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There are Words THEREFOR

輸血拒否と子への虐待問題に於けるエホバの証人-ものみの塔の教義とは

2023.03.24 23:14

*輸血拒否の教義に関して。

エホバの証人の教義に次のものがある。

口や静脈から体内に血を取り入れることは、神の律法に違反しています。


この教義は次の聖書の言葉から導き出されている。

レビ記17章10~14節(日本聖書協会、新共同訳。以下同)

イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。

イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。


聖書は、命は血にあり、血に生き物の命がある、と告げている。

そして、そのことに於ける教理は次のとおりである。

人間は神に自分の罪の赦しを得る為に、人以外の血を持つ生き物の血を流し、その命を代償にして神に罪の赦しを請う罪滅ぼしなる贖罪を行う(人の歴史の中で紀元前、モーセの律法によりイスラエル民族の人達は行っていた)。血とはそのように命であり、神聖なるものであるので、その血を食用に供することがあってはならず赦されない、が教理である。


動物の血を食用にして食べる行為と、輸血とに如何なる意義の一致があるのか。

教理に於いても全く成立する余地が無い。

1. 命の贖いの儀式とは、他の生き物の命の犠牲をもって人を生かす、神と人との精神世界での儀式である

2. 輸血は、自分の命に別状がない程度の量の血を提供し、他の人を生かす、医学的行為である

この2つのことに如何なる一致の教義を見出すことができるのか。

本質的問題が全く理解されていないエホバの証人の教義である。


イエスの次の言葉は如何に理解しているのか。

マタイによる福音書12章10~13節

すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。

(安息日とは、人の一切の働きを止め、ただ神にのみ仕える日。)


我々人間は、イエスの十字架の贖罪によりあらゆる律法から完全に解放され、命の自由を得ている。

「血を食べるな」の律法の言葉からもである。

例えば、血を食べることが人の生命を維持するものとなるものであるなら、その時例え血を食べることがあっても神はその人を裁かない。人命救助の輸血であるなら当然である。

神は人をこの世に置いた時、人に死を望まず、神の恵みと憐みの下に大いに生きよ、神を求め生きよ(アモス書5―4・6)、としている。


このレビ記17章の律法の前、レビ記7章26~27節には以下の言葉が記されている。

あなたたちがどこに住もうとも、鳥類および動物の血は決して食用に供してはならない。血を食用に供する者はすべて自分が属する民から断たれる。


このレビ記の律法は先ず7章に「血は決して食用に供してはならない」と書かれてあるだけでそのことの教理が記されていない。このことは、この掟の原因が疫病に由来しているものであることが伺える。中東の気候は血を確実に細菌の培地となす。そういうことであるので、決して水の中に注ぎ出せではなく「血は注ぎ出して土で覆う(17-13)」と言われている。教理は17章にあらためて書かれる。


表現で違和感を覚えるのは、血は液体であるにも拘らず「食べるな」である。これは、血が時間の経過とともに凝固していく、その固形物を食しての表現であるなら、疫病への警戒はなおさらであったと理解できる。


そこで、次のことも書き記す。

例えば、「偶像に供えられた肉」に関し、偶像崇拝は禁じられていたので、イエスの救いが実現する以前は食することは赦されないことであった。然し、キリスト到来後の世界でパウロは「何でも食べなさい」と言い、然し、「この知識」がない人に対してはその知識がないままに食べ兼ねないので、その人の良心の為にも食べるな、と告げている(コリントの信徒への手紙I、8章7~12節、10章25~29節)。

このエホバの証人の場合は、間違った教理解釈で過った良心を人に形成させていくものである。


更に、パウロの次の言葉。

コリントの信徒への手紙II、3章6節

文字は殺しますが、霊は生かします。


「文字」とは律法を指す。律法は人を殺す、と言っている。

この意味は、律法とは人に罪の意識を生じさせ、人に罪人の自覚を生じさせる以外の何ものでもない。律法を完璧に守り抜く者は人には存在し得えない。神の言葉である律法を守るとは行いではなく人の心の中にあるものが問われる。もし、律法の1点でも人が行為に於いて、心の中に於いて犯すなら、人は神により裁かれ滅ぼされる者となる。

この律法の呪いから人間を完全に解放したのがイエスの十字架による贖罪であり、イエスを復活させた神の赦しの「救い」である。それが、「霊は人を生かします」の言葉である。

パウロの言葉の意味はこうであるが、エホバの証人は過った教理解釈を行い新たなる律法を規定し、人をどこまでもその文字の中に閉じ込め、人を文字どおり殺してしまう。

イエスは人をあらゆる律法の規定から解放したのである。

信じる者は、命の自由を得ている。



*子に親が鞭を振るう教義に関して。

エホバの証人ホームページに格言13:24「むちを控える人は子供を憎んでいる。子供を愛する人は懲らしめを怠らない。」とある。

格言とは、プロテスタントの教会で採用されている日本聖書協会の聖書で「箴言」である。

おそらく、箴言とヘブライ人への手紙12章から編み出された「鞭打ち」の教義なのであろう。

この教義の体罰的鞭打ちの全ては、信仰の強制・信仰生活の強要と信仰の醸成に集約されるものであろう。

信仰は、人からの強制の力によるものでもなく、また人の力の強制により培われていくものでもない。

全ては、聖霊の働きである。


コリントの信徒への手紙I、12章3節

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。


ローマの信徒への手紙9章18節

このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

(「神は救いたいと思う者を救い」の意。)


この聖霊の働きを信じる者は、断じて信仰の世界に鞭を振るうようなことは行わない。むしろ、信仰の扉は閉ざされていくだけである。


コロサイの信徒への手紙3章21節

父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。


つまりは、我が子の頑なさは親たる自分への神からの試練であり鍛錬なのである。


ヘブライ人への手紙12章5~11節

また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

主から懲らしめられても、

力を落としてはいけない。

なぜなら、主は愛する者を鍛え、

子として受け入れる者を皆、

鞭打たれるからである。」

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

2023/03/25___以上/