貞29年) に修復工事が行われている。1721年 (尚敬 9年) には、火災で炎上し、当時の住職の覚翁和尚は八重山に流刑、照堂僧は久米島へ流刑、亭僧は伊江島の照泰寺へ軟禁三百日の刑となっている。1738年に大殿を宗廟として龍淵殿と称するようになった。


獅子窟

仏殿と龍淵殿の中間北側に獅子窟が造られていた。開山佛智円融国師芥隠大和尚の塑像をはじめ、歴代の住職の位牌が安置された仏壇が設けられており、創建の当初は御照堂 (祖子堂) と呼ばれていたが、その一部に1517年 (尚真41年) に寄木造りの小象像である獅子像がここに安置されたことで獅子堂とも呼ばれるようになった。1693年 (尚貞25年) 再造されている。1738年、 大殿正中の仏像を御照堂へ遷座している。


僧房 (御照堂)

獅子窟の西に隣接して僧房が建っていた。この場所も以前は御照堂と呼ばれていた。創建当初の僧房は、庫裡の西方、 左脇門を入り鐘楼の東南、厨房・浴室の東にのみあったとされるが、法堂などの役僧が多人数になった事で御照堂のこの部分は僧房として使用されるようになったとかんがえられている。


鐘楼

三門の東南、仏殿との中間南側に鐘楼が在った。この場所に建築される前には、三度移設したといわれる。鐘楼は、三間二面袴腰で屋根は入母屋造り単層赤瓦葺きで、柱は総て円柱であった。鐘楼に掛けられた梵鐘は1697年 (尚貞29年) に、(尚真20年) に鋳造された巨鐘は鳴りあまり良くなく取り換えられたという。この鐘は沖縄第一の巨鐘といわれ、円覚寺鐘楼の二世の梵鐘で沖縄戦直前までは開静 (明け) と世鎮み (入相) に時を告げていた。沖縄戦で弾痕も生々しく残っているが県立博物館に保管されている。


円鑑池 (ビデェティングムイ)

円覚寺之の西側、龍潭との間には円鑑池がある。沖縄方言ではビデェティン・グムイという。円鑑池とは、鏡のような丸い池のことで、首里城内の龍樋から落ちる水は、この円鑑池に入り、龍淵橋の下から龍潭に流れ込んでいる。


龍淵橋 (りゅうえんきょう、リンミーバシ、観蓮橋)

龍潭と円鑑池の間にはアーチ状石橋の龍淵橋が架けられている。1502年 (尚真20年) に築造されている。石橋の本体は琉球石灰岩で、勾欄はニービヌフニとよばれている細粒砂岩で作られている。 勾欄羽目には獅子、龍、麒麟、花、鶴亀、鳳凰、牡丹等の豪華な 浮き彫りの彫刻が施されていた。

龍淵とは「龍の棲む淵」の意味で、古くはこの橋から水蓮を愛でたことで、観蓮橋とも呼んでいただ。戦争で破壊されたが、1950年に勾欄を除いて一部修復されている。

龍潭とこの円鑑池には人懐っこいバリケンがいる。バリケンはフランスガモとかタイワンアヒルと呼ばれ、地元では観音アヒルとも呼 ばれている。本土ではあまり見かけない。バリケンはカモ科で中南米が原産地で家禽化し、ヨーロッパに渡り、フランスではフォアグラ料理に使われている。その後、アジアに広がり、15世紀ごろ中国から沖縄に来たそうだ。この池にはいつの頃か住み着くようになった。地元の人がパンくず与えているのをよく見かける。


天女橋

1502年 (尚真26年) に円鑑池の中島へ石造アーチ橋の天女橋が架けられた。後世観蓮橋とも呼ばれている。1609年 (尚寧21年) に薩摩軍が首里城を攻めた際に破壊されたが、1621年 (尚豊1年) に弁財天像を経堂に安置し、天女橋と呼ばれるようになった。その後、橋の老朽化により1744年 (尚敬32年) に修理されていた。沖縄戦で再び破壊されたが、1969年 (昭和44年) に復旧整備されたのが現在のものになる。

1744年 (尚敬32年) に修理の際に記念碑が建てられている。

天敬元年、その小島に初めて弁財天女堂を建て、その橋を天女橋と名づける。 (中略)この橋、元来は堂字にもたれるように甚だ近くて、構造も眺めのいいものではなかった。(中略) いまの橋は堂字から離して築いたのですぐれた眺めである。 乾隆九年四月二日に起工し、諸人ひたすら仕へ、先を争い後れるを恐れてつとめ、同年六月二十七日に竣工した。


弁財天堂 (ビデェーティンドー)

円鑑池の中島には弁財天堂が復元されている。古くは円覚寺に付属する堂宇だった。第一尚氏尚徳王の時、朝鮮国王より送られた方冊蔵経を収めるため、1502年 (尚真26年) 尚真王の時代に池を掘り中島を築いて万冊蔵経の経堂が建てられた。1609年 (尚寧21年)  薩摩軍の侵略により、この経堂は破壊放火され、方冊蔵経は行方不明となってしまった。 1621年 (尚豊1年) 尚豊王の命により、円覚寺の住職が新たに堂を建て、円覚寺の弁財天像を安置し、弁財天堂と呼ばれるようになった。 沖縄戦で焼失したが、1968年 (昭和43年) に復元されている。


ハンタン山

円鑑池と首里城の間にハンタン山は呼ばれた森がある。戦前までは赤木の大木群があり、その下の泉から湧き出た水が円鑑池に注いでいた。 沖縄戦で第32軍の司令部壕が首里城地下に掘られ、米軍による爆撃を集中的に受けて、 赤木の大木群も消滅してしまった。


第32軍司令部壕跡

1879年の廃藩置県後、首里城は日本軍の駐屯地になり、太平洋戦争では、アメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために、首里城の地下に第32軍司令部壕が造られた。工事は1944年12月から1945年3月に沖縄戦が始まる直前まで続いた。司令部は、5月末に日本軍が島の南部に後退するまで、約1ヶ月間使われていた。ここに指令本部があったことで必然的に攻撃目標となり、4月と5月のアメリカ海軍の戦艦からの大規模な艦砲射撃で司令部壕が集中的に破壊され、その後の地上戦や空襲も重なり、首里はほぼ全てが破壊された。

司令部壕は1本の中心トンネルから5本のトンネルが枝分かれする構造になっており、長さは合計1km程だった。司令部壕はハンタン山のコンクリートの入り口から首里城の下に続き、反対側の金城町に達していた。壕へは5つの大きな坑道入口があったが、確認されているのは第4坑道入口 (金城町・新垣養蜂園の裏)、と第5坑道入口 (県立芸大南東斜面) で、他の坑道入口は現在調査中。壕には、1,000人の士官、志願兵、労働者、学生などのための施設が作られ、兵器庫や技術関連の施設、数多くの事務所、台所、談話室、そして居住区があった。日本軍はこの場所から撤退する際に爆破している。一部は崩壊したが、その他は無傷のままで残っている。戦後、まだ入ることができる部分には崩壊を防ぐために鋼鉄の柱や梁が設置され、安全のために入り口は塞がれている。

この第32軍司令部壕を戦争遺構として保存公開の計画があり、沖縄県では日本軍第32軍司令部壕保存公開検討委員会を設置し検討と調査が続いている。昨年は沖縄各地でこの第32軍司令部壕の模型が展示され、保存公開への機運が高まっている。第2、3、5坑道は既に発掘済だが、公開方法については安全性の検討次第という。まずは観光客が多く訪れる首里城公園内にある第1坑口の公開を2026年、金城町の第5坑口公開は2025年に計画している。第一坑口はまだ場所が特定できず調査中。


トーチカ跡 (A) 

円鑑池に架かる龍淵橋を渡って首里城へ向かうハンタン山の道沿いには、沖縄戦当時に首里城下の地下壕に置かれた旧日本軍の第32軍司令部へ第一坑道付近にトーチカ跡 (A) があり、その上部にもこう一つトーチカ跡 (写真左下) があった。


トーチカ (B)、合同無線通信所跡

道を挟んで別の壕がある。この壕が何に使われたのははっきりしないがトーチカ (B) とも、構造が弁ヶ嶽の通信施設と類似しているので合同無線通信所跡とも考えられている。


トーチカ跡 (C)

更にもう一つあった。これもトーチカ跡 (C) になる。


坑道内の写真が公開されていた。



当蔵町を巡り終わり、いつも立ち寄る龍潭の東屋で休憩。ここにはいつも猫の親子がいるのだが、今日は見当たらない。東屋に座り休憩していると背中に何かが触れている。いつもの子猫だった。いつも人懐っこい。何度も来てかまっているからなのか、今日は膝の上に乗ってきて毛繕いを始めた。沖縄には野良猫が多いのだが、ここまで人馴れしている猫は珍しい。暫く遊んでやり、帰路につくのだが、途中までついてきた。次回はおやつでも持って行ってやろう。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第2集 天界寺跡 1 (2001 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第8集 天界寺跡 2 (2002 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第91集 松崎馬場跡 I (2017 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第105集 真珠道跡・松崎馬場跡 (2020 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第10集 円覚寺跡 (2002 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第70集 円覚寺跡 2 (2014 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第107集 円覚寺跡 3 (2021 沖縄県立埋蔵文化財センター)