須賀敦子とイヴリン・ウォー
須賀敦子が、ラジオの対談でウオーについて語っていたのを思い出した。対談者はフォースター研究者小野寺健氏である(「ドラマで聞くイギリス現代小説」ラジオ第二放送、一九九四年一月一日~三日『須賀敦子全集』別巻所収)。以下に、私が興味を引かれた須賀の言葉を拾っておくこととしよう。
「この人のカトリシズムというのは、私は非常にわかりにくいんですね。」「というのは、グレアム・グリーンとかモーリアックの場合は、人間の個人の魂の問題といういことを非常に言うわけなんですけれども、この人のは、カトリック教会、ローマン・カトリックというものが残した文化について、非常につついていく。その文化とは何かというと、おそらくかなり貴族的な文化につながっているんじゃないかということで(中略)この人のカトリシズムというのは面白いことを考えていて、信仰そのものよりも、むしろ信仰者の社会的な面というんですか、そういうものをかなり皮肉っているんじゃないかということと、(後略)」
「モーリヤックだとかグレアム・グリーンというのは、信仰の中核みたいなところ、神と個人の関係というのか、神と個人の対話ということを非常に気にして書いているわけですね。この人のは、そういうものがない。神と個人の対話というのは、カトリックの中では非常にプロテスタント的なテーマなわけです。ところがこの人は、むしろ綿々と続いてきた俗悪な部分のあるカトリシズムというものを大事にしたいというところじゃないかと思うんです。」
「若い時というのは、神との対話というようなことは非常に気になるわけですけれども、こういうふうに文化の中のカトリック、それからやはり何か大きな枠組みとしてのカトリックというようなものを扱っているというのは、面白いというのではないんですけれど、かなり気になる視点だと思うんです。」
「ウォーの信仰にロマンティシズムというものがどこかにある。だけれども、それを自分で少しずつ殺していくようなところもあるんじゃないでしょうか。」
「私は、現在のカトリックというものが、これからどういう風になっていくかというのはさっぱりわからないのですけれども、少なくとも五〇年代、六〇年代ぐらいまでは、カトリックとプロテスタントの違いの一つは、形のあるものに対するおそれがカトリックにはないわけですね。プロテスタントはどこかで、形があると、それは罪につながるんじゃないかというおそれを抱いている。(中略)二つのヨーロッパの中の対極になっていて、私はその二つの要素が混じりあって戦って削りあって、というようなのが面白くて仕方がないんです。」
「(『ブライズヘッド再訪』は)すべてが信仰に結びついていくあたりは、なにかすごく古臭いような気がしました。」
「私は現代社会というのは、私たちにはとてももう対抗できない。何か強い、おそろしい力みたいなものがあって、その前でみんな、昔アフリカの奥地に一人で迷い込んでしまった白人というような事態になっているんじゃないか、という気がするんですね。ですから、自分でこれからどういうふうに考えていけばいいかわからないという時代のほうが私には親近感が持てて、信仰にもどったからそれで解決がつくというようなものじゃない、というふうに考えてしまうんです。」
「イヴリン・ウォーというのは、なにか非常にねじれてはいるんですけれども、問題の中心みたいなものをどこかでとらえている。」
「ただ、この人の信仰に対する考え方というのは、私にはよくわからないのです。それがイギリスのカトリックと大陸のカトリックの違いかもしれないですけれどもね。イギリスというのは常に、英国国教会に対する一つのアンチテーゼとしての信仰ということがある。日本のカトリックもそういう傾向になるのですけれども、アンチテーゼじゃだめなので、そういうところが弱みじゃないかと思うんです。」
*初出:「神谷光信のブログ」(二〇〇八年三月十四日)