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伊勢志摩国浅間信仰図

14 江戸の富士塚

2015.08.30 09:10

 別稿で紹介した大王町船越の浅間塚の直ぐ下にある、稲荷社の廃屋である。廃屋となっていても、以前はかなり立派だったことは想像がつく。その存在感はこの山の主体たる浅間さんの祠を上回るほどだが、よく見るとその位置は浅間さんからは4、5メートルほど低く、どこかに遠慮が見える。というより、浅間さんの祠は、古墳を改変した形状を留めることに重きが置かれており、結局のところ山全体が古墳の神域であり、稲荷社はあくまでそれに華を添えるため、もしくはこの場の神性を高める為にここにあったような気がする。

 宮川の浅間堤でもそうだったように、浅間さんと稲荷社は仲がいいようである。船越での鎮座は、戦国期だろうか。当時水軍として活躍した九鬼嘉隆は、海上交通を祈願するため豊川稲荷を篤く信仰したという。九鬼水軍の本拠地に近いこの浦に豊川を源流とする稲荷社があっても不思議でない。伊勢の宮川にある浅間堤のものも「豊川」と付き、豊川稲荷を源流とするだろうが、もう少し時代が下るだろう。それでも同じように、度々増水した宮川を渡る参宮客らの水上交通を祈願したという。

絵本江戸土産(歌川広重)立命館大学アート・リサーチセンター所蔵 arc bk-EBI0526.08

 江戸は広くて八百八町、江戸は多くて八百八講、お江戸にゃ旗本八万旗、お江戸にゃ講中八万人、と謡われ、富士講は江戸時代中期に、江戸で爆発的に流行した。富士塚は消滅したものも含めると江戸だけでも70を数えたという。富士塚とは富士を模した、大きさは5メートル程のミニチュア富士である。現在は東京を中心に数基が残るのみである。

  富士登山は、まず体力的に非常に厳しかったので老人子供の登山が難しく、女人禁制であった。また富士講は代替制度であって、男性でも毎年登れるものではなかったので、一年のうち6月の数日だけだったが、誰でも登れる富士として、富士塚の出現は人々から大歓迎を受けた。

 絵図の高田富士は、後に早稲田大学が建てられる新宿西部の高田馬場に、江戸で最初に作られたといわれている富士塚である。高田籐四郎という庭師が、 安永9年(1780年)に製作した。高田籐四郎は、富士講を世に広めた三重県一志郡出身の食行身禄(伊藤伊兵衛)の弟子で、熱烈な富士講の信者だった。富士塚は、その後江戸各地で製作され、江戸っ子気質なのか、どの塚が正統であるかなどが話題となりながら、冨士講信者のシンボルとなった。高田富士は、湧き水で有名となっていた「水稲荷」社境内の古墳の上に作られた。そのこだわりは、富士山の溶岩塊である黒ボクで山の上部を覆って築造されたことからも分かる。溶岩石を、富士から江戸まで持ってくることだけでも大変な労力である。現代となり、早稲田大学の増築により移築されたことで、信者などの反対運動が起こるなか、大学の文学部長、神主、工事業者社長が次々と亡くなるという事態が話題となった。

 富士講の富士塚において興味深い点は、富士塚を作った場所に、以前から別の信仰があったことである。つまり高田富士の場合、そこにはもともと古墳があって、その後そこに稲荷社が社を構え、湧き水が有名となっていたということにある。古墳は成仏や蘇りはもちろん、生きるものが死者を弔う信仰、または死者・先祖が子孫を守ってくれるという信仰などを表しているし、稲荷社はもちろん京都の伏見稲荷を総大社とする稲荷信仰である。稲作とその豊穣、そしてそれを導く水、雨、雷、稲光の信仰を表している。湧き水は、名水を尊ぶ湧き水信仰も意味している。そこに富士の登拝信仰が重なり、信仰が複層化しているのが分かる。

 さらに付け加えると、その後京都御所が大火のとき、前触れなくこの稲荷社由来の「江戸の水稲荷」を名乗る人物が突然現れ鎮火に大きな役割を果たしたという。その人物はその功績を称えられ、水稲荷は「関東稲荷総領職」を賜っている。面白い話である。水稲荷には、火災の厄除け信仰が加わったのである。

 もっと興味深いのは、その他江戸の富士塚のいくつかも、それ以前の信仰が存在していたことである。例えば、埼玉県志木市の田子山富士は、もともと田子山塚と呼ばれた古墳で、そこに室町期、富士で入定(死をもって悟りを得ること)した修験者が、富士入山前に逆修(死の前に自分の冥福を祈る)の石碑を建立していた。その後、偶然にも幕末の富士講信者がその石碑を発見し、自らの富士信仰を発念し富士塚を築造しているのである。これらなどは、富士塚築造前にすでに、古墳という死者を忌う信仰と、逆修石碑の信仰、ふたつの信仰が存在していたことを示している。

 また、西新宿の成子神社にある成子富士は、もともと天神山と呼ばれていた場所にできていて、すでに天神信仰(菅原道真の怨霊が善神に転じたもの。後に学業成就)がそこに存在していたし、西向天神社にある東大久保富士も同様に、天神信仰が存在していた。中央区築地に今も残る鉄砲州富士は、もともと隅田川河口、江戸湊の入り口に位置し、たびたびの高浪から江戸の港を守ったという鉄砲洲稲荷神社に築造されている。ここでもまた、もとあったのは稲荷で信仰は複層化しているのだが、高浪災害を防いだ守護神とは浅間さんとも実体的に通じていて別の意味で非常に面白い。

 守る者が居なくなり信仰が絶えてしまった祭神を吸収する合祀や総社とは別に、神社などにおける信仰の集中は必要となった神を迎える勧請などという方法でたびたび行われてきている。例に挙げた稲荷社や八幡社などは、全国の有名神社の境内に必ずと言ってよいほど存在している。また伊勢神宮は、土宮、風日祈宮などなど、その時代時代に要求された信仰を迎えてきた典型である。それらは合体して同時に並列して進行していった。

 一方、浅間さんのような信仰の複層化は、船越のように古墳、浅間さん、富士修験、虚空蔵菩薩、金毘羅など、それらは同時進行ではなく、ある信仰がそこに存在し、その後そこに新たな信仰が覆い被さるような状態になっているという意味で少し違っているかもしれない。だが、重なりあった信仰では前の信仰は見えなくなるが、そこには確実に存在し、次の信仰は前のそれを取り込みながら、融合しその信仰を伝えているのである。


・絵本江戸土産(歌川広重)立命館大学アート・リサーチセンター

・竹谷靭負「高田富士に関する資料調査と考察」拓殖大学、2008年

・竹谷靭負「富士山文化ーその信仰遺跡を歩く」祥伝社、2013年

・「鉄砲州稲荷橋湊神社」東京都中央区教育委員会